まず、手塚先生が月刊マンガ少年別冊火の鳥乱世編の表紙裏に、寄せられたメッセージ抜粋。
「乱世編について」
「乱世編」は、望郷編にひきつづいて『COM』に連載をはじめようとして、第1回だけ書いて、中断してしまったものです。
 あの当時は、『COM』は売れなくて気息えんえん、ついに一時期おかしなポルノ雑誌まがいの青年誌になり、
よけいに評判をおとして、またもとのスタイルで再開したときに、はじめようとしたものです。
 この「乱世編」には、ほんものの火の鳥はついに登場しません。
飛びまわのはクジャクだけです。しかし、登場人物のいずれもが火焔鳥、火焔鳥といってさわぎたてるところが、この編の新味で、ありえない存在にたいして夢を追いつづけ、それが生き甲斐となっているある種の人間像を、しつこく描こうという物語です。
わたしは結構、キャラなどを手きびしく批評する部分もありますが、マンガが一般化しすぎて=子供の読み物から逸脱、そうした結果、現実として鵜呑みにしてしまうんじゃないか?と昨今の素直な人たちを見てて、怖くなったので、現実的な批評にならざるを得なくなってしまいました。
あんまり無責任な、アウトロー推奨もいかがなものか?と思ったんです。
まさか本気にするバカはいないよ、たかがマンガ!などとは言い切れない世の中、になって来た気がします。
空気読めって言ってる割に、大切なことがスポーンと抜けてる、人が多いような気がして仕方ないです。
本読まない、映画見ない、そこから感銘を受けたりして人生について深く考えること(←何につけてもこれだけが大事)が少なくなったからだと思います。
その代わりとしてエッセンスのみのマンガわかりやすさもあって、そこから何かを学ぼうとする人が増えているのではないか?と思うのです。
悪いヤツぁ、三つ子の魂百まで、死ぬまで卑劣で悪いヤツなんだよ、人間てのはそうそう変わるわけがない!
というのを(真実を)とりあえず言い聞かせておく方が良いです。
馬の耳に念仏かもですけど、教える義務はちゃんと果たしておかないとね★
薄っぺらい同情だとか感動とか、に踊らされると、実にあほらしい結果にしかならないです。
そういうものも大事な時があるけど、その時を見きわめられるほど、ほとんどの若い人は人間が出来て無い(熟練・習熟してない)でしょう。
実際問題として、理想論を言いつつも、実際に身近にアウトローな人格の人間がいたら、世間様は、ぜっったいに手厳しくしたり、嫌ったりするものだし、かかりあいを避けるのも、もう目に見えております。
そういう人間と一緒にいると、たいていは類友と見なされます。
肉親ならいざ知らず(家族の悲劇はまた別問題)、他人に入れこんで破滅する人間なんてのは、わたしにはやっぱりバカとしか思えません。
冷たい様ですが、わたしは自分が一番大事な人間なので=許容量、包容力が少ないとも言える、悪いけど他人なんて切りすてます。
その辺を曖昧にすると、逆に最悪の結果になりますね。
人間としての限度、付き合える限界を超えた人間関係が構築され、おしまいには長年お互いに憎しみあった末に(おたがいが、おたがいにガマンしてた、被害者はこっちだとかののしり合って、です。どっちもどっちなんですけどね、第三者から言わせるとね)殺し合いにまで発展する、なんてことになりかねないです。
大げさでなく事実、かも知れませんよ。
一般的に言っても誰しもに言えることですが、ほんとうに人間って自分で考えているほどには、性格的にも人間が出来てませんから。受け入れがたいでしょうが、事実です。
だから偽善者ほど、化けの皮は剥がれやすいです。本人もその時になってびっくり、ってこともままあります。ということも、一応言っときます。
他人のヤバい部分は、早めに見抜き、見抜いた時点で対処しないとダメです。
普及版乱世編のあらすじ(朝日ソノラマ版)サラッと書くんで、大幅に省略。
ゼヒ、買って読んでみてね!

