何か、私の感想も見所を考察して感心すると、その部分狙い済ましたかのように次回で見事に覆してくれたりしますんで、しっちゃかめっちゃかな妄想狂だとか、ここを読む人に思われないか心配になります(/´△`\)。
が今回も、頑張って感想、行ってみようっ!

【第九話「無残帳の巻」の感想】
見てて気付いたんですが、このアニメまさしく、どろろをやろうとしてない?
漫画も白黒アニメも明らかに百鬼丸の方が主役っぽいのに、題名がどろろ、なんですがこのアニメは最早どろろを主人公にしてる作りだなあ。
だったら百鬼の妖怪退治も恋愛も、さらっと触れるだけなのも、ありとは思えないけどそうなのかと事情は汲み取れる。(百鬼の恋人設定のはずのミオですら、事情を知って心を通わせたような描写をされたのも、どろろの方だしね!どろろの事情を知らなければ、どろろとラブラブのフラグかと思うよ。その時の百鬼丸に至っては、ハイハイ大人しく寝てろ、みたいな扱いで完璧蚊帳の外状態だったのを見ても、どろろ主役決定!!でしょう。)

今回は、イタチの扱い、絡み?からして火袋の隠し財宝の話は消えたな、とは思った。
でも、イタチは後々に因縁めかして出てくるかも知れないですね。
まあ、火袋は一本気で親分肌だけど、そうなると景光との対比が出ますね。
それで最後にちらっと出した?訳じゃないんだろうけど、どっちの親分も過去の怨念を引きずってるので、絶対幸せになれない人確定キャラだと思う。
火袋見てると、どうしても火の鳥の我王を思い出すんだわ。
自分がされたことの報復を、世の中だとか侍だとかにぶつけて破壊する、それは逆からみれば加害者な訳で、それに対しての罰が今回の火袋で描かれたわけですね。因果応報?
原作では、プライドから偉い人からのお恵みを撥ね付けて暴れて死んだ火袋ですが、子供=どろろにそういうプライドを見せつけて果たして親として正しいか?というとどうかな?と。
忘れなくても捨てるべき想い、というのは確かにありますから。

火袋たちは所謂ごろつきと呼ばれる武装集団で、この団体は平たく言うと傭兵として雇われて戦をして主人と共に成り上がったり、主人に取って代わったりした一団、とそんなに変わらないはずです。
火袋はそちらの武士という勢力には属ささずに、対抗勢力として存在していたのです。ここが、特異だったんでしょう。
しかし、集団が勢力を増すと、親方が締め上げをきつーくするとか、ポリシーをちょいと変えるとか、絶えず変化という流れを作らないと内部が淀んで腐る、ということを火袋が理解できなかったのが悲劇の原因ですね。
自分たちも同じような武装をして殺しまくってる時点で、一般農民とは違っているわけですから、なのに武士に取って代わって自分の国を作ろうとかは、考えられないんだよね。そこが根っからの農民で、それを考えて行動してるのが根っからの武士である景光だから。
(実際には、そうやって成り上がった大名が多いのも事実)
今回は戦禍とか飢饉による大量死と言う不幸のてんこ盛りは省かれていて、だから火袋の自業自得的な死によって残されたどろろたちはこの時期に成立し始めた遊業団体へうまく加入できれば生き残れたかも?と思わせる程度の不幸になった家族で済んでしまったとも言えます。
しかし、考えようによっては以前に出てきた迷言の「侍たちから取り返す」を正しく実践していた人という意味では評価できます。
ミオは正しく実践していませんから。(あれは単なる商取引に過ぎません。むしろ逆に搾取されている可能性の方が高いです。ああいうのは、正しく安全に取引できるようにする、というのが主な目的で集団化して元締めなどが発生するんですが、ミオは単独でやってるしね)
もっと良く考察してみると、火袋は命を懸けるリスクを払っても、ぶんどってやりたい!侍社会に対して一矢報いたい、と考えていたのではないでしょうか?(取引などではないわな)
そうすると、そういう復讐の念に凝り固まっていたら未来なんて見る余裕ないというか、未来を望めるような行動を取ってるか?を、つまりいずれ私も地獄道、というあれを無意識に覚悟していたんではないだろうか?とも思えます。
今しか見ていないなら、この結末に帰結してしまうのも仕方ありませんが、実に哀れです。
そして火袋のできなかった未来を見据える大切さ、あたりをこの回は描いてると思うんですがもうちょいイタチの立ち位置でそのへんの事情を詳しく突っ込めなかったのか?と思うと惜しいです。
イタチを小賢しいけど、他の仲間達にも自分と同じように人生に対して欲が出て来たのを知って、自分が取りまとめてなおかつ利用しようとする、つまり彼こそが火袋に取って代わった存在であり、生きるためにはもっと現実的になるべき、と教える役目にしたと考えると、裏切り者なんだけれどチンケな悪役で終わらせない方が良い気がします。
イタチだけで裏切ってる?みたいな描写はありえません、みんなで無様に傷ついた火袋を見て笑いながら去って行くシーンとか必要じゃね?
そこで自分のやって来たことはなんだったのか?と疑問を持つ火袋の姿とかね、見たかったですね。

で、今回の難点と言いますと…どろろが女というネタばらしを実にさらっとやられたんで、思わず「えっ!」と耳を疑ったわ。マジビックリだよ!イインカ帝国?
どろろってこういうジェンダーの問題も取り上げると、現代的で面白いと思うのに、早々に放棄ですか?確かに描くのめんどくせえしな!微妙な問題だから面倒になるのは避けたいだろうし。
そこがちょっとガッカリポイント。
それに原作では、どろろに対しては優しい親だったのかも知らんが、人としてどうよ?ってのがどろろにも分かってるだろうから、どろろは身の上話(両親のこと)を頑なに拒否してたんだと思う。
このどろろはあんまり何にも考えて無さそうだし、何で百鬼丸にくっついてるのかがまだイマイチ不明状態。
百鬼丸にしても、寿海という医者の養父もいたっていうのに、どろろの病気にも役に立たなさすぎ
肉体を持たないロボットが、人間の肉体の不調を理解できずに見殺しにしてしまうのに似ていてゾッとする。(片言だから余計そう見えるよー)
熱いなら冷やしてやるとか、そういう常識も持ってないのに愕然とするわ。
この百鬼丸見て、悪いけど不気味というか気味悪く思えてきたヤバイ主役なのに
あの親父、剣技以外は本当に何も教えてないのかっ!と一喝してやりたいですぅ。

