『どろろ』映画の感想です。
ブログじゃ無いのよサイトなの。
ヨロシクね! 映画関連のグッズも溜って来ました。
パンフ類とかクリアファイル、パーフェクトガイドなど。今なら手に入れ易いものばかりです。が、お宝に変わりなし!!
うpしてます、見てね。
映画の感想。以下当然ネタバレ続々なので、未見の方は御注意下さい。
登場人物評
まず、寿海役のヨシオ、グッジョブ!。さすがわ原田のよしおさん。
テレビ版の、リングの怪演も、無気味に素敵だったが、この寿海も『呪医師』なんて変なネーミング見た時は、外したかとハラハラした。
が、グッジョブ!
フランケンシュタイン博士ばりに、やってくれちゃったね。
もう、原作からの容姿が、懸け離れているのは、この際関係ない。
要するに寿海の本質がどうか?である。
百鬼丸の身体の忌わしい製造方法=戦で死んだ子供の身体と、怪しげな薬とを原料に、装置で作り上げる様は、中世のアルケミストみたいで、隠遁生活を送る医者にふさわしいよ。
彼の元々の研究目的が、戦で手足などのパーツを失った人達のために、人工的なスペアパーツを作る事、だったらしい。
忌わしさと正義感?が同居していて、あまりにもうさん臭い。良いね!こういうの好きよ。
次に琵琶法師役のカツオさん。
よしおさんとの絡みは、特に締まるね。
時代劇(必殺の鋳掛け屋役)思い出しましたよ。
両ベテラン俳優は、余裕があって場面に締まりが出る、と思う。
原作でも、琵琶法師は百鬼丸の人生の、水先案内に近い役回りをしているんで、百鬼丸に何かあると、ひょっこり出て来る。
が、どちらかと言うと、人生相談をしている様な感じである。
もしかすると、琵琶法師もなんのかんの言いながら、百鬼丸の行く末が気になっているのかも知れない。
映画では、名無しの捨て子に、魔を切る刀=刀の名前が百鬼丸である、を与えている。
これで彼、百鬼丸の人生は、決まったも同然なのだ。妖刀百鬼丸は、復讐の為に作られたからである。
だからやはり、百鬼丸も身体を奪った魔物達に、復讐を果たす運命なのである。
(1/28)
小説を読んでから、と思ったが『小説に、補完してもらわなければならない映画は、ハッキリ言って駄作!』だと思うので、映画を見た感想を書きます。
小説に影響されない方が、率直に書けると思うので、やります。
どろろの映画自体の感想としては、どうも、全編にパクり臭が(って言っては口が悪いが)プンプンすると思う。
なので、最初は気になる安易な、パクリと思われる部分、に焦点を当ててみたい。
まず、あの映画っぽいな?、と思った。
最初の百鬼丸登場は、ハン・ソロ(スターウォーズ)が人探しで、とある町の酒場をうろつくシーンにも似ているし、踊子の衣装も(ベリーダンスかよ、オイオイ・・・)レイラ姫のに似ている気がする。
もっともこれは、レイラ姫の衣装が、それっぽいから単純に、かぶっただけであると思うが。
百鬼丸の登場シーンで、場面的には思いっきり日本なのになにかそぐわない。
つまり違和感を感じたのだが、ふと、そう言えば作品紹介に、過去か未来か判らない場所での事、とあったなと思い出し、ちょっとブレードランナーをも、思い出してしまったが、それと比較してしまうと、これは町自体が無国籍風でもないしな、と思った。
外すなら、思いきり一見和風の、オリジナル世界にした方が、つまり冒頭の登場の場面の雰囲気で、押し通せば良かったのである。
直ぐさま、和風テイスト全開になったので、余計に登場部分だけが、浮いてしまって何だこれ?状態。
それにも増して、違和感ありまくりなのは、一部のアクションだと思う。
最初は、ゲームまんまの動きを、百鬼丸がしているので笑ってしまった。
あまりにもアクロバチックなので、びっくりはするが、カンフーベースの動きが、剣技には合っているかどうか?疑問が残る。
それと、一部の妖怪との戦闘シーンは、響鬼さん?と思ってしまった。
初回の響鬼さんと、土蜘蛛との戦いを、彷佛とさせてくれました。