平氏が世の栄華を極めていた頃の話。
木こりの弁太は、都へと薪と猪の皮を売りにいくが、都は花祭りでひょんな行き違いから、武士とケンカになってしまう。
それを治めてくれたのが有名な僧の
弁太はその後、貴族のものらしい櫛を拾って家に持って帰り、妹のおぶうに与える。
弁太の母とおぶうの父の連れ子同士で義兄妹のふたりは、幼なじみでもあり、愛し合う仲でもあった。
おぶうの父は病気で、高価な薬が必要なため、おぶうは薬屋にあの櫛と交換に高価な薬をもらう。
しかし、それは藤原成親のもので謀反の証拠なのだった。

わたしがやはり知りたいと思うのは、COM版での猿と犬の話の続きである。
現行版では、我王だけが犬と猿の友情と決裂を知っているわけであるが、COM版では『まきじ』が直接ソレに関わっているのだから、生まれ変わって因縁うんぬんは存在しないはず(犬=生まれ変わって義経、猿=生まれ変わって清盛、はあり得ない。COMでは犬も猿も義経も清盛も同時期を生きているからである)だからである。
とすると、むしろ見立て、という話になるのではないか?という気がする。
犬と猿が決裂するそのストーリーだけが、源氏と平家にそっくり当てはまり、この二つが同時進行して行くみたいな。
〜火の鳥の中で火の鳥と人間との関係〜
火の鳥、は火の鳥を中心にして、時代時代の人間が欲望と権力の醜いドラマをくり広げて行く、という物語ですが、火の鳥はある時は、生き血を狙われたために、仕方なく関わったり、また積極的に関わったり、無関係を決め込んだりします。
この乱世編は、先生自ら仰る通り、まっったく火の鳥は出て来ません。
火の鳥の名前だけが一人歩きしている状態、パチモン=孔雀、が出て来るだけです。
なぜなんでしょう?
これはやはり、乱世、つまり鎌倉幕府樹立の時のどさくさ、世の中の乱れ、が原因なのでしょう。
そう言う時には、必ずとんでもないデマが飛び交うものです。
それに踊らされる人々も出て来ます。結局そういうことなんでしょう。
水面に移る鳥を獲ろうと、水に網を打っても、鳥ははるか頭上を悠々と飛んでいる、ということですね。
真相は、見当違いの別の場所に隠されています。
しかし、物語にまったく出ていない、というのはどうでしょう?
清盛が不死になった後の悲惨な状態を夢に見る、というのも火の鳥の出した警告に見えないこともありません。
執拗なまでに自分のことを求めるので、夢で答えてやった、とも考えられますが、ただ、夢という意識態の中に火の鳥が入った可能性があるだけで、それは読者からは見えても清盛からは見えない、知ることのできないことです。
これではこれ以前に火の鳥と接触したキャラたち、と火の鳥との関係から見ると乱世編では、登場していないも同然です。
明らかに接触があったのは、死後の世界に行ってから、なので物語の進行にはまっったく関わっていません。
確かに先生が前書きでおっしゃる通り、火の鳥が出ている、とは言いがたい出方ですね。
そもそも火の鳥が登場する、ということは二つの意味を持っています。
一つは、火の鳥そのものが確かに存在する、と人間が確認すること。
そう考えると、同じように夢で干渉した、というのは鳳凰編の茜丸も同じですが、意味合いが天地ほどにちがいます。
もう一つは、火の鳥が不可思議な力で、人間に直で干渉して来る、ということです。
この手のものは、不思議な姿形をしているだけでは、人間は納得しません。
何らかの効験がなければ、それが特別なモノであるとは、認めないということです。
乱世編では、クジャクがそれと確認されているのですが、それには当然、効験などありません。
手に入れた者自体が不死にならなかった、のを体験&証明しています。
そこで、もう『これは火の鳥である』という認識も否認されました。
そして、この物語の現実の中では、不可思議な事象も一切ありません
(火の鳥が出なくても、火の鳥の一連の物語の中には、かならず人智を超えた現象が起こって来ました。
そう言う意味でも、この乱世編は火の鳥の中でも特異な物語、と言えるでしょう。
二つの意味の火の鳥のどちらも無いのに、成立している物語だからです。)
よって、この物語での火の鳥の完全なる不在が、証明されました。
それに、狂ったように火の鳥のことを「火の鳥火の鳥火の鳥と自分のための、もう丸っきりの我欲だけで、なりふり構わず求めていた卑弥呼様や、彫刻のモデルにしたいとキチガイのように追い求めて、国中駆け巡った茜丸(これも結局は彫りたいという自分の欲求のため)の前では、一族ガー、妻と一族ガーと、観念的なものに縛られてソレのために、いわゆる道具としての火の鳥が欲しいという人間たちなど、まったく太刀打ちできないでしょう。
あの強烈な卑弥呼様や茜丸を見た後では、この物語に火の鳥が出て来ないのも、何となく納得できます。
良くも悪くも、火の鳥は自分のために自分を求める者には、何らかの反応するしね。
「ホホホホ、私が欲しいのなら、その命がけの精一杯をお見せなさい。もっと、もっと、もっと激しく私を求めるのですよ!さあ」
とか、ものすごいナルシストっぽいこと言うイメージの火の鳥w
でも、もっと積極的に関わるような、とにかく気に入った人間には、押し付けるように勝手に不死にしてしまったり、一番人間からしたら理不尽な論理で動いているのが火の鳥、なんじゃないでしょうか。
(もっとも、少女クラブ版、の火の鳥を読めば、火の鳥がだんだんとヤサグレた感じになって行くので、気持ちの変遷がつかめるかも。純真な少女が悪女になっていく過程を見せられているような・・・)

義経と清盛が死後になって、火の鳥に出会うという場面ですが、これもちょっとこじつけっぽく見えてしまいます。なぜなら……
主人公は誰か?