次回はいよいよ楽しみにしていた百鬼丸の家族の物語、第十話「多宝丸の巻」です。
でもどろろ主体ならどうなることやら、一抹の不安は拭いきれませんが、頑張ってほしいものです。
皆様もお見逃しなく。
また余談ですが、私の例の夢たちの話になります。
私はどうやら有事の際には、男として生まれて来るように自分で決めているらしいです。今回は女なので多分戦争は回避されます。これは今現在の事実(と信じている)。
このどろろの性別問題を考えてたら、ある夢を思い出しました。
救世主?というかリーダーっぽい人と、ちょっとだけ行動を共にしてる(途中で恐らくわたし死んでるんで)夢です。
自分、そこでは女でした。この夢?予知夢?で何で女なんだ!とずっと不思議でしたが、最近わかったのですがこれには意味があり、魂の課題というか命題の最後が性別による偏見の克服何度も書いている、あの若かりし頃の新宿の事件から私はオカマさぁんが大っ嫌いなんですね、悪いな)だったようです。
有事には男でなくては役に立たない、と思い込んでる自分に対して、果たしてその考えは正しいのか?という課題らしいです。
まあ、それは置いといてw(どこかでもう少し詳しく書きます)そのリーダーの男性っていうのが、肉体的にナニコレまじ弱えええー、って人だったんですよ。
殺しに来たのと良く揉み合いに(今の時代みたいに銃の所持もしてたけど、それを取り上げるための技術もすごく発達していたため、最終的に暗殺は肉弾戦が一番有効というアホらしい結果になっていた!)なったんだけど、毎回のように骨を折られて痛がっていました。
こんな華奢な人で大丈夫なのか?と思ってたんですが、彼は悲惨な状況でも人を笑わせる男だったんですね。
こんな時に?と思うんですが、つられて笑っちゃうんですよ。
これがこの男の一番の資質だったんですが、笑いながら死ぬのも悪くないな、なんて思うんですが不思議と死ななかったというね。だからリーダーなのか?まあ実際はそれだけではなかったのですが。
という、そういう夢です。何回か続きで見てる夢なんで、意味があるのかも知れません。
でも、悲惨なんで見たくない夢です。
これは、アニメです。フィクションという一線を忘れてはならない!と思って作るべきだといます。
つまり、リアルを追求?して曖昧なものにするよりも、ある程度人物の性格設定や、エピソードを紋切り型にして視聴者に分かりやすくしなければ、当然視聴率は取れない=受け入れてもらえないだろう、という簡単なことです。
モヤモヤした嫌な気分になりたくて、わざわざ娯楽というテレビを見る人=バカ、なんていませんから。
サブカルチャー?とか気取ってるつもりで結局は、なんのことかさっぱり?みたいなの作って自己満してりゃ世話ない(だって結局はアニメって売れてなんぼの商業)ということですよ。キャラの造形だけでファンを引っ張るのも限界があります。
分かりやすくなおかつ説得力あるもの、という観点からすると、このどろろは「もっとがんばりましょう」のハンコしか押してあげられません。

ということで【第十話「多宝丸の巻」の感想】ですぅ。
物質的にも、また以前に若様扱いされていた所から環境的にも、一般人とは比べるべくもない抜群の生活を送りながらも、己の罪の意識から死んだ(と思っている)子供にばかり執着して(毎回見るたびに段々と、百鬼の冥福を祈るというよりむしろ「私を恨まないで!」とか、その事で「バチが当たりませんように!」とか、そういう意味で必死に神仏にとりすがっているだけ、という姿に見えて来て仕方がない)今、目の前にいる子によそよそしい(なくしてしまった子の分までこの子を大切に育てよう、育てなくては!っていう気概=、がまっつたく感じられない)ダメ母と、最初の子供を犠牲にしてまで歴史に名を残したいとか、大風呂敷広げるような言動を匂わせながらも、実際には結局おめえは何やってるんだか良く分かんねーんだが?というようなクズ父(すべてが他力=魔神のまやかしの力、本願で、自分の力でやりとげたものは一つでもあるのかな?と聞いてみたいわ)、という家庭で育てられた、百鬼丸の実弟「多宝丸」のお話です。

もうあちこちから怒声が聞こえて来てもおかしくなさそうな、妖怪もあんまり倒さない所かあまつさえ見逃すという、そして今回はとうとう憧れのヒーローからはあまりにも逸脱してしまった、あるまじき所業のてんこ盛りで、主人公という立場から早くも脱落(私が映画を高評価しているのは、まさに妻夫木百鬼丸をひたすらカッコ良く撮ろう!というのが、ヒシヒシと伝わって来たからです。物語の筋もほぼ踏襲してる形なんで、あんまり文句も言えませんし、柴崎コウは‘それらしきもの?’で私の中では処理してます。頼むのでこのアニメのテーマとは何なのか?、何を見所にして欲しいと思って作っているのか?を私に教えてもらいたいものです。私にゃどろろが百鬼丸にくっついている理由同様にでしかないわ。ハッΣ(゚Д゚)もしかして私がバカなだけなのですか?w)しかけている、多宝丸と比べてもどっちもどっちで家庭運には恵まれていない五十歩百歩丸さん、なのですが、兄弟揃ってそうだというのは、もしかすると元々そういう縁の薄い家系なのかも知れません。

だからといって兄弟の邂逅シーンまで薄くしなくても良いのでは?ないでしょうか?
大概、物語と言うのは常に主人公の影がちらつくはずのものなのですが、全くそんなものも無かったな、と言う感じの巻でした。
うっすい、百鬼丸もだけど、どろろも影が薄かったわ。全シーンに繋がりなくブツギレだからザッピング感が拭えません。へったくそ。
百鬼丸を脱がせるサービスシーンなんかいらないです。他に描くべきものがあるのでは?
多宝丸、絶体絶命のピンチに陥ってくれ、頼む!そしてそこを兄に救われろ!だって、多宝丸たちだけでも十分妖怪を倒せた状況、だったから。←今回の問題点!
そこへ百鬼丸が急に出てきて美味しいところだけさらう、みたいな無様な活躍させて。
(これで百鬼、ホントに主役なんですか?)だから多宝丸たち余計なことを、みたいな雰囲気になってたし。むしろ、こういうのはもともと琵琶法師の役割だったはずでは?
カニの化け物が、窮地に追い込まれてからのシーンで、あれはないでしょう。
隠していた必殺技のアブク攻撃を繰り出してきて、その毒気に当てられた多宝丸&家来&村人たち、あと一歩という場面だったのに痺れて動けず大ピンチ!迫るカニ、絶体絶命!そこへ百鬼丸見参!死闘を繰り広げた末に、見事にカニを討ち取る!!驚く一同!
位のことはやって欲しいです。
さもなくば、調子良く多宝丸がとどめを刺そうとして、カニに最後っぺで返り討ちに会いそうになり(多宝丸、腕の骨を折るくらい手負いになっても可!)皆があわやと思った場面で百鬼丸に助けられる!とか。
ピンチになるのは家来なんかではなく多宝丸でしょ常考!
とにかく見せ場を作るのがドヘタ!もしかして、そういうキメの戦闘描写が出来ないんですか?
百鬼丸を悪役にしたいのがミエミエなんですが?生け贄は黙って死んでろという思想?
とにかく、鮮烈な心に残る出会いを見せてくれないために、百鬼丸は主役と言えない立場に追い込まれてしまったのでした。
こんなに兄弟の関係性もうっすくしといて、原作通りの惨劇が起こるのはたぶんあり得ないので、ゲームに準ずるんでしょうか?
それとも希薄なまま何となく兄弟で殺し合って、希薄だから罪悪感も軽く感じて終わり?になりそうで何だか怖い。
あーもう、期待していただけにガッカリ感がパネエですぅ。(>_<)これ来週は何とかなるんですよね?

だいたい百鬼丸、あんた何のために妖怪と戦うん?
ただ戦ってるだけ、どろろがこっそりと報酬をたんまりもらうシーンでもあれば、意味もあったけど、そこにいるからだという登山家の問答みたいなのは止めてよね!
体を取り戻すってどういう意味を持つのかちゃんと理解出来てないからこういう羽目になるんじゃないか?という気がします。
ゲームでも言ってたでしょ?俺を返せ!って。
体だけでなく、人間としての尊厳、そしていわゆる自己のアイデンティティー、己は一体何?という一切合切を奪われた状態で生まれてきてるのが百鬼丸な訳だよね。
今の百鬼丸は、奪われてることに気づいているかすら怪しい状態、にしか見えませんが?
それを必死になって取り戻そうとする主人公の懸命さがあって、それに視聴者は共感するものなんじゃないんでしょうか?
こういうセオリーは普遍的であり、新しいも古いもないはずです。
私が言うのも、非常に口幅ったいんですけど。
どろろというアニメは、身体障害者だけに配慮して、暴力や性交描写だけは刺激効果を狙ってバンバン入れてるから、R指定されても不思議ではない作りになっていて逆に不自然なんですよ。
原作通りにとか、嫌な部分だけテロップ入れて手塚治虫のせいにしてるし。
(性交描写なんか原作にはねえ!っつーの)
やっぱり少しでも手塚治虫ファンなら、あの未完だけどストーリー的にグッと来るものを感じた人なら、確かに黙ってられない、怒るわ。
私はアンチではないですけど、期待が大きい分だけ辛辣になっても仕方ないでしょ?

