鉄腕アトムのリメイクPLUTOについて
pluto

 もう、漫画のプルートウに関しては、前にも自分のサイト内間で、さんざんコピペしたので今さら感が強すぎて、私的には何も言えねえぇー、状態です。

しかし、初めてご覧になる方達のために(またコピペかっ!と何だかみっともなくてガマンできん!と思ったので、リンク張ってました)でもリンク先もだらだらと関係ない記事が羅列されているので、簡単に読めるように転載しました。私がコンテンツ作る時はだいたい勢いというか、感情を揺さぶられた時に発露として作るのでこっちに持って来るとコンテンツを一つ消滅させてしまいたくなるんですよ。←理由、後で冷静になって自分の書いた文章を読み返すと恥ずかしくて、足をバタバタさせたくなるためです。
なので漫画に関する感想・考察は、以下に記すPLUTOの感想を読んでね。雑誌連載の時からw追っていたので、その時の情感そのままに、書き綴ってあります。

★PLUTOの感想
同サイト内『手塚リメイク作品の感想』よりそのまま抜粋。
 (連載中の感想)手塚治虫の鉄腕アトムの中の長篇漫画「地上最大のロボット」のリメイク作品がPLUTOである。原作では勿論アトムが主人公だが、浦沢作品ではプルートの破壊すべき標的ロボットの七体の内の一体である、ドイツのロボット【ゲジヒト】が主体である。このリメイクは失敗ではない。むしろ人間とロボットの自我と殺人の密接な関係をスリリングに描いていてサスペンス調だし、戦争と言うモノの闇部を肉体を持つ人間ではなくロボットに肩代わりさせている辺りは、危険な宇宙での任務をレプリカントに押し付けているブレードランナーを彷佛とさせるし、独特の世界を作るのに成功していると思う。でも、でもである。どうも手塚先生の影を無理矢理出そうとするあまり、その世界が壊れそうになっているのだ。もう、名前だけで(キャラ的にはアトム自体があんなに容姿が違っているのだから)全キャラ完璧に浦沢キャラにすればヨカッタのだ。実際、初めに出て来るモンブランを見て(なんじゃコレ!ギャグか?と思った)瞬間的に読むのを止めようかと思った。(マジです。だが、気を取り直し読み続け浦沢氏の仕掛けた謎に惹かれて読み続けている)とすれば、この作品は「ああ、手塚作品の方は確かにこんな筋だったね」って感じで物語のおおまかな筋だけ取り入れてもう後は好きにすればかなり違和感なかったのでは無いだろうか?ハッキリ言って、ロボット的過ぎるキャラ=モンブラン、ロボットを意識するキャラ=人間の真似してロボットの家族を持つブランド、に描く時読んでる方は萎える。手塚的にする為にジレンマは感じないのだろうか?と余計なお世話まで感じてしまう。浦沢氏は実力家であると思っている。読んでいて一番好きなのはベタだと言われるかも知れないが、【ノース2号】の回である。これは強く浦沢氏の本領が発揮されていると思うのは間違いだろうか?だからこそ違和感の下りに来ると、こんな描き方はふさわしくない、と感じてしまい腹が立つのだ。しかし、リメイクの欠点もこの作品に無い訳では無い。ウランの性格がアトムを熟知している読者にとっては、違和感ありまくりだ。そういう見方からするとこの作品がいかに優れていても、原作に忠実である事と外れる事の微妙なバランスの取り方は非常に難しいと言える。まだ途中なのでどうなるか判らないが、MONSTERの二重人格オチが出て来る辺りから急速につまらなくなったMONSTER=ヨハンが弱小化(別作品の様だ)二の舞いだけは止めてもらいたいと思う。
(連載終了後の感想) PLUTO終わったな。文字通り完結を迎えた訳だが、これは手塚治虫の原作通りだったな。と言う感想の作品。前にドイツロボットのゲジヒトが事件の謎を追うサスペンスタッチの漫画だと紹介した(上記)が、ゲジヒトは途中までで退場してしまった。話の筋立てとしてはそもそも原作通りにやろうとしていたとしたら、それはそれで良いと思う。が、やはり描き込むべき場所を間違えている様だ。これは最初からゲジヒトの中途退場が決定していたのなら、もっとアトム&殺人ロボット・ブラウ1589かプルート・サハドのエピソードをもっと平行して描くべきだった。そうすればゲジヒトが居なくなった時点で、もっとアトムかプルートの方に意識が向いて緊張感も持続しただろう。てか、浦沢版PLUTOを謳ってんならさ、最後までゲジヒトにやらせるべきだろう。ある意味アトムにゲジヒトの真相究明の解説をさせたり、ゲジヒトの記憶が与える影響が鍵になり最後までゲジヒトの存在感だけはしっかりと消えないくせに、顛末の尻拭いをアトム(手塚治虫氏)にさせた感は否めない。尤もゲジヒトに決着も着けさせるとしたら、アトムは「アトム最後の日」で描かれたアトムの様に、事の傍観者であり、ただそうプログラミングされているから戦う、の様にもっとロボット色を出す存在で居続けさせた方が良い。むしろ心に近い物を手に入れたのがゲジヒト、と言う事でアトムの善悪に基づいての優しさと対比させつつ共闘させれば面白かったのではないかとも思う。そして、その戦いの最後にゲジヒトが改心したプルートと共に、ボラーを食い止める犠牲となり退場する方が、もっと評価の高い作品になった気がしてならない。なので、この作品は佳作ではあるが、傑作ではない。惜敗の敗因は単に『ゲジヒトが活躍し過ぎた上に、最後まで物語の面倒を見なかった事』にある。読者の求めている事と大幅に違い過ぎると、しかも難点だらけで結末に向かうと読者はそれまでの大き過ぎる『期待を裏切られた』と感じ、納得せずに離れて行ってしまわないか、というのが気になる漫画家だ。(あー、でも本当はPLUTOは地上最大のロボットの中の単なるリメイクでも構わず、単にゲジヒトの下りさえ描ければ後は辻褄合えばどうでも良いのがミエミエなので萎えだ。つまり結論的に言うとゲジヒトが退場してからは緊張感が薄れて面白み半減なのですよ)そして今度同じ意味で軽くモンスターの解析やってみようかなwと思った今日この頃である。案外あれは作者の意図しなかった謎もありそうな気がするし。
データ
 原作手塚治虫・漫画浦沢直樹小学館ビッグコミックス 全8巻読んでて気になったのが天馬博士。エヴァのゲンドウに激似〜w。そういえばエヴァで一番気持ち悪い=無気味、と思ったのがシンジがミサトと初めて出会った後電話ボックス前で会った事も無い綾波の姿を幻視した場面。あれが一番気持ち悪い。