それからゲーム版の、爆裂童子っぽい(攻撃)のもあったし、鴉天狗はポピュラーな存在だが、わざわざ登場させるのは、やはりゲームを意識して、そこから取ったのか?と思ってしまった。
(醍醐城もゲームの醍醐城だったし・・・)それから一つ言わせて欲しい。
四化をああいう形で出さないでほしいです。
四化入道は、私的に結構こだわりあるキャラなんで。
それから百鬼丸の、腕の仕込み刀についてだが、これも獣の槍?(うしおととら)
極め付けは、百鬼丸が父親を「父さん」と呼び(頼む! 百鬼丸、父の事は親父と呼んで)
景光がそれに応えて、ってこれこそスターウォーズ!!(1/29)
2ちゃんねるのどろろ関連のスレ全部に、某ブログの『どろろ批判』が貼付けてありました。
とりあえず変だ!、と思う部分は反論したり、同意部分には、賛同してみたりしたいと思います。
1)映画の中で一度も「片輪」とも「びっこ」とも「めくら」とも「つんぼ」とも言わない。
2) CGが『デビルマン』並
3)百鬼丸が空を飛んでる。ものすごく強い。スーパーヒーロー。しょぼいCGでぴょんぴょん飛ぶ。
4) だいたい刺されても死なないし。
5)そもそもSF(未来なのかパラレルワールドなのか知らないけど)。
6)どろろのセリフがすべて説明ゼリフで、むしろどろろが唖の方がよっぽど良かった。
7) 百鬼丸が人を切らない。人間はみんな峰打ち。
8) 子供が殺される場面がない。
9)百鬼丸が醍醐景光に会ったら説得したりしている。話せばわかるって感じで。
10) そしたら醍醐景光が最後改心する。

それに対する考察
1) どろろの面白さは、差別用語にあるのではない。第一、差別用語を使われていないから、百鬼丸が差別されていない、と言う訳ではなかった。
(十分に、コードに引っ掛からない言葉で=化け物と呼ばれ、しっかり差別もされている。)
実際に、石持て逐われる様だけでも、十分過ぎる差別であると思う。
人は、言葉で傷つく。だが、直接的な行為には、もっと傷つくのではないだろうか?
そして、百鬼丸はめくらで、つんぼで、びっこでかたわ、である。
逆にそれを言ったから、作品がどうなるのか?意味がわからない。
ブラック・ジャックでは、これを言わないと成立しない、という作品が確かにある。
それはわたしも言うべきだと思う。
しかし、それを言うのが「どろろ」という作品なのだろうか?
「どろろ」と言うのは、差別用語を言わなければ、成立しない作品なのか?を考えれば、このダメ出しの答えは出ると思う。
2) いやCGは響鬼さん並。
これは、何とも悩ましい。
3) アクションが、カンフーの風味なのが問題。
飛ぶ場面はもう少し、なんとかして欲しかった。引っ張られる飛び方だから。
もっと、自ら跳躍してる様に、見せ掛ける事が出来れば、良かったのだと思う。
4) 部位を奪還してないから、その部分は刺されてもダメージ受けないのである。
これは、漫画の方でも背中を射られても、背骨を取り戻してないから、気絶で済んでいる
ちゃんと原作読みました?と聞いてみたい。
5)SFでも結構なんです。
ただ、世界観に統一性の無いのが問題なのだと思う(前回の問題点列挙)
6) コウ(どろろ)はキンキン声出し過ぎ。
いつも、怒鳴っている感じなのは、どうもね。
もっと喋りに、メリハリがあっても、良いと思う。あ、もともと舌足らずっぽいか。
大事な部分は、怒鳴らずに反対に低く、ゆっくり凄み=ドス効かせて喋るとかね。
ただし、説明台詞だとは思わなかった。
7)景光の事は斬っている。というか、あの百鬼丸という刀が、人を斬れないのか、それとも百鬼丸が、修羅場をくぐって、あの最期のレプリカントのように、人の命(命や身体)ですらも、百鬼丸には尊く思えたのかも知れない。
8)子供は殺される、って言うより喰われる、が正解だけど、子供がひどい目に会う、と言うのはせめて映画では見たくありません。
まさか、実際にはないなんて思ってませんよね?
