工学という高度な理念には、感動させられた。
数学と自然科学を基礎として、人間の作った文明・文化や社会の知識や見識を使い、公共の安全、健康、福士のために快適な環境を作りあげるための学問、って本当にすばらしいです。 科学って完ぺきとか正しいとか原理をただ追求するだけ、つまり系統立てて研究ために、ひたすら研究をすること、が目的みたいなので、それに心を求めるのはそもそも間違いだったんだなあ、と気付かされた今日この頃でございます。 (ああ、ミクロイドS) |
2003年4月7日がアトムの誕生日 |
わたしは、結構積ん読が多かったりします。
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ここからはネタバレですが、(本書読め!と言っておいて、ネタバレもたいがいにしろ、と言われそうw)結末は、エヴァンゲリオンの補完計画だったという。
あの有名なデュマのUnus pro omnibus, omnesprouno(ウヌス・プロ・オムニブス、オムネス・プロ・ウノ、和訳:一人は皆のために、皆は一人のために)で『個人はみんなになり、皆で一つのモノになった』のでした。 つまり、完全なるハーモニー『調和』する世界が樹立されました。うわっ、キモッ! 感情って言うのは、他との接触で生じる比較から生まれるのだとしたら、個しか無い世界には、感情は必要ないと思う。あっても意味がナイから。 ロボットが、火の鳥に出て来るロビタのように、ロビタとしての共有の意識があるとすると、個は一つ一つの部品に過ぎずに、全体で一つのロビタ=ロボットを形成しているようで、人間も同じく能力や体格、役割はゼンゼン違うけど、全部で一つであり、個では計り知れない命題の元に生きている、そして社会を作らないと生きて行けない生物、なのかも知れません。 それらの前には、個人としての意志とか感情って、どうなるんでしょうね? わたしたちは、個人の意志と感情をいっさい無視して、社会=国家に、貢献させられたことがありますね。そうです、戦争の時にはそんなものは、存在しないんですよ。 戦う時に、もっともそれがハッキリした、ということなんでしょう。 いやー、意識はあっても、意志と感情がない世界って、クソです、クソ。(お下劣でごめんねえ、と訛る) |
ロボットがそういう超個体、という存在であるとしたら、個々で意志とか感情は生まれるのだろうか?
唯一の独自性を持たせたい、としたら異質な感情(プルートウでは、偏った、つまり強烈な感情で、人間ならいつまでも忘れられないで、持ち続ける感情である、憎しみ=恨み)というプログラムを注入するということなのだろう。 となると、やっぱりロボットは人の感情のメモリー(記憶)をコピーすることでしか、感情を獲得できない、とするとなんともお寒い、原始的なカニバリズムなのでしょうか。 殺めて食人して力を得たり、秩序を回復させる、のが目的、というあのカニバリズムという行為と、いったいどこが違うんでしょうね? 結局、一から創造できないのだとしたら、こういう他を取り込んでの流用(コピー)もそのコピー元に対する是非の議論が、持ち上がるのが必至と思われるので、もっとかんたんに、逆を考えてしかるべき、だったのである。 つまり、銀鉄999の、ハーモニーの、世界の一側面=我々の肉体が機械に置換される世界、人間が無機質に近づく事こそが、トンチンカンでイッちゃってる、出来損ないのAIから、先に進むのに明らかに人身御供が必要とされる、そんなザマを見る位なら、そうした方が手っ取り早い方法だろう。 宗教的にも、人工の生命体もどきを造って、神にでもなったつもりで(いい気になりたいんでしょうが)、不遜すぎる=人類に貢献しないただの研究のための研究、税金ザブザブ使って、実験して失敗するようなバカくさい、福祉や被災地に、その分を回したらいかが?と思えるようなのは、ご勘弁願いたいので、むしろ肉体を変える研究の方が、人類のためにならないだろうか? (でなければ、パワードスーツのような、人間の弱い肉体をカバーしてくれるもの、を作ってくれた方がよほど、人類に貢献してくれると思う。) とはいえ、肉体を改造すると言っても、遺伝子操作には反対である。多様性を失った結果、想定外wの壊滅の危機に瀕すると思うので、それをやりたいなら、まず地球の環境を自在にできる位の技術を、発展させてからにして欲しい。 それに、操作=デザインされた遺伝子、と旧人類となった人との間では、おそらく子供は作れないでしょう。 操作した人たちの間でも作れるの?って良くわからないんだけど、それも試験管なんかで作るのか? そういうアクセサリー感覚で、ただ優秀と思える遺伝子によって、作られた子供自身がその事実に対してどんな気持ちを抱くのか?ということまで、はたして考えているのか?そこも疑問だ。 まさか、作りっぱなしでそこは放置、だとするとりっぱに育児放棄、という行為で、そういうの考えると薄気味悪い。 まるでペットを選ぶみたいに、何か問題が出たら、即、保健所に連れて行くんじゃないか?と思えてしまって、ダメなんだよね。 そんなものを、作りあげられる気持ちが、わたしには理解できない。 人間はハード(肉体)ではなく、あくまでソフト(精神)が重要である、というの忘れたらダメだと思うよ。 ハードが重要だと思うんなら、それこそ機械化すべきでしょうw だいたい、遺伝子ってのが、情報と子孫をどれだけ残すか、が目的なんで、個人で優れても、個人的な資質って、我々から見た価値観に過ぎなくて、ぶっちゃけ遺伝子側から見たら、あんまり意味がないんじゃないか?とも思う。 あんがい、そうやっていじくった遺伝子の人たちが、何らかの原因で全滅して、少数の旧人類だけが残った、なんてことになったりするかもね。 優秀なことと引き換えに、どうしても短命になってしまうとか(ブレードランナー…)なぜかそう思えるというか、直観めいて考えてしまうのであった。 |
こう見て来ると、人が人であると言うこと、とは?
生物なので、どこにいようと人間である限り、まず食べる排泄する、眠るなど基本的なものは、普遍である。 そして、文化的に見て、2000年前(外国ではそれ以前も)昔も今もあまり意義が変わらない物もある。 それは、死んだ人を葬る行為。 明治の文人も、世の中文明開化した後でも、紳士も女学校を出たインテリのレディでも、決して肉親を共同墓地に葬ろう、などとは考えたりしない、と言っている。 人は死を恐れる、いや畏れる。 悼みはすなわち、痛みなのである。この悼み=痛みを忘れ去った時こそ、人はもう人ではなくなるのだろう。 と私は思う。 こう言うと精神論とか言われるかもだけど、肉体があるから精神があるのか、精神が肉体を造りあげるのか?どちらにせよ、どちらか一方からだけでは、人間のことは語れないのは事実である。 また魂、という概念からも考えてみなければならない、としたら。 もしも、魂が転生する、というのが本当だとすると、肉体はたんなる魂の乗り物に過ぎず、それが解明された暁には、魂を機械に移すなんてことも、考えられたりはしないだろうか? テーマが火の鳥くさくなって来たところで ――― つづく、かもしれない。
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