付け加えると、やはりロボット家族に『萎える』、というのはつまり『うすら寒い』設定だと思うのです。アトムのは寂しいだろうという、おそらくお茶の水博士のそういう配慮で、与えられた家族なのだろうが、ロボット自身で家族を求めるのって、どういう感情に基づくものなのだろうか?知りたい。
だいたいこれって、サザエさん状態。永遠に変わらない関係。いつまでも子供は子供のまま、というのが一番ぞっとしない。私の場合だけど。
おそらく、人間が望むのが、人間として一番ピークな大人体、の状態を継続すること、だからではないか、と思う。ふつうは、子供の姿は望まないだろうな。愛玩みたいでキモイ。
特に私は、生き延びて大人になるのが、目標だったので、子供に戻るとか、子供のまま、なんて考えただけで、気が狂う。

【舞台版プルートゥ、と言ってもテレビ放送されたものだよ!の考察】
 ということで、Eテレで、2015年1月、Bunkamuraシアターコクーンにて上演された舞台『プルートゥPLUTO』を2017年1月3日(火)23:50〜2:20に放映されたのを見た感想です。
前、2015年5月24日(日)14:30〜17:00にEテレでやってたのも、とちゅうからちょこっとだけ(マジ忙しかったので)見た記憶がある。
今回は眠い目をこすりながら、まあ結構、集中して見ましたよ。
それに今は、ちょうどいい具合に、細部は忘れてたんで、逆に「ああ、そうそうこういう筋だったな」みたいに思い出しながら、楽しめたのも事実。(なよたけ……w。『さて以前の「なよたけ」の筋は、ほとんど頭に浮んで来ない。だが、こう言う程度に記憶の薄れた方が、いよいよ舞台が始まると、後から後から薄紙を剥ぐ様に思い出されて来て、ちょうど良い位の前準備をして芝居が見れる、と言った程度の知識になっているだろうから、これはきっと楽しいぞ。』by折口信夫「なよたけ」の解釈より抜粋)

