工学という高度な理念には、感動させられた。
数学と自然科学を基礎として、人間の作った文明・文化や社会の知識や見識を使い、公共の安全、健康、福士のために快適な環境を作りあげるための学問、って本当にすばらしいです。
科学って完ぺきとか正しいとか原理をただ追求するだけ、つまり系統立てて研究ために、ひたすら研究をすること、が目的みたいなので、それに心を求めるのはそもそも間違いだったんだなあ、と気付かされた今日この頃でございます。
(ああ、ミクロイドS)
アトムとウラン
2003年4月7日がアトムの誕生日

わたしは、結構積ん読が多かったりします。
まあ、気が乗らなければ買った本も、何年も放置しっぱなし、というわけです。
てゆーか、読む時期がちゃんと設定されてる?みたいなタイミングで読めます。(無意識ってすげえ)
 そんなわけで、今回肉体と機械のことを考えたら、気になって読んだのが小説『ハーモニー』(伊藤計劃=いとう けいかく、著)でした。
それを読んで痛切に感じたのは、痛みと恐怖と悼みだった。
人間=人類が、体に管理機能を持つ機械を入れている世界。
そこでは、人間の肉体の限界値まで、病気も痛みも感じずにいられる世界。
 こういうのはどうなんだろう?
肉体が痛みを感じないと、まず恐怖に対する感覚がマヒすると思う。
恐怖は肉体に対して、損壊を出させないためのリミッターとなる。
恐怖とか不安は悪いことの様に思われているが、我々がこの肉体と呼ぶ生活の場、を失わせないためには絶対に必要なのである。
そのリミッターを緩めるのは、嗜好品だったりする。
酒やタバコなど、むかしは戦場に行く兵士の恐怖心を和らげたり(今でも)個人の社会不安などから、麻薬というものが使われている。
これは快楽というよりも、このリミッターを緩くする=恐怖や不安から逃れる、ためのものだろう。
 ハーモニーの中でも(これは賛成はしかねるが、そういう見方もあるんだなあと思った)肉体的な造りが欧米人に劣るアジア人の肉体労働者の男たちが、肉体のリミッターを外すため(寝ない、疲れないようにする)に麻薬を使ったので、バリバリ働くアジア人に仕事を取られまい、と白人の労働者が禁止させた、と書かれている。
【余談だが、そうやって肉体からの警告を、シャットダウンさせる力がある、というのはホームズ&ワトソン・イン・ニューヨーク(アメリカドラマ)の中でもホームズが、麻薬を使って頭をハッキリさせて何日も徹夜した、とあるのでそれほどの威力があるのだろう、でもドラマだから実際はどうかな?とは思っていた。】
 このハーモニーの世界は肉体至上主義なので、(その理由は本書を読んでね)もちろん麻薬の禁止はおろか、酒やタバコの嗜好品の類いも自主規制される風潮なのである。
この肉体からの警告を読み取って事前にケアしてくれる、という機械を体に入れる、と言う本当の意味は、このリミッターを外す行為と実は表裏一体なのだと思う。
肉体に生じた危険な瑕疵を、本人には知らせないままに、放置させるか?勝手に手当てするか?の違いに過ぎない。
結果がちがうだけで、(結果も大事だけど)結局本人=本体=肉体、が何も知らないってどうなんだ?
ぶっちゃけ、自分に対して無責任過ぎるだろう、とだいたいこのモヤモヤが、潜在的な不安だとか恐れとして存在し、自分の体なのに、自分のモノじゃない、個というものへの不安定感的な世界が構築されている。
 当然自分が受け取って、学習して獲得する感情は、何度も言うが肉体とは切り放せないと思う。
特に危険なことは、痛みというものを幼少から少しずつ体験して行くことで、回避の方法を獲得していくはず、なのである。
それを体験させない世界、ってのは、どんな感情が芽生える世界なのだろうか?