9)百鬼丸が、景光を説得するのに、違和感を感じるのは、恐らくモノクロアニメが、どろろだと思っているからではないかな?(原作漫画でも追放するだけ)
ゲームがお馴染みの人には、世間知らず兄貴らしいな、位にしか思わないでしょう。
憎んでも、憎み切れない人の良さが、兄貴らしいが、景光の動機の設定が大幅に違うので、話せば分かりそうな気は、わたしですらする。
10) 景光が、改心するのも、魔神に心を操られていた、ゲーム版からどろろを始めた人には、アリ、なのかも知れ無い。
ただし、唐突感は否めない。
そこのへんの心の動きを、貴一っつあんに任せないで欲しい。
ちゃんと、そういう見せ場作ってほしい。中井さんは、芝居がうまいんだから。
(ちなみに中井貴一は歌もうまい。すごく良い声だ。声だけなら百鬼丸も、アフレコでやれそうだ)
脳内補完するなら、元々は息子が野望と、同じ位の大きさを持っていたんだろう。
だから魔神と取り引きをした。等価交換、というやつで、わが子の百鬼丸には、それくらいの価値がある、と本気で思っていた
そして、百鬼丸の懇願につい心を動かされた、と。
まあ、それにしても、描写不足は確か。
あと多宝丸の部屋がチャイナ風、とあったけど、あれは赤影っぽい。
ギヤマンとか、バテレンとかそんな感じ。
単に多宝丸の趣味でしょう。ウイスキーみたいな酒も飲んでいたし。
西洋かぶれを、表現する時ってあんな感じ、じゃ無かったかな。
閉鎖された世界に生きる、多宝丸の広い世界への憧れが、あの部屋だと解釈してるんで、問題はないです。 って今回はこの位で。次回は妻夫木君讃歌!!で(笑(1/31)
百鬼丸=妻夫木聡。最初彼の主演配役を知った時、正直どうかな?と思った。
これTBS主催?らしいから、まず『どろろやりましょう!でも、俳優はTBSに縁のある人達の、中から選んでね』、もしくは『妻夫木と柴崎で、何か映画撮ってくんない?』って話から、決まってしまった気がする。
前者だと、じゃあ百鬼丸は妻夫木君で、となると柴崎を相手役に。
百鬼丸の相手、と言えばどろろ。じゃあ柴崎は、どろろ。しかし、どろろは子供。だが、柴崎は大人・・・。ええい、設定を変えちまえ。見たいな感じかな?
後者だと、どろろやりたくて、無理矢理当てはめた感じ。
まあ、どちらでも大差ないですけどね。それが良いか悪いか、は映画の出来じゃあないんでしょうか?
そして映画は、見る人の数で決まる、のであります。映画とは、娯楽の事ですから。
まあ、どろろを実写映画化の功績は、素直に誉め称えたいです。
どろろは、まだまだマイナー所なんでね。世間に、認知させただけでも、素晴らしいと思います。
そして妻夫木君ですが、顔はそこそこ整っている様です。
(鼻がちょっと独特ですが)
体格的にも、今の状態なら悪く無いです。
(彼は、体質的に食とか気を付けないと、将来太りそうな気配が)
そして、もちろん主役なので、演じてカッコ悪くなる訳が無いです。
原作の、濃いファンには、駄目出しされそうですが、ゲームなら良いんじゃ無いかな?