どうも、原作を知っているために、演繹的に見てしまっていたが、よくよく考えると、これは帰納的に見るべき作品であったようだ。
というのも、最初見づらくて邪魔!これもパントマイムの表現方法ゆえなので、仕方ないのか、程度にしか考えていなかったのだが、それが違うということに気付いた。
ロボットの役者に、白づくめのパントマイマーが2、3人付いて、操る仕草をしてロボットである、という表現をしていたのだが、これの表現方法について、二通りに考えることができるのに気付いた、というわけなのである。
首から下は全てロボットのゴジ博士、は首から上は人間なので、パントマイムが付かないのは当然だろう、と思いきや、終盤で天馬博士が、ゴジは首から上も人間ではない、完ぺきロボット、というのを聞いて
1単純に、ネタバレを避けるために、最初からパントマイマーを付けなかった。
2パントマイマーが付くのは、ロボットだが、付かないロボットもいた。その違いが、この作品のテーマになっているのではないか?
というものである。
と。まあ、その前にこのステージに、付いての感想を。
【キャストに対しての感想】
アトム森山未來
この人はあんまり、にこやかなイメージがない。でも、他の人にはないノーブルさがある。謎めいていさえいる雰囲気が、アトムというロボットに合っていると思う。
ウラン&ヘレナ(ゲジヒトの妻)永作博美
ウランは最初見ていてキツいと思ったが、ヘレナ役をやってからのウラン役、の切り替えのうまさを見ると、さすが女優!と思った。
天馬博士柄本明
天才の激しい気性を持つ風変わりな科学者、というよりも偏屈的な科学者、のイメージだった。もう、やりつくして燃え尽きた後に、達観した天才、って感じ。
お茶の水博士吉見一豊
お茶の水役には、ちょっと若々しく感じた。むしろ天馬の方が、合ってそうな気がするんですが。柄本さんと、逆っていうのも見てみたかった。
アブラー松重豊
神経質そうな、への字口で、誰も信じない、という冷たそうな科学者、そのものだった。生で見たらどうだったんだ、見たい、と思った。
ゲジヒト寺脇康文
某刑事役のイメージが強いからか、刑事以外には見えない。しかし、漫画通りに地味なゲジヒトよりも、この人のように人間臭いゲジヒトの方が、アトムが逆にのっぺりした印象なので、良かったと思う。

【舞台そのものの感想】
漫画で、私がダメ出しした部分がスッキリしていて、気持ち良い位だった。
つまり『ゲジヒトとアトム』のダブル主演、で行なわれていたのである。
あのプルートウと言う漫画の、エッセンスを見事に取り出して、構築してあった、と言える。
ただし、やはりそれにはこの浦沢直樹の、プルートウを読んでから臨まなければ、つまりある程度の下調べ、基礎知識、は必要とされる。(でも、ストーリーは漫画まんまなので、読むとネタバレ感満載だし、痛し痒し)
でないと、やはり楽しめないかも知れないと思う。(私のようにうっすらとしながら、思い出しつつ見るのが最高、だと思う。折口論の通りであった。)
そう言う意味では、やはりこれもマニアックな人々を、引き寄せる舞台なのだろう。
漫画のコマ割りの様な白い箱が、さまざまに組み合わされ、それにプロジェクターで、浦沢氏の漫画のカットを差し込んだりの、空間をコミカライズするというような、面白い工夫がなされていた。
話の流れ、パントマイム、役者の動きもそれぞれ、計算されつくしており、単純にボーッと見ているだけで、楽しめる作りだと思う。
というのが、大まかな感想である。
この漫画がそもそも、フセインを失脚させたあのイラク戦争での、アメリカという国が掲げた、大量兵器保有が無かった、という事実をそのまま移し替えているもので(元々の手塚の物語も金持ち=アラブの財産家、のロボット道楽の人物設定、からの発展でもある)現実的に、政治的に考えてその後の国際政情を見ると、ひじょうに悩ましいものを感じます。
誰が、どんな利益の元に、この戦争をやらせたのか?は、もちろんこの物語とは、無関係ですが?