どろろには、まともな人物が一人も描かれていないのがなんとも。人物描写がしっかりできてないのを、リアルという理由に逃げたいのかも知れませんが、実写ドラマじゃあるまいし。てゆーか、リアルですらこんなやつらいないでしょ?なキャラばっかり。するとアニメで作り物だから、とかダブスタなこと言われそうです。
どいつもこいつもふにゃふにゃして、芯がないコンニャクだらけです。
母性も父性も欠如しまくりで、自分のケツも拭けてなさそうな、ダメキャラのオンパレード!見てて情けなさで爆発しそうです。
ダメなやつらが確固たるポリシーも持たずに、ただ流されるままに物語を紡いでみても、ひとっつも面白くありません。
だから、この作品には、人物に対してのカリカチュアライズなどのディフォルメが皆無で、アクもなければ味わいもない、まさにお人形キャラしかいないつまり求心力を持ったキャラが一人もいない、と言う点が一番ダメなんです。(ネタにされる位のインパクトキャラなんていくらでもいそうだけどね。イタチなんかもっと下劣で下品にすればあるいは・・・、だったんだけどねー、ザンネンでしたぁ!)
キャラたちに魅力がないもの、そりゃ話も詰まんなくなるハズだわね。

前作と張り合って、オリジナリティーを出すために「頑張って百鬼丸パート部分を改変しよう!」と意気込むあまり、変にこねくりまわし過ぎて失敗した挙げ句、おざなり程度しか手を付けずに原作にほぼ忠実に作っただけのどろろパートの方が評価される、なんてことになったら、と考えただけで私にはハラハラ時計ですぅ。

本当に頼みます!
次回第十一話「ばんもんの巻・上」これでダメなら二期は見ねえ!!
家のテレビで東京MX見れたんだったわw。でも、10時から見るのは地上波の特別番組などと時間がかぶって難しいです。今回は『トレースの最終回拡大スペシャル』の方を見てしまいました。(だって錦戸君カッコイイし)

【第十一話「ばんもんの巻・上」の感想】です。
とゆーことで、今回は前編だから後編を見てみないと!(正確な考察がしにくい)なのですが、前回の妖怪退治の邪魔をした百鬼丸、とまではハッキリ描かれてませんが、やっぱり急に横から出て来た得体の知れない奴扱いでした。
家来も「カニに捕まってしまって申し訳ない」と多宝丸に謝ってはいました。
その通りでしょ!捕まって助けられる姫役wは多宝丸の役目だっ!つーの。
多宝丸が捕まって百鬼丸に助けられていたら、家来たちにも、ものすごく感謝されたろうし、多宝丸も喜んで屋敷にも招いたりしたんでしょうけど、まるで百鬼丸にイイ思いさせまいとする制作者の魂胆が透けて見えるような気がして、ゲンナリですぅ。
しかし、妖怪退治もイマイチの上に、人間関係もこんな半端リアルでグダグダだわ、やる気あんのだろうか?トレースの方がエグイぞ。
この物語は見ててちっともワクワクしない、のもダメです。
ゲームの妖怪退治の方がずっとワクワクとトキメキを与えてくれたというのに、何だこれ? 
ショッキングなエロ描写回がシリーズ一番の見せ場、って言われてるのも・・・。
(あくまでシーン、ドラマ部分の評価じゃないらしいし)

まずは先週のおさらいシーンなんざいらねえぇですよ。ますます内容が薄くなるだろうがっ!
ホント一話で事足りるんじゃないかって内容が無いような話?次週で何やるつもりなんだろう?ですぅ。
多宝丸が、やさぐれるんか?母を責めて父にちょっと反発して終わり?
多宝丸が、醍醐家の謎解きするにしても、視聴者に対して目新しい情報も出てこないもんだから、見ているこちらも退屈極まりなし
だいたいこれやるんなら、多宝丸をもっと前面に出さないと!
先週が多宝丸に単身でカニを倒させて、領民から喝采される位のエピソードにしても良かったはず。
主役じゃないからとか言うのも止めてね、だったら最初から中途半端に出すな!ってことよ。
意味深に百鬼のお産婆さんだった女キャラを出してるけど、これも結局は多宝丸の付き人が言ってる通り、気違いのたわごと以上のものも無かったし。
(ってゆーか、何で百鬼丸を認識できたの?それこそテレパシーすか?
産みの親なら一目見てハッと気付くこともあるかもしれないけど、ただの産婆でしょ?あり得ませんから
せっかく百鬼丸は醍醐のお守り持ってるし近くに居たんだから、女と百鬼丸が行き違い様にぶつかって、醍醐印のお守りを目にした女が赤子のことをフラッシュバックして、お守りから百鬼丸があの赤子であることに気付いて発狂するとか、もう少し現実的なシチュエーションを考えて欲しいものです。)
前に自白剤盛った男wにさっさと吐かせて、兄がいる位の情報は多宝丸に与えておけば良かったんじゃないの?
ここまで話を引っ張る意味が、もう時間稼ぎにしか見えず・・・まさかね。
いや、多宝丸が百鬼丸の真相を知るための、それはもう劇的なタイミングを狙ってるんだよね?
アッと驚くような、多宝丸の世界が一転してもこれじゃ無理ないわー、と思えるような事が起こるんでしょ?楽しみだわー。
そういう劇的なことでも起こらなければ、わざわざ多宝丸に時間を割いた意味がまったくないですから。わかってますよね?
期待してますね。
(私は段々とどろろという作品に対して、ある懸念というか疑念を持ち始めたのですが、それは後編も見てみないと。何んとなく製作者の意図しない意味をも持ち始めているようで、ちょっと胡乱に思ってるんだわ)