素直で、世間知らずな兄貴。寿海の言う事が、世界の全てである百鬼丸。
人々から疎まれ、迫害を受けてもジッと耐える。しかし、漫画原作では彼の心は、渺々たる平原に風の吹くなり。段々と渇いて行く。
ゲーム版では、悲しみにしとどに濡れ行く。位の差がありそう。
妻夫木君は、もちろん後者の百鬼丸である。映画では、当然妖怪との戦いの、描写は外せない。
動きがカンフー風でも、ワイヤージャンプが牽引気味なのも、承知の上でも、やはり妻夫木君はカッコ良かった。
最初の手相観に「死んでるんじゃ無いか?」と問われた時の、無表情から劇中で部位奪還を果たし、気持ち的にもどろろとの、触れ合いの中で変化が現れて、最後は笑ったり、人間らしさも取り戻して行くのが、ちゃんと演技されていたと思う。
そして、何しろ癒し系特有の、ボーッとした感じで、何考えているか判らない様が、百鬼丸の常人離れした秘密めいた、神秘的な雰囲気に通じるものがあった。
いわゆるアルカイックスマイル、というものに近いかも知れ無い。
そして、個人的な趣味で言わせてもらうと、あと一歩、部位奪還の時に、苦しんで欲しかった。
首筋に血管出てたけど(良くやった!)声も「いてぇ?」とか、少し大袈裟に痛がってくれると、更に萌えました。
まあ、妻夫木君には、文句なしに及第点が、与えられると思います。(2/1)
映画を観てから、色々と感想を書いてる気がしますが、何となく全然言いたい事が言えて無い気もします。
このどろろは、映画ではなくテレビの特番で、これだけやれたなら、絶賛の嵐だったろうと思います。
お金が掛かるから、テレビでは無理!なのでしょうか?では、どこにそんなにお金が掛かっているのか?ですが、どうも海外ロケ費っぽいです。
景色代ですか?
その割には、何にも無い平原と、砂と最後の意味のあるか、無いか判らない海、を見せられても、ただの背景ですから、感心するとかあんまり無かったですね。はっきり言って。
こんな所こそ、チープに誤魔化して、他に予算回した方が良かった気が。(それと海外に地獄堂建てて燃やしたと得意げに?ありましたが、『クウガじゃないんだから』無駄は止めて下さい)その分を他に回せと(略 
それと、大山椒魚はゴジラみたいに、直立ではなく匍匐させた方が、良かったんじゃないかな。
攻撃する時と、やられて暴れる時に、立ち上がった方が、おおっ、と思う。惜しいです。

オリジナルとも思える、良い部分についてですが、まず原作の琵琶法師が、あくまで通りすがりなのに対して、映画の琵琶法師が、百鬼丸と因縁めかせる存在にする為に、刀を百鬼丸に与えた(それを寿海が仕込み刀にした)所。
そこから名前に付いての意味=自分を表す暗号、人間の相関関係にまで広がるのです。
ここでは、名前から意味が違います。
景光の息子に、付けられるべき名前が多宝丸で、百鬼丸とは妖怪への復讐の為に、作られた刀(妖刀ノ似蛭?)の名前です。
そして、どろろとは遠い国の言葉で、化け物小僧の事らしい。
百鬼丸は、自分が何なのか判らず、自分の意義、つまり妖怪への復讐者であり、出来損ないの化け物の身体を持つ者である、と自分そのものを指し示す言葉で、自虐めいて自分をそう呼んでいます。
そして彼は、出会う人毎に尋ねずにはいられないのでしょう。「俺は何に見える?」と。
しかし、彼は多宝丸にはなれないでしょう。
多宝丸とは、五体満足の親の期待通りに育つ、息子にしか与えられない名前だからです。
 だが、本来の多宝丸のスペアである、弟の多宝丸はその事実を知り、彼もまた自己の存在に、疑問を呈する様になります。
正当なる嫡男の存在に、その座を奪われる事を危惧した多宝丸は、嫉妬と混乱のさなか荒れ狂い、怒りに任せて百鬼丸を亡き者にしようと---。
ここまではイイ! やってくれたな、タホちゃん!!と思ったが、やはり甘いお坊ちゃんだった。
甘さは父譲りだ。
 しかし、最後に百鬼丸の額に、景光と同じ傷が付く、というのは何なのだろう?
景光の額の傷とは、魔神達との契約の証である。
それを、息子である百鬼丸が、受け継いだというのか?
