映画『どろろ』ヒットして満員御礼状態らしく、第2弾と第3弾が同時位に製作される事になった様です。三部作になるそうです。
それについてはそこはかとない不安(制作費の使われ方だの映画の内容そのものに対しての)を抱きつつも、第1弾の御紹介はまだまだ続きます。
今度は映画と小説の比較です。
小説映画版の小説が出ました。(朝日文庫より出版)上・下巻になってます。
各500円です。勿論!!買いました。
レビューによると「映画観てからの方が良い」という評判なので、映画(DVD)を観てから読んだ方が、良いかも知れません。映画と映画小説の比較も面白いです。
まず『映画の小説化』と銘打ってある場合、映画の話の補足の役割を果たすのは、正しい事だろうか?
映画では描く必要の無い、おまけ=余談の話、所謂spinoffなら話は判るが、正伝の補足物語=解説話、的にやっちゃまずいでしょう。
最近は、そういうのを商売にするのが、流行ってるが見てくれる人をバカにしていないだろうか?
どうも、こういうのは制約内の事(手間・暇の掛かる事。この場合時間内にエピソードをまとめあげる事、つまり描き方の問題)がちゃんと出来ないから、補足しなければ成らなくなるのであって、映画が本を足して理解出来るのが前提ならば、娯楽としての映画は成立してないと思う。
己の力量不足(主にストーリーではなく、プロットの部分)を商売にしてはイカンって事やね。
実際に、映画での違和感のもやもや部分が、小説によって氷解してしまったから、です。
しかし、多分どろろという作品に、最初から特別な思い入れの無い観客(映画の一般観客の少なくとも半分はこういう人達だと思う)にしてみれば、小説の内容は知ろうと求めなければ、(映画だけでは)知る事も無い部分だろうと思う。
どろろという映画小説を、読んでみた限りでは、映画がその通りで無いのが、勿体無いと思った。
ので、このサイトを御覧の人には、お節介にも解説しましょう!!
〜まえがき〜映画と小説の相違点
最大の問題点は、醍醐景光である。
物語の発端を、担っているのだから、当然と言えば当然であるが、この親父の人と成りを描き間違えると、大変である。
しかし、やってしまった様だ。
この世の中では、親が子を売る・虐待する、等は本当はある。
だが、大家族制度の崩壊した、この日本では最小の、人間組織の核家族そのものの崩壊は、タブー視されている。
本当は、そんなに人間は大切なものではなかったはずだ。
このサイトの、別の項でも述べている様に、子供は大勢居た。
スペアの様に、替えが効く様に、死も案外身近なものだった。
大人になる為に、競争して生きた。負けたら、死を宣告されそうで、必死に大人になる事だけを胸に生きた。という時代を生きた者から見れば、今の世の中は、言葉だけ、である。
便利で、使い易くモノが豊富だから、不完全なモノはいらないのだろう。
何でも出来る、完全な人など居ないと言うのに。
生きる為の競争すらある部分、いかに的外れであったか、長ずるに従い実感した。欺瞞だ。
人は、人の為に泣くのでは無い。人は、人の為に生きるのではない。
人は、人になんか優しくない。全部、自分の為にする事なのだ。
だが、それを知らない人間程、自分勝手なのは本当である。
そして、それを知っていながら、他者に犠牲を強いる人間は、もはや人では無い。
景光は、描き方によって、この位差のある人物に、なってしまった様だ。
景光の独白・・・儂は、醍醐景光。息子を、魔神に売り渡した男。
鬼よ、鬼畜よ、と何とでも言うがいい。
だが、儂は儂のした事を、微塵も悔いてはおらぬ。
他に、取るべき道など無かったからだ。儂の仕えておったのは、腑抜けた君主。
戦乱の世にありながら、それを厭うなどと言って憚らぬ、そして己の立場が危うくなれば、部下を見捨て、敵に後ろを見せて逃げ出す、愚かな男よ。
見下げ果てたものぞ。
そんな者の為に、誰が黙って死ねようか?
きっと、明日には敵兵が、この国を蝗の様に襲い掛かり、草木一本残さぬごとく、吾が一族郎党皆殺しにするのは、目に見えておる。
神も仏もあるものか!
なれば、儂は魔神達に魂を売り、息子の身体を奴等めに、与えたのだ。
どの道、この国が敵の手に落ち、わが子も死ぬる運命ならば、同じ事ではないか?