そして今回もショッキングというより、ショボくてビックリ!したのが、景光が鬼神と取引して領地への恵みをもらうのと引き換えに、百鬼丸の体だけでは飽き足らずに鬼神が領民までも餌にするのを、見て見ぬふりしていながら、偉大な支配者ぶって鬼神を倒して豊かさをもたらした領主!と、喧伝しているらしいこと。
うわーこりゃ、セコイ、ズルい、卑怯、の三拍子揃った矮小な人間過ぎてガッカリ。
ああ、やっぱコイツ一人じゃ何もできねえんだわね。
だけど考えようによっちゃ、泣くだけの母親と似合いの夫婦だとも言えますけど。
こうなると、百鬼丸は前に流行ったサイレントベビーというのを彷彿とさせるわ、ほぼ喋らないし、無表情だし。(現実のサイレントベビーは脅しすぎ、母親がスマホとかゲーム依存症で「育児よりも優先させちゃったら」確かに問題だけど、赤ちゃんの安全が確保されてるなら多少はスマホやろうが関係ないっつーの、確かに二十四時間体制だけど、できるだけ気を配れって意味で、付きっきりになって見張れってことじゃないし。一体何育ててるんだ?w余談)
次回は第十二話「ばんもんの巻・下」です。
刮目して待て!ですぅ。
うわーこれはさあ、もうネタにして楽しむどころではないんじゃないですか?
すまないけど、今回は私のトラウマ発動回だったらしく、もうかなり感情的に書き綴っております。
来週は放映がないようなので、その間に落ち着いてみようと思っています。
【第十二話「ばんもんの巻・下」の感想】
私は多宝丸が、跡継ぎな時点で、景光が百鬼丸の代わりになっても良いハズだと思うし、それができないのは単純にイヤだからだろうし、愛情(そう呼べるものがあるとして)より野望が上回っているからだと思う。
景光が言う痛みって何だろう?少しも胸が痛いとか苦しいとか、そういう表現一切なくて、そう思えっていうのはどうかと思うよ。絶対痛くも痒くも無いに違い無いって。
母親も開眼するふりして、期待持たせておいて百鬼を救えないとか本人にダメ押ししてて結局はクソ母でした。
時代劇で自害する女の人って、たいがいは確実に死ねるようにか、決まって喉を突いているんで、厚着している上から胸を刺しても、『あっ、こいつ本気で死ぬ気ねーな』としか。せめて百鬼の身代わりになれよ!子供の身代わりにもなれないから、あの仏像も母を見放したんだろうよ。
だいたい、子供を犠牲になんて、子供に愛情持ってたら出来ませんし、許せません。
漫画でも物語の進行はそのままなんだけど、心情を履き違えて描いているとしか思えないのは、私だけですか?
子供を亡くした人達に対しても、私はものすごく失礼だな、と思う。
どれ程多くの親が、早世する我が子に代わってやりたいと願ったことでしょうか。
それを踏みにじり上っ面の『家族ごっこ
するバカな家庭?エンディングをもじらなくて良いですから、ちゃんとしたドラマを見せてくださいよ?
「こういう考えなのに、どうしてこういう結論(行動)に至るのか?ちぐはぐすぎて登場人物たちの気持ちの推移がまつつたく掴めず理解もできません?」私やっぱりバカなの?
物語の筋書き通りに進めるために、無理やり納得させてるんだとしたらダサすぎる。
変節しすぎで、こんな人間信用できねえってのばっかですぅ。裏切るやつは何度でも裏切る、とその辺だけは律儀な悪党に消される雑魚並みの小物感。

そして、バイオレンスジャックで、大人(力士)に支配される子供達が中の一人が怪我をして、食料を調達した代わりに医者に見せろと要求したら、了承するふりをして喜ばせておいて、「この怪我で生きるのは辛いだろう、うんそうだ、死ねや」と言って殺してしまう(その非道ぶりを見て子供たち発狂)のと同じメンタルを感じます。
百鬼の家族は、みんな良い人なんかじゃありませんどいつもこいつも羊の皮をかぶった狼たちでした



総括、って言うと嫌なイメージ(身も=集団暴行=リンチでボコボコ、心も=信頼していた仲間達からのリンチの仕打ちに心理的ダメージ、まとめて処刑するスタイルに対する名称か?)があるんで、まとめ、です。 

百鬼丸を彼の犠牲の上に成り立つ、まさに砂上の楼閣の住人たちが、人柱が生き返ってご利益が失せることに対して、生け贄である百鬼丸に文句を言う、という人間の利己的な醜さを描き尽くそうとしている、とでも言うんですかね。
いやこれは『一人を攻撃することで他が結束する、そのためのいけにえは必要』という日本の陰湿ないじめの屁理屈を、正当化しようとしているアニメ!ということでFA?でしょ、どう考えても。
それなら、私の今までの評価も変わって来ます。
つまりは、一人の死で多人数の莫大な利益が得られるなら、潔く死ね!ってことですから。
でもそれ『戦後の日本が必死になって否定してきた思想』のはずですよ?
百鬼丸は赤ん坊で、自分の意思も持たない時点で、人柱にされました。赤ん坊が生贄にされるどんな悪いことをしたというのでしょう?
これは啓蒙、洗脳されて特攻隊になった日本の若者たち以下、の扱いです。
これが肯定されると、つまりこの作品が若者たちに支持されて、この思想が植え付けられると、行き着く先は小学生までもが戦場に行かされるようになりますよ。
未来の世界では兵器の取り扱いが、どんどん今のゲーム的な仕様になっているので、若ければ若いほどってことで日本も小学生を徴兵することになった、って夢を見たことがあるので、勘弁して欲しいです。
現実的に、これはたかが夢だとも言いきれないんじゃ無いですか?勝つためなら何だってやる、学徒動員だってやったでしょ、それの発展系なだけで、ためらわずやれるのが人間の性ですから。

戦争という魔神に子供(若者という未来)を兵隊にするという貢ぎ物を差し出して、国益というご利益を何もしない者たちが、ああだこうだ言うだけで、まんまと得るんですね?わかります!
これはもう立派なプロパガンダアニメですね!!
そして手塚治虫が草葉の陰で泣いていそうな話です。
さあ、私は誇大妄想なのでしょうか?
右だの左だの言われそうですが、私にはツバサなんかありませんので悪しからず。
しかし、内容をおさらいしていくと確かに、ミオを一人だけ犠牲にしてぬくぬくと生きているガキ共と言い、黒雲ムカデに人身御供して自分達だけ難を逃れようとする村人と言い、その思想に基づいている物語である!としか、読めないのではないでしょうか?
日本は古来からそういうものだった!にしても、毎回のように描くのはいかがなものか?
それを否定もしない物語では、戦後教育の民主主義というものは無駄なんだと否定していることになりますよね。
いつまでも日本人はその頃から進歩していませんか?
時代だから仕方ないと、関係ないと見ぬふりをしますか?
違いますよ!良いものを取り入れてさらに進化させて発展してきたのが今の日本のはずです。
こんな思想だけ取り残されていたり、昔帰りするなんてあり得ません。日本の退化へと導く行為です。
私は色々問題はあるにせよ、やはり日本の教育は素晴らしいと思っている人間(勉強が好きな訳じゃないよ!)なので、この思想は全否定させてもらうわ。
簡単に言うと、徴兵制復活も止む無しの下地を作る思想アニメでしょ?
冗談じゃないですぅ。それこそ、意味は違いますが死なばもろとも、他人を犠牲にしたくないからみんなで死のうよ!だわ。
そんな国なら滅びた方が良いです。
人を犠牲にした罪悪感を抱えたままで、人生を生きることほどしんどいものも無いでしょうし、私は枕を高くして寝ていたいもんね。

流されないこと、常に疑いを持つことです。
戦前は特別高等警察に連行されて拷問を受ける恐怖政治に屈して天皇至高教育で、戦後は日本で占領政策を実施した連合国軍機関=GHQ、に睨まれるのを恐れ屈して教科書を塗りつぶして、結局はいつも何のポリシーも無く上の言うこと、権力の顔色を伺って生きる国民だったかったから、戦争に巻き込まれたんでしょ。
それを悔悟したからこその戦後教育ではないのか?
私だって勉強は辛くて嫌だよ。
でも、それ以上にバカで何も分からない内に、巻き込まれて死ぬ方が嫌だ。
なのにこのアニメに出てくるのは、流されたり逃げたりする人達だけ、という私の受けた教育理念に反する人達だけで描かれているから、モヤモヤするわ。
今の風潮のように、要領良く楽するためにマニュアル通りにしかやれないなら、貧困に逆戻りするだろうし、そんなに頭を使わないと、すぐにアルツになりそうで怖い((( ;゚゚)))ガクガクブルブル。

このアニメは、このように読み解かれて戦争好きな輩に宣伝として利用されないとも限りません
いや、十分あり得るでしょう。
思想犯はこじつけが大の得意ですから!歴史的に見ても、呆れるほどにうまくこじつけて難癖も付けたり、自分の主張に寄せて曲解して利用しますから。
そして社会的な出来事が起こっても、数年で事実もうやむやになり、数十年で歴史的悲劇の事実ですらも、都合の悪い人間や目をそらしたい者達の中から、無かったと言い切る無知厚顔が出てくる世の中ですから!
考えすぎ!ということこそ、楽観能天気主義過ぎて羨ましいです。
純粋な芸術が、プロパガンダに利用されるのは普通にあります。
逆に思想ありきで、芸術的に仕立て上げるということも十分あります。
分かりやすくアニメ化して対象となるものを称えるなどは、巷にゴロゴロありますから。
だからって、どろろでそれをやられたら堪らないです。