甘い見方をすれば、景光は元々一族郎党が、戦いの中で犬死にするのが嫌で、魔神の力を借りてでも、天下統一を果たし、平和な世の中にしたいと思った様だ。
その志を、父の道具となったからこそ、百鬼丸に受け継いで欲しくなったのかも知れない。
あまりにも身勝手な男だが。これらの物語は、琵琶法師のかしこでの解説なしには、繋がらないに違い無い。
なのでむしろ全編、琵琶法師が語る物語、としてあった方が、スッキリした気がします。
物語もきっちりと、まとまって終わっているし、映画としてはまあまあ満足いく出来だと思う。
だが、唯一今後の懸念としては、この映画は明らかに、人間ドラマに重点を置いている事。
そしてもう重要な部分は、全部終わっちゃったのである。
なので、続編は身体を取り戻す戦い、しか無いから作られない気がするが、作られたら程度が落ちるか、心配だねと言う事。(2/2)
どろろ=柴崎コウさん。
今回は題名の、どろろさんに付いて、考えてみたいと思います。
物事は、一本調子では詰まらないので、直ぐに飽きられる=面白味が無いからである、と思います。
どろろを演じている、柴崎コウさんも、熱演?まあ健闘しているのは認めますが、残念ながらこれが当てはまってしまう様です。
女なのに、男を演じている訳ですよ、図らずもどろろという存在は。
原作とゲームのどろろは、まだ第二次成長期前なので、男女の区別が明確では無い。
身体も心も、曖昧な部分がある。
大人のどろろには、それは無いハズである。
嫌でも、女の身体を意識してしまうだろうし、正常?なら男に心惹かれるだろうし。
それを、男で通さねばならないのは、本当の男が現れるまで(ここぞと言う時にしっかり守ってもらえる様になるまでに)自らが男となり自分を守る為なのでしょう。
戦乱の世の中では、悲しいかな女子供が、荒んだ者達の餌食になる。
それ故に、弱者は目立たぬ様に、そして強くならなければならない。
 どろろが、小奇麗にせずに、いつも乞食みたいな格好なのも、身を守る為なのだろう。
しかし、だからこそ百鬼丸の前では、ふと見せる女らしさが(仕草や言葉遣いなど)出てしまう演出があれば、良かったのだと思う。
片意地張って、突っ張って乱暴に生きている、獰猛な動物の様などろろ、は演じられていると思うが、元気が良い=うるさい、ではない。
あんなに声を、張り上げてばかりいる必要は無い。
動作も言葉遣いも、ただ荒々しいばかりで、これではおとこおんな、なだけである。
恐らく、柴崎どろろに足りないのは、演技の緩急である。
尤も、そう注文を付けられて、どろろを演じているなら、そう注文した者こそ、罪に問われるべきでしょう。
ただ、どろろの存在は、子供のどろろよりは大きくなっている分だけ、百鬼丸に救いをもたらしている様です。
それは、百鬼丸がしたくても、慣れていない事=泣いたり怒ったり、をどろろが代わりにしているから、なのです。まあ、それと男は女に、そして女は男によって、癒されるものなので。
この辺りの演技は、とても良かった様に思う。 (2/4)
映画のここが不満!!もやもや?な所を妄想で補完しよう!
と、疲れ切って頭の中身が、そろそろ香ばしくなりつつも、頑張ってお贈りさせて頂こうと思います。
まず、醍醐景光が魔神達の集う、地獄堂に押し入る場面があるが、ここで何か魔神に目を付けられる、元々になったエピソードを入れて欲しかった。
景光は、自ら地獄堂に行ったのでは無く、誘き寄せられた、なら面白いかも知れ無い。
〜妄想その1〜 
設定=地獄堂とは、信心深き醍醐家が、因縁いわく付きのある仏師が、彫った彫刻の魔神(各地で災いを引き起こした)を引き受けて封印し、徳の高い僧侶に守り番をさせていたのである。
景光は、醍醐家の跡取りではなく、次男であった。
しっかり者の長男と、その婚約者である縫の方(百鬼丸の母)への横恋慕からの凄まじい嫉妬、に苛まれそれを魔神に付け込まれた。
お堂の外に貼ってあった、お札=結界の一部、を剥がす事を条件に、長男の事故死が起こった。
最初は罪の大きさに、恐れをなして地獄堂に近付きもしなくなった景光だったが、野望の前に再び、地獄堂を訪れた。
そして、その最大の悪行(百鬼丸の身体を魔神と取り引きに使った)の為、それまで加護を与えていた神仏は、醍醐家からその守護の手を引き、醍醐家の氏神さえも表立っては、行動出来ずに沈黙せざるを得なかった。