では、この【舞台の考察】に行きます。
 ロボットと人間の境界が、実に不鮮明なのが、この物語の特徴でもある。
人間の自我の確立には、何が必要なのだろうか?これもきわめて難しい。
「私は『何』である、」と言うために、この『何』の部分が、明確にロボットと人間を分けるもの、でなければならないとしたら、いったいそれは何なのだろうか?
これを、帰納法でしなくてはならない。
たくさんの現実を積み重ねて、それから推論して導き出す、というアレ=論法だ。
(でなくて、演繹法だと「私は人間である。」とそれだけで、終わってしまうw。むしろやり方はかんたんに言うと、容疑者にされてしまい、その間のアリバイをたくさん示して、無罪を証明するような感じ、でされなくてはならない。単に「私は無実だ!」と叫ぶだけでは、誰も納得しない、のと同じことである。)
その手がかりこそが、登場人物が何度も言う台詞
「ロボットは、忘れることができない」「ロボットはウソが吐けない」
である。
登場人物=ロボットというひとくくりにした存在、がどれも一様に言っていたことである。
忘れる、とはロボットの場合は『メモリのデリート』=記録の消去、に他ならない。
忘れる、とは人間ができることなのである。
この場合の忘れるとは、思い出という『事実の忘却』である。
が、人間にはこれに対になって、思い出す、という言葉がある。
思い出だから思い出せるのだろう。
だから、ロボットのは記録でしかないので、思い出すことは無いはずなのである。
それが実は、完全なる消去は存在せず、表面では消去しているように見えても、階層の深い部分で残っている、それがアトムやゲジヒトたちのような、高性能なロボットの頭脳の特徴、だとしたら、ロボットの人工知能も、優秀過ぎると人間に近くなる、ということなのだろうか?
だとすると、ゲジヒトを見ると彼は忘れていた、『ある事実』を『思い出した』のである。
そもそも、なぜ彼が記憶を消去されたか?だが、その事実が不適切だからである。
不適切とは、存在理由を脅かす理由となること、と言う意味である。
わたしたち人間が衝撃的な出来事を、忘れる、というのも、ずっと保ち続けると、激しい感情によるストレスで死ぬだろう。
そう、忘れるというのは、自己防衛なのかも知れない。
で、ここで問題になるのは、激しい感情、である。
ゲジヒトは激しい感情に我を忘れてしまった、ためにロボットとしての一線を越えた、のである。

では、感情を持つことが人間か、というとそうでもない。
それは生物である、と言う意味だ。
ネコにもイヌにも感情はある。
そこで、ウソを吐く、とはどういうことか?が問題になる。
動物は、ほとんど感情をストレートに出す。
たまに、頭の良い家畜は、見え透いていても、保身のためのだけのウソを、吐いたりする。
イヌが餌を食べておきながら、隠そうとしたり、いたずらにしらをきり通したり、などだ。
それは、人間でも当然そうだ。
たとえは何だが、詐欺師は金が欲しい、でもストレートに金を出せ、とは言わない。
ウソを吐いて巧妙に金をだまし取る。
また、この事実をそのまま言ったら、その人はダメージを受けすぎる、と思ったらこれもウソを吐いたりする。いわゆる方便。
つまり、このように欲望から、あるいは思いやりから、さまざまなウソを吐く、のが人間である。
人間とは、こういうウソが吐ける生き物なのである。
この登場人物のロボットたちは、二種類いるようだ。前述の、ウソにも二通りあるように。
アトム・ゲジヒト。
ブラウ1589(ブラウ=ドイツ語で青=ブルー1589年ブルボン朝成立年。よって青騎士ブルー・ボンのこと、とされる)、見かけはかわいいクマタンの人工知能Dr.ルーズベルト。
そして、ゴジ博士。


【舞台を見た後で、改めて漫画読んで思うこと】
 この漫画のネーミングもなんだかな。プルトニウムでつか。数年前に聞いたプルサーマル計画失敗、を思い出しました。
そして、手塚アトムの青騎士の巻(講談社の手塚治虫漫画全集の鉄腕アトム15巻、がひじょうに参考になると思われます。そこにあるアトム復活、も合わせて読むと、その結末をこのプルートウという作品で、ある程度カバーしている気がしますね)
しかし、ブラウ1589(以降ブラウと呼ぶ)は、ほんとうに完ぺきなロボットだったのか?
この作品の場合、ロボットとして完ぺき、というのは違った意味がある。
まず、ブラウは幽閉される前に徹底的に調べられたが、異常はなかった。
これは、機械的にミスったヶ所が見つけられなかった、と言う意味だろう。
ロボットは正確無比、そしてまちがわない存在である、というのが一般的な定説。
その通りだった。だからロボットとしては、完ぺきだったはず。
しかし、ロボットの原則を破る人殺しをしでかした。これは、完ぺきなロボットではない。
が、天馬博士が言うように、まちがったり、激怒したり、憎悪したり、とまるっきりオメガ回路でも仕込まれたようなそんなロボットが完全とすると、アトラスのような人間に極めて近ければ近いほど、完ぺきなのらしい。