それに、このアニメは障害者配慮と聞きましたが、どこが?です。むしろ逆の結果になっているのは何故なのですか?わたしゃそれが一番聞きたいです。
私は生け贄という、つま弾き=意識的ないじめのターゲットを作って苛め抜く構図を明らかにしましたが、
【ハッキリ言ってそのターゲットにされやすいのが、口実を与えてしまいやすい存在、つまり人とは違った特徴を持つ者達であり、それには当然、身体障害者も含まれるのは十分に考えられる】ことでしょうよ。
シレッと差別アニメになってるのはなぜ?
私は、例え身障者に石を投げるような表現があったとしても、それが人として最低で決して許されないことだ!作品中でちゃんと糾弾されるのが描かれていれば問題ないと思うのです。
描かなければ、現実にはなかったことではなく、現実にあるからこそいけないことだと教えるべきなんです。
むしろ、問題提起して考えさせ是正させる迄は行かないにしても、人の心に正しく訴えるものがあれば、許してもらえるものだと思うのですよ。
逆に、直接的な行為は描かれていなくても、大勢の快不快(歪んだ喜びとか、利益だとか結束?など)のためなら、役に立たない存在から切り捨ててやむ無し!という思想が透けて見えるような扱いを暗黙の了承でやっていることこそが大問題だと思いますが、皆さんはどのようにお考えになられますか?
 確信犯=自分の道徳・宗教・政治・経済などの理念を確信して実行される犯罪、的に行われているのは確実でしょう。
これがワンクール見て感じたこと(懸念と疑惑)です。

しかし、この物語は二クール構成になっているらしいので、第一クールでこのような問題提起をしておいて、第二クールで答えを出しつつ物語は進み、すべての問題は回収される作りになっているハズ、なので(流石に投げっぱなしのジャーマン=危険で無様という意味では同義、ってことは無いでしょうから)期待して待ってます。
ていきんを調べてからの発言とは思えないどろろ瓦版なんか作ってるみたいだし、何だかなあ。言いたかないが、あれ作ってるの誰だい?w
一部完。

第二部に寄せて
真面目な話、と言っても毎回結構そのつもりで書いてはいるのですが、多少は空回っているかも知れません。
そんな私も、今まであえて突っ込まない問題がありました。
それは妖怪の扱い方がぞんざい、というのがそもそもこのどろろが面白くならない根源なのでは?ということです。
それに触れるのもちょっと?と思ってました。だってこれは基本のキでしょうし、このアニメにはそれ(勧善懲悪的な、もしくは因果応報的)より他にもし主題があるのだとしたら、妖怪退治があっさりするのもやむを得ないかも知れない、と思っていたから遠慮していたのです。
でも視聴していてどうやら妖怪退治の善悪でもなく、家族との愛憎も十分に描かれているとも言えず。
ましてや、百鬼丸との引き換えの繁栄を享受する民衆から、取り返す=妖怪を倒す、ことを忌み嫌われた百鬼丸が石持て追われるようなことになり、百鬼丸はジレンマに悩むという事もなく(実際わたしはこれこそが主題だろうと思っていた)、だからこのままですと、手塚治虫にはと言うよりも、前作の白黒アニメや映画にゲーム、長い目で見たら(キャラファンだけは多いようですが、一過性になる恐れが高い)どれを取っても恐らく内容だけでは勝てないような結果に終わるでしょう。

私が言うのもあれですが、手塚漫画に見る妖怪の存在意義とは何ぞや?を考えてみれば良いのではないでしょうか。
それはこの物語の根幹であり、初歩に理解しておくべきことですので、やはり「そこから?」という気がしますが、逆にこのアニメでなぜその根幹部分をなおざりにしようとしているのか?そうなってしまったのか?が謎です。

手塚治虫はあの理不尽な第二次世界大戦、というものを経験している人なので、そういう個人の思惑ではどうにもならないというウネリ、つまり、特に悲惨な歴史の流れに呑まれて人生を翻弄されるということを体験してしまったので、常に色んな事象に対しても、なぜ?なぜ?なぜ?と考えずにいられなかったはずです。
そして、私たちがこのどろろの世界というものを俯瞰した時に、絶対に第二次世界大戦という未曾有の惨事が、その上に陰を落としていてオーバーラップするのを見ないはずがないのです。
ありふれていることこそ、実は最も大切な事なのだけれども、目にしすぎるために大切さに気付かない、というこれも言い古されて実感が薄くなりますが、手塚治虫のどろろは、人の世界の魑魅魍魎と、妖かしが跋扈する世界とが二重写しに重なって、そこに苦しむ人々を映し出し、そこで主人公の二人が正しく自分を主張し、たくましく実践し生き抜くからこそ、面白い(主人公に思い入れができる、つまり共感する)と思わせる漫画だと思うのです。
そして、出てくる妖怪もただの通り魔的なものではなく、それぞれに理由があって妖怪に変化した、それは欲で愛情でと、人間の野獣時代から持ち得た個の本能に根差した、つまり人間の業というものを抽出し体現させた存在が妖怪なのです。
それをやはり業の深い親から、全てを奪われかつその業の全てをも譲り受けて生まれた百鬼丸だからこそ、妖怪を倒せると同時に倒さなければならない、という運命への必然性が生まれるのでしょう。これはいわばその宿命を描く物語、と言えます。
しかし、今回そういった人間の業を描かずして、このアニメは一体何を描こうとしているのでしょうか?
妖怪も倒さず、だから体の奪還すらも不明瞭で、フワフワと流れ流れてこの物語はどんな岸辺に寄り付くと言うのでしょう?
家族の肖像を描く物語としても、皆が自分の都合優先でお互いを思いやる心も無くして、愛情、絆、も感じにくくあまりにも全てが希薄に描かれ過ぎです。
そんな家庭だから百鬼丸が生け贄になった?としたら、壊れかけた人や家庭が、身の丈に合わないものを欲した代償に、それぞれが欲しいものを奪い合った結果、世の中を巻き込んで崩壊していく物語、なのでしょうか。だとしたら、そのような物語はあまり見たいとは思えません。
第二部はどうなるのでしょう?
怖いもの見たさ、で視聴することになりそうです。

余計なことかも知れませんが、史実のように時代と場所も作中で設定されてあるので、これも突っ込ませていただきますね。
北陸の飢饉の原因は、ほぼ冷夏(と大雨)による冷害です。
手塚漫画に日照りが原因っぽく描いてあったから、やたらと雨が雨がと固執するのでしょうか?
冷夏の上に無理な収穫増大計画のために(開墾の様子は作中にもありましたね)、整地が上手く行かずに、日本特有の長雨(梅雨や台風)のせいで土地が崩れて失敗したのが偶然重なり、大飢饉に繋がったと教わりました。
これは私たちも、タイ米騒動という冷夏による米の不作というものを身を持って経験しているはずですので記憶に新しいと思います。
だからむしろ、妖怪を倒す度ごとに、雨雲ドンヨリ風ビュービュー雪ドサドサと段々と冷たく陰鬱になって行く世界を描く方が、ふさわしい気がするのですが。