どうせ死ぬのならば、醍醐一族の礎となれ。
お前の骸の上に、儂の天下を築くのだ。
魔道に、堕ちようと構わん。
無能な君主を斬り捨て、儂がその座に取って変わり、天下統一を成し遂げてみせようぞ。
そう思い、今日まで戦い続けて来たのだ。
かような身体で産まれて来た吾子よ・・・。儂を恨んでおろう、憎んでいよう。
が今になって舞い戻って来ようとは!
儂の野望を阻む者とて、報復にやって来たか?お前は一体何者じゃ?
不具の子として産まれ、水に流された幼き神が、五体満足な身体になり、福徳を与える神となって海より、流れ舞い戻ったと言う。
お前は、何をもたらすのか?
儂は怖かったのだ。お前を犠牲にし、魔道に堕ちても良い、とほざきながら、妻と新しい息子と徐々にではあるが、拡大する領土と権力に、人としての幸せに酔っていた。
お前が苦しんでいる時に、儂は魔神の力によって、さして苦もなく欲しいモノを、次々に手に入れ生きて来たのだ。
そう、あの時の決意、お前と言う過去の上に、累々と屠られた屍の山を築くとも、血に塗れ阿鼻叫喚の戦場に明け暮れようと、世を大平へと導く為には、厭わぬと思っておったのだ。
それも最初の事。
鬼神の様に、戦いに身を置きはしたものの、多宝丸の誕生が、儂を少しづつ変えて行ったのだ。
儂は恐ろしゅうなった。
儂が残した禍根を、儂の血肉を分けた息子に、負わせたくは無い。儂は、多宝丸が愛しい。
多宝丸を愛しく思う程に、お前の存在を意識し、憎みすらした。
なぜなら、気付いておったのだ。
これでは、お前を犠牲にした意味が、あるのだろうか?
お前1人に、苦労を負わせて、我々家族はただぬくぬくと、肥え太って来ただけではなかろうか?と。
儂は、しでかした事を後悔などせぬ。が、行く末に対しては迷ったのだ。
お前が、儂の力の源である魔神達を、滅ぼす力を持って現れた時に、魔神達はお前を恐れ、儂の後ろめたさに目を付けた。
今一度、お前を亡き者にせんと、儂との契約を、思い出させたのだ。
だが、儂の責め滅ぼした隣国の残党が、儂の最愛の家族を奪った時、魔神が儂の身体を取り引きに、多宝丸を生き返らせようと持ちかけた時に、お前は言った。
この世を、魔神の支配する世にだけはしてはならぬ、人々の血と涙を増やすな、その為には自分を犠牲にしても構わぬ、と。
その時に、儂は負けた。儂の野望も、浅はかなものであった、と思い知らされたのだ。
儂は、魔神にこの身までも、売り渡そう。もはや、この儂に出来る事は、儂を信じて争いの無い世の中を、築こうと頑張って来た多宝丸と、強く正しく深き慈悲の心を持つ、もう一人の息子に未来を託す事だけだ。
息子よ、今度は儂の屍を越えて行くのだ。
息子に斬られる事が、そうして身体の一つも返してやる事が、儂のせめてもの償い。
しかし、魔の神々も凌駕する、男になって戻るとは。末恐ろしゅう育ったものよ・・・。

と、大体醍醐景光さんの、心の動きはこんなもんだと思います。
小説から読み取る限りではね。
これが全く、映画では判りづらい。エピソードの省略?