ぶっちゃけ、『人間というものの忠実なコピー』と言う意味なのだろう。
(実はこんなのはナンセンスである。
原発なんかでミスするロボットなんて、誰が欲しい?ということである。
それに、アトムの場合もそう。飛雄の身代わりになれないから失敗、のように言われてるけど、そんなのあり得ない。
人間でも誰かの身代わり、というのは侮辱以外の何ものでもないから、ふつうは誰かの身代わりになんかされたら怒るし、役柄としての身代わりにはなれるけど、似ているからそのまま本人の代わり、と言われてもムリ!
死んでしまった誰かを、造りあげるのは、神にしかできません。それをするのは神になる、ということです。人間は神にはなれません。また、神もそれをしません。その行為が、正しくないからでしょう。)
だとすると、やはり私はブラウもゴジも(Dr.ルーズベルトは論外。権力を手に入れて欲望だけで突っ走っている、制御の効かない壊れた機械、にしか見えない)『人間というものの、完ぺきなロボット=コピー』とは言えない、と思う。
本当は、ブラウもわかっていたと思う。自分には決定的に何かが足りないだろう、ということを。
最近聞いた言葉で、人間は誰しもギリギリの淵に立っている、踏み越えないように踏ん張れるのがふつうの人間なのだ。
彼らは、安直過ぎると思う。つまり、感情の制御がゆるい。
確かに人間に近いとは思う。でも、それって壊れてるイッちゃってる人みたいで、ふつうの人間とは言えない。人間のなりそこないのバケモノ、に見える。
高性能の頭脳に偏った感情だけを持ち、それに振り回されるだらしのない理性、しか持っていないのがゴジやDr.ルーズベルトなのだろう。
そんなのが完ぺきなどと、一般的に認められるだろうか?
 ブラウだけは、最期にトラキアのアレクサンダー大統領の、息の根を止める=しめ殺す、のを止めている。つまり助けたのである。
ブラウがあまりにも事情通なのは、高性能な電子頭脳は、同じような電子頭脳に共鳴、つまりテレパシーのようなもので通じ合っており、ってまあ『目に見えない意志のネットワークが、張られている』と言うことなのかも知れない。
だから、Dr.ルーズベルトも(それでなくとも、ふつうにネットワークの世界を掌握して、全世界の情報を知っていそうだ)色んなことを知っていて、策略を巡らしているのだろう。
ただ、知っていても、実感はないんだろうね。そこをなんか勘違いしていそうだ。ゴジが自分を人間だと思いこんでたように。
あまりにも人間に近いブラウは、アトムやゲジヒトともつながっていた(ゲジヒトのメモリーチップを交換している)ので、彼らの体験と感情の成長とも、つながっていたのだろう。
では、最期にブラウが得たのは何か?だが、それは赦すことだと思う。
ブラウが手に掛けた瞬間、アレクサンダー大統領は、死にたくない、と猛烈に感じたのだろう。
それに反応したのだ。赦すこと、寛容する、慈悲である。それこそが、暖かい心そのものである。アトムはもちろん、おそらく死ぬ時にゲジヒトもこれを得たのだろうと思う。
人間が一番むずかしいことは、この『赦す』ということだと思う。
それを獲得できた時に、ブラウもまたゲジヒトやアトムと同じ、になったのである。
が、ここで一つ疑問が出た。
それは、ロボットが得られる感情で、ほんとうにこれだけはどうなんだろう?と思う感情が、一つだけある。
それは、肉身と切っても切り放せないもの、痛みに伴う感情でもある。
つまり『恐れ』である。肉体の痛みを感じるから恐れというものを感じるので、痛みがないのに恐れを感じることができるのか?また、心の痛みもそれを『痛み』と認識できるのか?(知りたい)
だから、漫画ではそれがわかっているのか意図的か、いっさい自発的な恐怖の描写はナイ。
(自分が感じで出る「こわい」って台詞のこと)
人間が死にたくない、と思うのは、まさにこの絶大なる恐怖、からである。
肉体の痛みもそうだが、自分がどこから来てどこへ行くのか?世界との別離への痛みである。
はたして、ロボットはこれが理解できるか?である。
わたしたちが、他人に対して優しくできる要因の一つが、恐怖に対する同情心である。
そう考えると、どうなんだろう?とものすごい疑問が湧く。
(手塚先生のアトムにも、アトムが人間らしい恐怖を得たとたんに、ウランよりも弱くなるという話があった。とすると、まったくロボットに無縁、というか無用な感情が実は恐怖かも知れない)
『弱者に対する慈しみ』であるが、アトムやゲジヒトたちは、恐怖自体は理解できなくても恐怖している人間の状態はある程度、察することで共感のようなことができたのかも知れない。
大人が子供に本気にならない、のと同じ気持ちかもね。
だとすると、他者への共感、からウソを吐くことこそが、人間ということに他ならない。
アトムたちは、おもいやりから、ウソをつけるだろう。
けれど、ゴジやDr.ルーズベルトたちは、そんなことをすること自体、思い浮かばないにちがいない。
アトムたちが手に入れた感情を、手に入れていないからである。
アトムが一度壊されて、偏った感情を注入されて目覚めても、また元のアトムに戻れたのは、アトムが元々、思いやりという優しさの感情を持っていたからである。
わたしたち人間の様に、両方を獲得したのである。
つまり、完全な『心』=魂とも言い換えられる、というものを獲得した、のである。
人間は『心という魂』があるから人間なのである。