今回は第二クールの初っぱな、前の主題歌を逃していたので、今度は先行公開されていたので聞いてみた処が「ジャンジャジャンあ〜う〜、虫食い〜」という印象しか残らなかった。
一期のあの曲は、少なくともテンポが良く、一曲のなかにちゃんと盛り上がりもあり、熱量が感じられてノスタルジーも込めてある会心の出来映えでした。しかるに、新曲は全てが平坦に感じられてしまう。
まあ、つまり作業に慣れちゃったベテランは、型が出来上がってるので、意識的にも無意識的にも、当てはめて作り上げる、ということが関係していそうである。
この手法は製品の品質を一定の水準を高くして保つ、という利点があります。しかしこれは、一般的な製品に言える利点で、芸術という要素が多分に加味される作品ともなると、それはたちまち陳腐なのもになる、ってことっすね。
人間ってやっぱり楽をしたい生き物ですから。
作品、つまり趣味で絵を描いたり文章書いたり、手工芸だったりとにかく個性的でいわゆるオリジナルなものを作ろうとすると当然、多かれ少なかれ生みの辛い苦しみを体験します。
この苦しみを減らす方法が形式化=マニュアル化、です。(それとパクりね)当てはめる(流用する)だけだから作業は楽。でも、下手すると誰にでも作れそうだ!と思わせてしまう危険性があります。そして、そうやって作られたものはつまらないです。
第一期のオープニングテーマはオリジナリティに溢れて、彼らにしか作れない曲だ、と感じました。実際、だから受けたのだと思います。
まあ、別の言い方だと火炎と言う曲は斬新であり新鮮だった(歌自体も素晴らしいのはもちろん)から受けた。アジカンは良くも悪くもよく耳にして聞き慣れているので残らない、ということですね!

と書いたら、今回この前振りが内容にちょいリンクしてましたね。
この二週間の暇な間に性差別問題における、日本のエロゲー輸出の議論等を見ていて、『猥褻と暴力と差別』がそもそも萌えの条件である、というのを見て、あっ、どろろの問題の六話だわ!と気づきました。ええ〜、マジか!
これはただの萌えアニメだったのか?私が気付かなかっただけで、最初からソレ狙い?キャラの造形とやたら裸にするのでチラチラ狙ってるらしいとは思ってましたが、まさか真っ正面から萌え狙っていたとは!なら私にはなんも言えないわ。だって範囲外。
と悩んだりしましたが、やっぱりこれも考えすぎかも知れません。だって、まだ物語は半分だし。やっぱ決めつけは良くないミ!
【第十三話「白面不動の巻」の感想】
今回は、やればできるじゃないですか!
でも、妖怪退治したのに白面不動回が一部で不評らしいのは、どろろは妖怪退治がメインではない!という認識が定着しちゃってるからですね。
それと『仏師』=男なのに『おかか』という鬼神の手下の女?っていうのが視聴者に混乱、ぶっちゃけ大いなる違和感を与えたからだと思うわ。
強がってるどろろが、手放しで甘えてる姿が健気で、視聴者にグッと来させておいて、実はそれは女の姿をしたおっさんでした〜!ってやっぱりナイナイ、でしょ。
だから、ストレートな原作の方に視聴者の軍配が上がるし。
原作通りに女の幽霊じゃいかんかったの?
 男の一念岩をも通すかも知んないけどさ、それだと野望に執り憑かれて妖怪に利用されて人を犠牲に、あーこれって結局は景光と同じで願望の代わりに人の顔を奪ってた訳で、つまりその仏師こそが妖怪の本体そのものと言える。だいたい、男なら子供に慕われた位でその野望は引かないよ。それをやるのは女の甘さ、母性本能だから。
女だからであって、そこは差別ではないんだから、ちゃんと理解して区別しようよ。
そういう親玉を裏切って身を滅ぼしても、可愛い子供の命を救うと言う女の凛とした強さを描けないのはなぜ?ってか、やはり女というものを描けないんですね。

だいたい今までの改変の流れからだと、どうしても『仏師』でやりたければ、化けるのは『おじや』でなく『火袋』でしょう。何でそこは思いきって原作改変して『おっ母ちゃん』ではなく『おっ父ちゃん』にする、という英断がスッパリとできなかったのか?甘いよ。
そういう意味では、今までからして母性も理解できてないっぽいのにいつも唐突に、母という存在を変に持ち上げまくっててキモい!んだよね。
改変しなかったのは、まったくもって残念だ!
それなら幽霊仏師も景光に化けて、その声で百鬼を罵倒するだろうし、その方があのクズ母より百鬼にとっては、ダメ親父とは同性なだけに嫌悪感とか強く抱くだろうから、ダメージもでかかっただろうし、隙も出来て窮地に落とせただろうに。ねえ、何で?

 今回また話のなかでリフレインしたので
同じく前回の百鬼の母と父は私にはこう見えていた。
「多宝丸でさえ理解できた道理をなぜお前はわからないんだっ!」と言いながら景光、妻をチラッチラッ。
(祈って泣いて人を責めてばっかりでうんざりなんだよ。実際にこの国のためにお前が何したよ?え?あいつら産んだだけだろw多宝丸もほぼ放置のくせして)
妻、心の中で(何抜かしてけつかる。毎日念仏三昧は何のためだと思っとんじゃ、われ!天罰が下らんように祈ってやってるんだわ、それをよくも。痛みだ理解だとお。わーかった。よーしよしよしよし。そんなら目にもの見せてくれるわっ!!)百鬼を見て、私が死んだら祈る人もいなくなるんだよ?神様の助けもなくなるね、だから「母には救えません」
多宝丸、心の中で(あのーもしもし、俺今すっごく傷付いてて、文字通り刀傷でやられちゃったんだけど。そんな大変な状況で、無視と放置かよ〜〜、このくそ親どもがっっ!)
百鬼ドン引き〜・・・。
うげえ〜、やっぱ最悪家族やんw

それと、どろろの背中の地図、出てくるとは思わなかったわ。この地図の描かれた由来(説明)待ってますね!
この背中の入れ墨の地図を出すために、温泉に入ったんだよね?
温泉シーンを入れたいから、捨てたはずの背中の入れ墨の設定ぶっ込んだんじゃないよね?
胸も無いし百鬼も見えていないのに、恥じらうどろろにちょっと「うわっ、いやらしい、キモっ!」と思ってしまった。どろろのお尻で盛り上がってるみたいだし。やはり萌えなのか?
百鬼丸のとうさぎもどろろのいさらいも興味ねえわ。
次回、第十四話 鯖目の巻。マイマイオンバで決まりだねっ☆てへぺろ☆(・ω<)
私の中ではもう妖怪と鬼神の違いだとか、取り戻す部位も倒しても戻らなかったり(倒すことを放棄もするし)また出血を伴う傷を負った=破壊されて喪失だろう!どう見ても、なのにまた体を取り戻せたりという制作者のご都合主義を、見ているこっちが補完して考えるのもメンドクセエしその義理もまあないんで、そこんとこはほぼ無意識にスルー状態で見てます。
【第十四話「鯖目の巻」の感想】
だから、百鬼がいきなり普通に話し出しても、結局どろろの入れ墨彫ったのって誰?とか(母親が死ぬ少し前にどろろが母親の入れ墨を見たのだったら、火袋はとうに死んでるし、母親が彫ったの?娘の体にありえねえー。そう言う母親にあるまじき非情さを回避するために、神仏の力で母の血で書いた絵がどろろの背中に染み込んで、と言う設定だったのにソレ分かっててのこの入れ墨なんだろうか?まさかと思うけど母親と同時期に入れ墨されたとか?どろろの背中の入れ墨は白粉彫りだと思うけど、リアルで白粉彫りなんてないから。(リアルに存在してないからって設定も嘘にはならないから)リアルではないものなんけど、話だけはまことしやかで有名だから。
(似てるもので、現代技術の特殊インクで彫ってブラックライトで別模様が浮かぶ、みたいなのはあるらしいけど)
それに、白粉彫りだとしたら、幼児のどろろが成長して皮膚が伸びて入れ墨の模様が変わるというのが起こらないと仮定してもさあ、これって普通の入れ墨より数倍痛いらしいから、麻酔のない時代に幼児の背中に火袋が彫ったとしたら、親にあるまじき鬼畜だし(自分の野望のために子供を犠牲にする親ばっかりで、どろろにはまともな親は出て来ないの?これじゃ景光と変わんねーよ。まさか作り手の幼少期の親に受けたトラウマを持ち込んでクソ親の設定作ってませんよね?マジどろろで幼児虐待まで見ることになるとは思わなかったわ)だいたい激しい痛みのショックで幼児のどろろだったら死んじゃうよ?
という、もうすべてが唐突で作る側が視聴者に説明するより、思い付きの謎設定や手の込んだ蛇足を見せつけてドヤ顔するのが目的なら、どんな設定ぶっ込んで来ても、突っ込むだけ空しくなりますわ。 入れ墨の図柄に凝るより、話を凝らして下さいよ。