この物語は、最初から最期まで出ている弁太が、主人公のように見えますが、良く考えると弁太と同じベクトルを持つ人物がいます。
それは平清盛です。
それを証明しているのが、おぶうです。
よく、おぶうは派手な生活を望んでいたから、清盛の世話になって心変わりした、と思われるかも知れませんが、何てことはない、実は似たような男を好きになっていただけ、だったのです。
弁太はでかい図体で、馬鹿力の持ち主なのに、内面はまるっきり子供のようです。(良く言えば一途で純粋)
清盛も尊大な権力者で良い年したおじさんなのに、悪夢におびえて死ぬのが怖いと、ふるえて泣いて女の胸にすがるような面を持っています。
二人とも、見かけや言動にそぐわない心を持つ、おまけに世話の焼ける男、なのです。
つまりおぶうはたんに、ダメ男の世話を焼くのが好きな女、というわけです。
おぶうは、清盛の中に弁太の強力版を見たので、放っておけなくなったのでしょう。
弁太が一途におぶうを求める姿も、異常といえば異常といえる執着ぶりです。(これが同母の兄妹だったら、よけい異常に見えたことでしょう)
なぜか弁太のことが、遠くに捨てられたペットが、飼い主をひたすら探し求めている姿に見えて、しかたがありません。
清盛もまったく同じです。
とすると、これは弁太と清盛のダブルキャストなのか?
はたまた源平合戦という史実、つまり清盛と義経が、あくまで主題なのか?
読んでいて、理解に苦しみます。
猿と犬の友情と決裂、という魅力的なテーマを生かすために、赤兵衛と白兵衛という名前を平家と源氏にひっかけています。
しかし、ここで違和感を感じるのが、実際にストーリー上で友情を裏切ったのは、義経と弁太&ヒョウタンかぶり、という関係でしょう。
そもそも、生まれ育ちが、決定的に武士階級と平民(当時は木こりや浮浪児はそれ以下)という身分違いから来る、考え方の違いは最初から存在していたものの、その考えに見合う行動力がない子供だから、何とか付き合えていた、という程度の関係だったのでしょう。
異質のモノたちの幼い友情という関係ですね。(ますます犬と猿の友情のテーマっぽい)
しかし、因果がくり返されることと、源平を引っかけているならば、そしてそれを主題にしたいなら、より読者に強烈なインパクトを与える、義経が弁太とヒョウタンかぶりを裏切る、という件はむしろイラナイ=ジャマ、んじゃないでしょうか?
それがあるために、やはり猿と犬が清盛と義経だとは思えないんですよ。(義経殺してるのも、弁太だし。)
もしも犬と猿がテーマなら、清盛と義経が物語の主役でないと変ですが、この二人を主役と言いきれるか?ですが、どうでしょう?
清盛と義経は、史実でもそうとう根深い恨み(平家物語では、義経の母が清盛の愛人にされた。子供も生んでいる。史実ではちがうらしいが、実のところは不明)があるはずなのですが、そういう恨み節が今ひとつなんですね。
弁太に力を入れ過ぎたのか、源平の宿縁だとか憎悪が、ぜんぜん伝わって来ません。
憎い憎いと義経は言いつつも、なぜ憎いのか?の理由は直接的にまったく描かれてません。
(この物語で描かれる武士の横暴さ、虐げられる平民の悲しさ、は十分わかりますが、もしかしてそれが主題でしょうか?)