みたいなものが絡んでいるので、支離滅裂なおっさん化、しています。
その辺の詳しい解説もしてみます。
小説では、ちゃんと描写されているが、映画では描かれていない為に、訳わかめになっている部分、に付いて解説してみようと思います。
まず、景光の下克上の部分。
如何に主君がダメダメか、のダメダメ振り(大平の世なら名君)と景光の特異性(戦が得意な武将)との対比。
これが無い為に、映画のみでは負け戦に腹かいた男が、魔神に自棄糞言ってる様にしか思えない。
なので、映画では原作漫画の、己の野心満々の生贄として、百鬼丸を扱った鬼畜親父、を彷佛とさせますが、小説では子供を犠牲にする限りは、自分も某かの覚悟をしているっぽい部分もある。
ここが、本当の根っこの部分なので、省略しちゃダメだろう!と言いたい。
そして妻への思い、馴れ初めみたいな部分は、いらないかも知れないが、小説では妻を斬り殺してはいない。
それ所か、政略結婚や逆玉の輿の様に、周りからは思われているが、歴とした恋愛結婚らしく意外に妻を大切にしている。
妻が死んだ時も、良い女だったと述べている程だ。
醍醐景光が滅ぼした、隣国の大将の一族の生き残り=所謂残党、に家族が復讐されてしまう(←景光妻の百合と多宝丸。と景光の隠し子とされる、百鬼丸もやられる所だった)のである。
これでは全然違う。
自分で家族を殺すのと、殺されるのとでは明らかに違う。
そして、コレ無くしては、百鬼丸に対する思いが判らない。
弟多宝丸に、兄百鬼丸を重ねていたのは、他ならぬ景光(母では無く)であったらしい部分。
これは、映画でも描くべきだった、と思う。
景光が、魔神に乗っ取られる瞬間に、回想した部分。
多宝丸誕生に景光が涙し、兄の分まで幸せにしてやるから元気で育てよ、と言う部分。
これで=これがあるからこそ、百鬼丸の魂は救われたのである。
父は、やむを得ず自分を犠牲にしたのだ、と言う会話も無い。
これは澪の所で述べるが、景光の滅ぼした一族の残党が、生き延びながらした残酷な現実に、戦国の世の非情さを、身を持って体験した百鬼丸であったので、父がそうせざるを得ない事情(自分達がそうなっていただろう現実)を、その時に理解出来た事にも繋がるのだ。
人間ドラマを描くにも、魔神退治を描くにも、中途半端になっている。
これがもやもや部分。
もう少し、以上の部分さえ、小説の通りに丁寧に描いていたなら、傑作になっただろう、と思う。
ちょいと、思い付いて付け足しね。
蛭子=恵比寿の他に、恵比寿=少名彦名命であると言う信仰もある。
だから、相棒の大黒=大国主命(余談)とペアで信仰されているらしい。←2人が揃って国造りしているからだね。
少名彦名は、一寸法師の原形だし、薬事を治めているので、医者っぽい=寿海の息子、だから少しは知識もあると思う。
百鬼丸の着物が、錨柄なのも、海から来た人の目印みたいだし、どろろが泥棒で袋を抱えていたりする描写も、大国主の姿っぽいし(本当は下男姿。だとすると、最下貧困層に属するどろろは、ここでも同じ様に、卑しき者として描かれているので、共通性あり?みたいな)
手塚先生は、多分そこまで意識してない、と思うけど、無意識に何か働いたのかも?知れないですね。
〜どろろに登場する女性達について〜
その1 どろろ
どろろが、原作と違い大人の女である事の、賛否両論である事は、皆さん御承知の通りです。
どろろが、大人の女であるのは、まず役者(=柴咲コウ)ありきで、原作を捩じ曲げられた、というニュアンスを、事情通なら感じ取ってしまうからだと思う。
では、まるっきりミスキャストで、出鱈目か?と言うとそうでもない。
どろろが、大人の女だからと言って、物語が劣化するとは思えない。
確かに、アニメでは保護者と見紛うばかりの、百鬼丸と子供子供したどろろが、描かれている。
が、原作漫画では、もう少し仲間意識も、働いている様に思える。
とすると、どちらかと言うと、二人の関係はフィフティフィフティ、な部分が復活している。
外界から、隔離の様にして生活していた百鬼丸にも、どろろが大人の女である事は、どろろが子供であったよりも、もっと良い刺激にもなるはずである。
そして、男はやはり女の優しさに癒される。
酷く傷付いている百鬼丸も、どろろのそういう所に触れれば、成長もして行くと思う。
が、映画では、どろろの自己の女としての、自己嫌悪に似た表現、が少ない。
生贄になり易い、自己の最も弱い部分が、女である。
それを制御して、どろろは生きて来たのである。
背丈は、伸ばしても良い。が、体型はスレンダーで、少年らしくはあっても良いが、女のそれではイケナイ。