大概は最後まで噛み合わず、お互いが空回りで終わりますね。
(そこまでしてこの設定の意味を解いてみろ!って視聴者に挑戦して来なくても良いですからwここまで不親切だとやっつけ仕事見せられてるのか、バカにされてるのか、見ている方はどっちかだと思うわよ)

第一、本当はもっと景光の領土や民たちの恩恵がどのように崩れるのかを生々しく描いて、百鬼丸を悪者扱いしたいのがミエミエのくせに、実際にはハッキリとは描写せず曖昧にしておいてその判断は視聴者に投げっぱ!これはいかがなものでしょう?(こういうのを中途半端!と言うんですぜ?)
そりゃ何も悪くない百鬼丸を悪者にしたら、マジにちょっとミスか何かしたら最初は面白半分でいじられてて、我慢して反応しないとバカにしてるとか勝手に難癖つけてヒートアップしていじめに発展する構図と同じですから、大っぴらには描けないですよね?

しかしそれ以上に、百鬼丸にどろろを仲間とも思ってないような態度を取らせるのはなぜ?なのだい。
もう少し百鬼丸に思いやりの心があっても良いんじゃない?
これはツンデレとも言えません
せっかく造形で人気出てるのに、側で面倒を見てくれるどろろを『お前が好きでやってるんだろう、こっちは頼んでねえし』とばかりに突き飛ばしたり無視したりと、中身がDV気質昔の親父そのものの嫌なやつで好感度だだ下りで嫌われそうですよアニキ!(もったいない!)
普通に話せるようになったなら、せめてもう少し言葉でどろろをフォローしたげてぇ!能面で感情が読めないんだから言わなきゃわかんねーダメダメじゃん?
どろろが不安がってるのに、鬼神じゃないってだけでなくて「大丈夫だ」と付け加えるだけで全然違うと思うんですが。(なぜか、けものフレンズ騒動を思い出すわ)
このキャラの性格付けは、友達いない人か裸の王様が考えたんじゃないか?と私は怪しんでますよ。それぐらい人でなし。

にしても、新百鬼丸がどこかしらデジャブじゃね?と考えてたら、ああWAのロディ君(ほぼ無口で人間離れしている力を持った、いたいけな少年)だったわ。
でも、ロディ君と比べると私的には数段落ちる。それに気がついたら百鬼丸に対してガッカリ感が半端ねえわ。
しかし、今日という日にどろろの背中の説明(ますます謎なだけ)するとは、先週の景光パート省いて、今日の入れ墨を入れてよ。
景光のリピートは今回いれた方が効果的だろうに。
鯖目が景光とおんなじ事を言ってるんだから。意味合い的に視聴者にもっと考えさせられたと思うよ。
領民を犠牲にして領地を肥らす。
だからさ、百鬼は足掛かりで、鬼神の霊が百鬼丸の肉体の一部を得る事で、物質世界に顕現して災いをもたらしてるんだと思うよ。
それをやった景光が良い領主って感想もチラホラ見るけど、視聴者の半数以上が領民と同じ立場にしかなれないからあなたもいつ犠牲になってもおかしくない立場なんですけど?それでも良い領主?

物語的にはホント、ザッピングが好きだよね。伏線張り巡らせる緻密な計算!みたいに見せたいのかも知れませんが、とっ散らかした印象しか残らないので効果としては失敗としか思えません。
作る側の考える難解と視聴者が感じる出鱈目って紙一重なんだなあ、とつくづく思った。
捨て子のエピソードは、無いのか?これこそ両者の捨てた側と捨てられた側の言い分が聞けて、景光と百鬼丸とオーバーラップするし、親のないどろろと百鬼丸が何を思うか?一つの見せ場だったと思うけど、ソレいれると今のあの百鬼じゃあね、反応できないだろうからやっても意味ないか。何か残念。
それ以外はオリジナル通りで、妖怪のおぞましさも出てて良かった。
とまれ、後編はどう続くのでしょうか。
次回、第十五話の「地獄変の巻」にテックセッター!w
うん、今回参りました。個人的にインフルに罹患のため更新がいつもより遅くなりました。更新したらまた寝ますが。
(今回は百鬼丸を応援するよ)
【第十五話「地獄変の巻」の感想】
どろろは、何でこんなに弱いわけ?
百鬼丸が、妖怪を倒すことで人に恨まれるかもと悩むんなら分かるんだけど、お前がそういう世迷い事を言うな!
お前は、コソ泥で擦れっ枯らしだが、仁義を持っていたはずだろ?
百鬼の味方でないといけないのに、ここに来てブレたらいかんでしょう。急にいじけ出したまま、百鬼と袂を別つのは(攫われたにしろ)やはり唐突感が否めない。
我慢するような奴じゃないなら、もっと前に突き飛ばされたり無視された時点でキレるべき。
どろろは直情型で、百鬼が受けた理不尽をクールに流すのを見て、代わりに怒りを爆発させる位、気持ちの良いやつ設定のはずなのに、受け継がれてないんか?
だいたい、こんな尼さんや子供みたいな善良な弱い者たちを犠牲にして、自分たちだけたらふく食って平然としている村人たちなんか、焼け出されて丸裸にされてもツケを払わされただけの話じゃん。これこそまさに自業自得って言うんだよ。
食うか食われるかの、今度は自分達が食われる側に回った、みたいなもんでしょう。
それで贅沢に慣れて、生活水準を落としたくないから、残った食べ物も取り合いしてたから、終いには殺しあいにまで発展するんじゃないか?(この醜い争いを起こす心はまさに鬼神そのもの)
おまけにどろろ自身も生け贄にされかけた、というのにそんな人間たちに憐れみを掛けてどうすんの?そんな必要なんてあるの?本気だとしたら、ずいぶん達観してるじゃない。
殺された尼さんと孤児たちの方が、よっぽどかわいそうだと思うし、孤児たちの妖怪に助けてもらったのに、恩知らずな考えだな、どろろ。
村の子供を見てそう思ったんだろうけど、子供は大概親そっくりに育つものだから、良いも悪いも。反目してさえ、知らず知らず同じ道を歩いてたりするから、血は争えないって言葉もある。
だから、残念だけど人の犠牲の上にヌクヌクと育てられて来た子供たちなら余計に親と同罪と考えられても無理ないでしょ。
詐欺師が人を騙して破産させて自殺に追い込んで、自分の家族は贅沢三昧。
騙された方の借金まみれで苦しんでいる遺族が、その家庭を目の当たりにした時に、騙した人だけを憎むのかしら?ってことよ。世の中綺麗事だけで済まされないですから。それがドラマってもんよ。
あー、それともこれからの口減らしのための子殺しが行われることを心配したのか?絶対やりそうだもんね。
でも、それを百鬼丸に八つ当たりして、話を聞いて=結局それは何とか言えってことでしょ、そう言われても今まで唖者だったのに、そんな難しいことを論理的に話して聞かせるなんて、百鬼にはどう考えてもムリゲー!な要求でしょう。
ばんもんの後で気を使ってたけど、本当は今回の方が百鬼丸は考えさせられて落ち込んでたと思うよ。もう鬼神の勢力が醍醐家のゴタゴタ内で済まされなくなってる訳だし。鯖目を完璧に景光にダブらせて見ていただろうし。
そういう百鬼の何を見てるんだ、基本的に実は自分のことばっかりなんだな、どろろよ。