弁太と義経の物語とするのなら、今度は清盛がイラネ、なんですが、途中で清盛が退場(死去)してからは、ちょっと話の魅力が半減してます。
それは、前半部分の主体の清盛が心の葛藤しまくりなのを描いているのに対して、後半主体(確かに後半は彼を中心に物語は進むのだが)とする義経の方には、一切それが見られないからでしょう。
だから義経が何考えているのか?得体の知れない人に見えて、キャラに思い入れできません。
それが主役であると言い切れない部分であり、
のみならず、もう一人、火の鳥に目をつけ手に入れようと奔走する男、木曾義仲まで物語に現われて絡んだら(しかもコイツ自分のためじゃなくて「一族のために火の鳥を、」とか鸚鵡のように抜かしてるし)そりゃ義経の陰はますます薄くなるに決まってます。
弁太は弁太で、おぶうを取り返すため、とはいえ存在が訳わかめな義経に振り回され過ぎで、どーしよーもないヤツ(やはりダメンズ)、に終始している感があります。
おぶうが死んだと思ったので、新しい妻=ヒノエとくっ付くのですが、これってデジャビュがっっ。
もしかして茜丸(常識人)とブチ(問題のある女で、勝手にくっ付いて来る)ですか?=そう考えると、百鬼丸とどろろとも、関係性が酷似。
弁太は、おぶうが死んだと思ってはいても、おぶうつながり=おぶうを忘れられない=忘れたくないから?、と言う関係性だけで、義経にくっ付いていたような感じも否めません。
まさに幻の女を追いかけている男じゃないですか。
自分の目の前でおぶうが死んで、ようやく吹っ切れたみたいで、ヒノエが哀れすぎる。
もっと早くヒノエの言うように、二人で逃げることもできたんだろうから。最期はきっと立ち往生でしょうね。
白の源氏で白丸=犬、だけに、結局みんな犬死にってことですか?

 つくづく考えたら、この物語のテーマは実はパチモン(フェイク)かも知れません。
(あるいは物語すらも。そう考えると火の鳥が出ないのも納得!)
おぶうも元々はいわゆる下賎な生まれ、下々の卑しい出の娘です。
火焔鳥も羽が豪華で珍しいけれど、結局は普通の鳥です。
おぶうも火焔鳥も、ただ美しいだけ、の存在です。
おぶうと火焔鳥は、勝手に付加価値をつけられて、どちらもニセモノが本物のように扱われ、
自身は翻弄されただけの、何の力も無い存在、ということです。
どちらも美しさゆえに勝手に誤解され、自分が望んでいた生き方ができないのです。
弁太も清盛も執着して振り回され、他編の火の鳥の物語とおなじでように、自分も周りも見失っています。
そして、どちらも並外れて権力や腕力を持ちながらも、目的と手段を取り違えているように、考えと行動がちぐはぐです。
のみならず、周りに流されたり、観念に縛られたりしたために、結局は失意のうちに死にます。
不幸で不本意な最期を送ったのですが、思い込み、思い違いが原因です。
おぶう、という人の移り変わり=生きざま、を見れば、それは明らかです。
おぶうは山出し娘が、いろいろあった末に、最期には高貴な平氏の女になって終わったので、これもある意味、kiraりっぱに成り上がってkira主役級に近い働きをしています。
おぶうは現実的であり、現状を正しく見抜き、自分が何をなすべきか?を正しく知っていた人でした。
そして、その通りに生きたのです。
つまり、この物語で、一番たくましく男らしく生きたのが、おぶう(笑)でFA?
パチモノ(ニセモノ)でも、正しい心意気があれば、最後は本物になれる、ってことですね。
おぶう

 この話は史実を追うのに懸命になって、読者が各自の好きなキャラに、思い入れても良い状態に近くなってますんで、やはり中途半端感は否めません。
最終的には、じゃあ結局、主人公は誰?
なのですが、思い入れができたキャラが、それぞれに思う主人公、としか言いようがありません。
まちがっても火の鳥ではないな、パチモノのクジャクの方がまだ活躍している…。
わたしとしては、主役に近いのは(思い入れができたのは)清盛だと思います。
単純に、いなかったら話がおもしろくないから、です。
(まあ、あとは腐るほどよくある話で、わたしの先祖が平家の落人だったとか、どうとかいう言い伝えも関係してます。田舎の地名も、京都の地名から取った名前=そこの植民地のようなものだったw、ので確実に京都と関係はあるらしいけどねー、どうだか。)


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