意外に、執念に似た意志力を持てれば、自己の肉体もある程度は、思い通りに行く。期間限定だが。
その間に、自分の弱い部分を強くすれば、後は成長させても問題は無い。と言うのを実践した身としては、どろろの気持ちが判るのである。
誰も保護してくれないならば、自分で自分を守るしかない。
危険を少なくし、回避する為には目立たず、弱味を見せず、余計な人脈は作らず、それが原則だ。
どろろの場合は、女として目覚めたり、目覚めさせられたりして、母親になってしまったりしたら、自分と子供を守らねばならなくなる。
母親が、自分を守ってくれた様に。
母親は、そんな苦労を娘にはさせたくはないと思い、どろろも母親との放浪で、足手纏いの自分を嫌と言う程知り、だから父親の様な、家族を守る男に出会わなければ、どろろは女に戻れないのだ。
それは、母の願いであり、娘の誓いでもある。
しかし、期間限定なのは、いくら自分の性を誤魔化そうとしても、性的嗜好がノーマルなら(ホモ・レズではないなら)いつまでも意志だけでは、肉体を誤魔化し切れないからである。
映画には(小説もだが)そういう葛藤が無い。
そして小説では、懐中物をすられた男が、どろろを捕まえて取り返そうと、どろろの身体を探り、どろろは嫌悪と恐れを感じて、嫌と言う程男を叩きのめすのである。
が、映画では身体を探られる描写が無い為に、どろろがただの乱暴で厚かましい、泥棒女にしか見えない。
無垢な女の、悲しさが無い。そして、一番相違があり納得出来ないのが、映画のどろろが百鬼丸の、本当の素性を知り、激情のあまり百鬼丸を刺してしまう部分。
せめて、手許が狂って刺し損ねてしまう、なら良かったのに。(腕を刺して、どろろが欲しかった刀に当たってカチンと音がするとか・・・)もしくは、百鬼丸がどろろの気が済むように、傷つけさせるなどである。
小説では、かなり葛藤しつつ憎んでも、共に旅をし、魔神達を退治して来た百鬼丸を、結局は傷付ける事が、出来ないのである。それが正しい。
いくら男を装っても、好きな男には刃物なぞ向けられない。
女が男を傷付ける事は、即ち自分を壊す行為、だからである。
その2 澪
澪は、映画に登場しませんでした。
と言うよりも、この設定では、成人映画でなければ無理!
それでなくても、この映画はPG-12=中学生以上の鑑賞が望ましい、らしいと言う指定、なんだからね。
原作の対象が、小学生高学年位からだと思うので、書き手はちょっとバカバカだと思う。
手塚先生だって、澪が春を販ぐ事を、臭わせるニュアンスはあっても、明言していない。
そこまでやると、悲惨過ぎてドン引きしてしまうからだ(それを小説でやっちまうんだから)。
澪が、百鬼丸に与えたものは、己の無力感、人に対する憎しみと、弱者の悲しみやるせなさ、生きる為に生き物を殺める痛み、等だった。
そんなものを、女から与えられた日には、確かに忘れられない人、になっても不思議は無い。
だが、それではどろろが、大人の女である必要は無くなる。
対比される女としての、優しさや慈しみ(人間としてではなく、あくまで女性としての特有のモノ)をどろろは、おおっぴらに百鬼丸に与える事が、出来ないからである。
それもあって、映画では澪の部分は、カットされたのかも知れない。
だが、異端な者に対する差別や、それでも見い出す希望や、ひいては民衆の理不尽に虐げられた者達の憤り、守られない者の精一杯を、百鬼丸に理解させたいならば、それを与える役割はやはり、寿海でなければならなかったと思う。
よほど寿海が過保護だったのか、ゲーム同様に百鬼丸は世間知らずだった様だ。
寿海の死後、世間の荒波に放り込まれて、苦労した。
よしんば寿海ではなく、世間に教えてもらうのなら、小説での真のテーマ、父の情愛になぞり市井の親子を出せば良かったのだ。
不具の子、百鬼丸を拾って慈しみ育てた寿海と、妖しとの間に産まれた子を守る鯖目と、生活苦から子供を寺に捨てる親達と、百鬼丸を生贄にし捨てた醍醐景光と、同じ様に描いた方が良かった気がする。
まあ、何が言いたくてダメ出しするのか?と言うと綺麗事だが、百鬼丸の初恋の人が、ヘタイラではなくポルノイ扱い、だったのが悲し過ぎるのである。
それに、存在が鯖目の奥さんが、成り変わった存在(これも映画では設定が違う)、寺の尼、慈照尼の生き仏の存在と、明らかに被っている。=他の者の為に己を犠牲にする所。
それならむしろ、どろろとの対比で、澪は子供達を養う為に、仕方なく金持から騙し取る悪人の片棒を担ぐ、みたいな感じで描いた方が、ましだった、と思う。

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