この村に鬼神は一見豊かさをもたらして見えるけど、こんなの単なる罠のエサでしかないから。
この村人たちのしたことは、赤ん坊から食べ物を奪って餓死させるのと変わりない罪です。
そんな風に自分たちさえよければ、って考えだから、いざ自分達に災難が降りかかると、醜い争いを起こしてるし。
一見ほのぼのと仲良さそうなのも、共犯者の心理から来る馴れ合いだろうし、互いに牽制しあってるだけでしょ。そして悪いことが起こると人のせい。誰かに何とかしてもらおうと、都合の良いことばっかり望んでいて、自分達で努力も工夫もなく真の団結力もない。脆い繋がりの人間関係の村
そうやって見ると、この村人たちの様子って見かけはどうあれ、まるっきり修羅だとか餓鬼とか言われる地獄そのもの、だよね。
人間の持つ慈悲とか思いやりという美徳、仏の道とは対極にある状態
それをこの世に作り出す事こそが、鬼神の本当の目論見なのですよ。
人間が豊かになろうがどうなろうが、それこそ餌となる生け贄が確保できれば、そしてそれを見て見ぬふりできるほど人の心を醜く堕落させられれば、鬼神には後は知ったこっちゃない話なんですね。
突き詰めると『畑もどこもかしこも、ものすごく実り豊かなのに、鬼神に食われ尽くされて人っ子一人いない村』というのが想像できるね。
人はパン=米、のみにて生きるに非ずだが、村人たちは米のために死に絶える訳ね。米以外のものを大切にしなかったばっかりにね。
ソレで良いんか?どろろ。
そんな世界を作らせていいのか?この村に限らないのは見ての通り、景光の所をはじめに以下同文状態。
そして、その元凶が百鬼丸の体を鬼神が奪ったためだとしたら、百鬼丸は鬼神を倒して体を回収しないとダメでしょうね。誰に何と言われようとも。(報われることだけが正義じゃないしね。その辺を描くのかな?と思ってた時もありました)
この百鬼は本能的にそれを理解してそうだし、淡々としてるのが逆に不憫に思えて来るわ。
どろろって百鬼丸に対して、本当にどうでも良い時にいらない世話ばっかり焼いて、肝心な時には役に立たないよね。

しかしさあ、急にオリジナル(=原作の事、最近この意味を取り違えてる人が多く、リメイクオリジナルとでも言うべき所を、単にオリジナルと言っているのでややこしくなる。「原作とリメイク」とはつまり「オリジナルと複製」の関係って言い換えたら通じるか)遵守に走っちゃってるけど、善と悪の定義がブレブレなまま原作通りにやられると、とてつもない違和感を感じるもんだね。
だって、曖昧にしたい悪がこのように考察すると巧妙に汚い手を使って、論点をすり替えようとする紛れもない悪だとハッキリ見えてくるんだもの、辻褄も合わなくなって来るでしょうよ。
その矛盾を今回ハッキリ描写しちゃったもんだから、それを違和感として気付き始めたけど、なぜか認めたくない考えの視聴者の人たちに、それを作画のせいにされていてホントに気の毒〜。(百鬼が鯖目を追いかけるシーンだけは手直した方が良いよ。これって、これってまるで動きが妖怪伝猫目小僧だよーゲラゲラwww)
私は鯖目の理想郷という意味で、この絵の表現なのだなと思った。ほのぼのに見せかけた、実は地獄に村人は住んでいた。
でも、結局は自分達が招いたことでしょう。人外の力を借りると、結果は一か百なんだよね。最終的には百が一になって、力を借りる前より悪くなっただけで、それは当然の結末なのよね。
捕食者はエサたちを放牧して十分に肥え太らせてから、容赦なく狩り獲るのが常套手段だから。百鬼が来たことによって遅かれ早かれ訪れるその結末が少しばかり早まっただけ、とも言える。
それに悪くすると、村人たちは単に幸運の前借りをさせられていただけかもよ。もう本当に運の尽きで、これからは良いことは何一つ残ってませーん、悪いことしか起きませーん状態がコレ!だったりw
というのに、ふさわしい絵だとは思った。主人公たちの顔も良いよ。私は好み。
まあ、確かに、人間っていきなり見慣れたものと違うものを見せられると、良いものでも悪いものでもまず大部分の人が嫌悪感を持つものなので、何であえてこの絵でやったのか?だよね。
ある意味ステマ?のつもりか。
だとしたら成功だから良いのかw。話題にされるうちが花ということ?だよね。実際表面に出ている文句と、隠れた賛同が半々だとしたらむしろ上々?w。あまりの人気に嫉妬

このどろろって何度もいうけど、話を広く浅く詰め込むので、情報量は多く見えるのだろうけど、わかりやすく言うとどれもが浅いからおつまみ感覚で、満足が得られない話の構成なんだよね。今入れなくても!な挿し話が多すぎる。それに本編が削られてたら本末転倒!
見る側もそれに丸め込まれちゃってる、上っ面に騙されてる感じ。
だってオープニング詐欺見りゃ多少理解できるっしょ。ハイライトシーンをチラ見せして子細ありげに気を引いておいて、いざ本編の話になると本当にチラ見せだったり、期待した活躍もしないで曖昧で消化不良、謎設定追加に説明不足でガッカリのオンパレード。
でもって、半端にオリジナル遵守するから、話がリメイクオリジナルの部分との繋ぎがあまりにも唐突でチグハグ。もうちょっとどうにかなったと思うんですが。
作り手が見る側の感性を甘く見てるんだろうな、そこまで考えないだろうと想定して作ってるのがありあり分かる。ま、実際そういう人も多いけど。あ、じゃあいいのか?所詮はマンガだしw。私的に全然宜しくはないけどね。
じっくり腰を据えた話を要領良く見せてよ!こっちはずっと待ってんだよ。
今回は話の内容はまあまあ良かったけど、見せ方がイマイチ。やっぱり多宝丸パートは激しくイラネー(`Δ´)それと朝飯から続くシーンは見せ場のようでそうでもないから(やるなら先週だけど、宴会シーンがあったからだぶって蛇足感しかない)、鯖目の説明も景光で聞き飽きてるから、共にもっとバッサリ短くしてその分、鯖目の異種婚の実態とか、百鬼の戦いの描写に(分かりづらくて何度も見返したよ。もう少しゆっくり見せて)回せば、山場が分かりやすくなっただろうに、という部分がひじょーに残念!だったわ。
(この物語っていつも変な所に山場があるんだわ。ばんもんの山場が狐じゃなく母親の自害シーンって何だよwだし。製作陣の意図しない部分でこんな風に受けてるとしたら、天然なんだろうな、と思うけど、今後それを意識し始めると鼻についたりするし。もし、制作者たちの意図通りだとすると、このままじゃミオの売春アニメ=一番評価されてるが裏技に近いと私は考えてる、というイメージで定着するどろろだよ。あーあ)
にしても、孤立無援にされた百鬼丸が哀れすぎる。今回ちょっと百鬼を見直した回。百鬼の好感度を下げていたのは、明らかにどろろありきの話だったw。私は基本的に子供には弱いし、優しい人が傷つけられるのも辛いから、どろろに甘すぎたかも。でも、今回のどろろは違うから。それに関しては、次の話が正念場な気がするよ。

次回、第十六話「しらぬいの巻」。君は、生き延びることができるか?
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漫画あらすじ どろろグッズ
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