アトムがブラウに頼んだことだが、『Dr.ルーズベルトを止めて欲しい』の様に解釈されているが、どうだろう?
私にもアトムが何を頼んだのか?良くわからない。
ただ、アトムの頼みを果たすために、ああいう結果になったのだけはわかる。
では、ブラウはなぜ自分が壊れる=死ぬ、とわかっていて槍を抜いたのか?
機械は壊れても直せる、が人間は死んだら生き返らない。
邪魔者は排除すればいなくなってスッキリ、位にしか考えていなかったのが、死とはいったいどういうものか?を理解したのかも知れない。
生きているもの、すべては死にたくないのだ。
人間は死にたくない、と考える生き物だ。人間に近くなればなるほど、死にたくない、を理解するはずである。と、同時に自分が何をしたか、を思い知らされる。
自分の、ではなくても命というものを惜しむ心、なのだろう。
だいたい死を償うには、自分が死をもってしても人の役に立つことをする、それ位しか償いの方法はないだろう。
プルートウもブラウも、そこに達したのだろうか?
というか、そうあって欲しい。
 正直、舞台ものを直で見るのは苦手なので、こういう雰囲気だけでも十分に伺える、うまい編集のテレビ版って好きです。
市川染五郎が舞台でやったドラキュラも、テレビでやったのを見て、良いなと思いました。(どんだけ古いんだw)
その後にツレちゃんと呼ばれた鳳蘭、永島敏行が出ていて新聞で話題になった、でも見たら大したこと無かった(ショッキングでもなかった)人形の男性シンボルをナイフで切る、という演出のどちらかというと眠気を誘うギリシャ悲劇の舞台もの、もテレビでやってたのを見た位しか印象にないので、あんまり批評めいたことも言えないです。
最近、と言っても数年前にも四季のリトルマーメイドを、見に行こうとものすごく楽しみにしていたのに高熱でダウンして行けなかったり、こんな風に実際に行こうとして行けなかったり、むかし見に行ったことのある舞台でも、あんまり良い記憶がナイ!(舞台そのものより環境的に)というね。
ゆえに、私は家でゆっくりテレビで見たい人、なんですよ。それが一番楽しい!
(ぶっちゃけ一緒に行ってくれる人がいないのだよ!悪いか、うわーん。涙)
このプルートウに関しては、DVD出たら欲しいかも=もういちど見たい、と思わせる舞台というのが結論なので、良い出来だったのではないでしょうか。マジで、DVD出たら欲しいです。
舞台のレビュー見つけましたので、リンク貼らせていただきます。
エキサイトイズムのレビュー(舞台の様子が写真付きで解説された記事で私的にかなり好きだった)がありましたがリンク期限切れで記事が削除されたようです。代わりに舞台のチラシがあるので雰囲気だけでも感じ取れるように(このチラシは大量に配布されたと思うのでギリ大丈夫かな?とダメなら削除します)載せてみます。
本当に舞台見て(テレビだけど)よかったと思うし、配役を変えて再演されているので、このPLUTOの舞台化は成功だったと思う。


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