ここからはネタバレですが、(本書読め!と言っておいて、ネタバレもたいがいにしろ、と言われそうw)結末は、エヴァンゲリオンの補完計画だったという。
あの有名なデュマのUnus pro omnibus, omnesprouno(ウヌス・プロ・オムニブス、オムネス・プロ・ウノ、和訳:一人は皆のために、皆は一人のために)で『個人はみんなになり、皆で一つのモノになった』のでした。
つまり、完全なるハーモニー『調和』する世界が樹立されました。うわっ、キモッ!
感情って言うのは、他との接触で生じる比較から生まれるのだとしたら、個しか無い世界には、感情は必要ないと思う。あっても意味がナイから。
ロボットが、火の鳥に出て来るロビタのように、ロビタとしての共有の意識があるとすると、個は一つ一つの部品に過ぎずに、全体で一つのロビタ=ロボットを形成しているようで、人間も同じく能力や体格、役割はゼンゼン違うけど、全部で一つであり、個では計り知れない命題の元に生きている、そして社会を作らないと生きて行けない生物、なのかも知れません。
それらの前には、個人としての意志とか感情って、どうなるんでしょうね?
わたしたちは、個人の意志と感情をいっさい無視して、社会=国家に、貢献させられたことがありますね。そうです、戦争の時にはそんなものは、存在しないんですよ。
戦う時に、もっともそれがハッキリした、ということなんでしょう。
いやー、意識はあっても、意志と感情がない世界って、クソです、クソ。(お下劣でごめんねえ、と訛る)
 ロボットがそういう超個体、という存在であるとしたら、個々で意志とか感情は生まれるのだろうか?
唯一の独自性を持たせたい、としたら異質な感情(プルートウでは、偏った、つまり強烈な感情で、人間ならいつまでも忘れられないで、持ち続ける感情である、憎しみ=恨み)というプログラムを注入するということなのだろう。
となると、やっぱりロボットは人の感情のメモリー(記憶)をコピーすることでしか、感情を獲得できない、とするとなんともお寒い、原始的なカニバリズムなのでしょうか。
殺めて食人して力を得たり、秩序を回復させる、のが目的、というあのカニバリズムという行為と、いったいどこが違うんでしょうね?
結局、一から創造できないのだとしたら、こういう他を取り込んでの流用(コピー)もそのコピー元に対する是非の議論が、持ち上がるのが必至と思われるので、もっとかんたんに、逆を考えてしかるべき、だったのである。
つまり、銀鉄999の、ハーモニーの、世界の一側面=我々の肉体が機械に置換される世界、人間が無機質に近づく事こそが、トンチンカンでイッちゃってる、出来損ないのAIから、先に進むのに明らかに人身御供が必要とされる、そんなザマを見る位なら、そうした方が手っ取り早い方法だろう。
宗教的にも、人工の生命体もどきを造って、神にでもなったつもりで(いい気になりたいんでしょうが)、不遜すぎる=人類に貢献しないただの研究のための研究、税金ザブザブ使って、実験して失敗するようなバカくさい、福祉や被災地に、その分を回したらいかが?と思えるようなのは、ご勘弁願いたいので、むしろ肉体を変える研究の方が、人類のためにならないだろうか?
(でなければ、パワードスーツのような、人間の弱い肉体をカバーしてくれるもの、を作ってくれた方がよほど、人類に貢献してくれると思う。)
とはいえ、肉体を改造すると言っても、遺伝子操作には反対である。多様性を失った結果、想定外wの壊滅の危機に瀕すると思うので、それをやりたいなら、まず地球の環境を自在にできる位の技術を、発展させてからにして欲しい。
それに、操作=デザインされた遺伝子、と旧人類となった人との間では、おそらく子供は作れないでしょう。
操作した人たちの間でも作れるの?って良くわからないんだけど、それも試験管なんかで作るのか?
そういうアクセサリー感覚で、ただ優秀と思える遺伝子によって、作られた子供自身がその事実に対してどんな気持ちを抱くのか?ということまで、はたして考えているのか?そこも疑問だ。
まさか、作りっぱなしでそこは放置、だとするとりっぱに育児放棄、という行為で、そういうの考えると薄気味悪い。
まるでペットを選ぶみたいに、何か問題が出たら、即、保健所に連れて行くんじゃないか?と思えてしまって、ダメなんだよね。
そんなものを、作りあげられる気持ちが、わたしには理解できない。
人間はハード(肉体)ではなく、あくまでソフト(精神)が重要である、というの忘れたらダメだと思うよ。
ハードが重要だと思うんなら、それこそ機械化すべきでしょうw
だいたい、遺伝子ってのが、情報と子孫をどれだけ残すか、が目的なんで、個人で優れても、個人的な資質って、我々から見た価値観に過ぎなくて、ぶっちゃけ遺伝子側から見たら、あんまり意味がないんじゃないか?とも思う。
あんがい、そうやっていじくった遺伝子の人たちが、何らかの原因で全滅して、少数の旧人類だけが残った、なんてことになったりするかもね。
優秀なことと引き換えに、どうしても短命になってしまうとか(ブレードランナー…)なぜかそう思えるというか、直観めいて考えてしまうのであった。
こう見て来ると、人が人であると言うこと、とは?
生物なので、どこにいようと人間である限り、まず食べる排泄する、眠るなど基本的なものは、普遍である。
そして、文化的に見て、2000年前(外国ではそれ以前も)昔も今もあまり意義が変わらない物もある。
それは、死んだ人を葬る行為。
明治の文人も、世の中文明開化した後でも、紳士も女学校を出たインテリのレディでも、決して肉親を共同墓地に葬ろう、などとは考えたりしない、と言っている。
人は死を恐れる、いや畏れる。
悼みはすなわち、痛みなのである。この悼み=痛みを忘れ去った時こそ、人はもう人ではなくなるのだろう。
と私は思う。
こう言うと精神論とか言われるかもだけど、肉体があるから精神があるのか、精神が肉体を造りあげるのか?どちらにせよ、どちらか一方からだけでは、人間のことは語れないのは事実である。
また魂、という概念からも考えてみなければならない、としたら。
もしも、魂が転生する、というのが本当だとすると、肉体はたんなる魂の乗り物に過ぎず、それが解明された暁には、魂を機械に移すなんてことも、考えられたりはしないだろうか?
テーマが火の鳥くさくなって来たところで ―――

つづく、かもしれない。

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