が、縫の方の母の愛のお陰で、かろうじて百鬼丸は、寿海に引き合わされ、お堂で御告げを貰えたりもしたのだ。
〜妄想その2〜 そして、名前の由来の刀の、最初の設定に、妖刀百鬼丸は、48の魔神の姿が彫ってあった、とあるが、刀の妄想設定=むしろ仏の姿が彫ってあり、部位を取り戻す度に、その部分の彫刻が薄くなり、まっさらな刀になる。
これは魔神を倒す事=人々を災いから救う事、で醍醐家の罪が購われ、仏も再び戻って来る、と言う意味になって面白そうかな、と思う。
 眠いので今日はここまで次回につづく、かも知れ無い。(2/6)
どろろ映画は、ゲームを確かに意識していると思われる。
どろろと言えば、万代の章と、妖刀似蛭の章が、ゲームでも圧巻であった、が漫画でもアニメでも、見所満載な話だった。
しかし、映画では見事に、スルーされている。
これは、ゲームでも語られている、百鬼丸とどろろの冒険談(?)は重複してしまう=比較される、のを恐れて敢て外したのだろう。
かと言って、ゲームでは削られた話である、マイマイオンバの章が、映画では成功しているか?と言えばそうでもない。
異種婚、と言うのは本人達にすれば、結構覚悟のいる事である。愛、の存在がまず前提。
しかし、映画ではマイマイオンバ、は色香で鯖目を篭絡し、子孫繁栄の為にのみ行動している。
鯖目には、まだ愛があったが、マイマイオンバには愛は存在せず、ただ男を利用している。
それなら、同じ世界から雄を連れて来て、勝手に子孫繁栄させれば良いだけである。
わざわざ、人間の男との間に、子供をもうけるのには、何かやはり感情的な流れが、なければ無理だと思う。
それを、劇中で感じさせなければ説得力が無い。
禁忌の愛、をテーマに描いてくれれば、どろろの物語にも深みが出ただろう。
それともう一つ、気になったのは、多宝丸について。
多宝丸=瑛太はのっけから髪型と服に笑わされてしまった。
多宝丸と言うキャラ自体が、ゲーム・漫画・アニメがあまりにも、共通の容貌の為に、この映画では違和感があるかと思ったら、だんだんと本当に、ボンボン息子っぽい軽薄な感じが漂い『弟君だ』と思われ、中々良い配役だと思った。
ゲーム・小説に通じる多宝丸が形作られていた。
しかし、魔神との契約での蘇り、については異論がある。
魔神が、まともに契約を守るとは?
もし、続編があるなら、魔神が多宝丸に、何か仕掛けておいて、それが多宝丸の中で育ち爆発し、百鬼丸抹殺に向かうと面白いのだが・・・と、また妄想に走りそうな所で、本日は終わります。(2/7)
映画の感想も、ちんたらちんたらと書き続けて、もう出尽くした感じです。
まあ、
賽の目の三郎太の様な、ライバルキャラが出て来なかった(多宝丸では弱い)のと、どろろの親の仇が、醍醐景光で、その息子の百鬼丸の事を、どろろが憎さのあまりに、刺して殺そうとする=部位が戻っていたら(心臓)一突きにされて死んでいた、のが、やはり気になる。
魔物の犬が、百鬼丸の気持ちを読んで、挫こうとする場面がヨカッタとか、言い忘れたのはその位です。
最後に妄想で、しめくくります。
〜妄想その3〜
魔神達が、百鬼丸の身体を、欲しがった理由について。これは私が書こうと思っていた設定。
魔物達が、こちら側の世界に顕現する為には、こちら側の物質との交感が、必要とされる。
モノである事もあるが、実際は寄り代=取り憑く生きモノ、があれば強力。
ただし、人間や動物など、本体丸々の所に取り憑くのは、取り憑く側は相当エネルギーを使うし=取り憑かれた者の抵抗が強すぎて、途中で魔物が取り憑いたモノの身体から、弾き飛ばされてしまう可能性が、高くなる。
一番良いのは、生きている部品があれば、それを寄り代にする事である。
百鬼丸の身体の部位は、魔神達に取られはしたものの、そこの場所に無いだけで、実は繋がっている=生きている。
しかも、契約によって、魔神に与えられているので、反発も無い。
その部品を核に、現実界に実体化=顕現、できるのである。
無事に部位が戻って来るのも、魔神達が以上の理由から、百鬼丸の部位を丁重に扱っている為である。
ここで一旦映画の感想は終わります。
そろそろ
映画小説を読んでみようと思います。そして映画との比較をしようと思います。(2/12)おわり


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