テレビアニメ版"百鬼丸"再放送不可の訳ありアニメ
データ1話から13話までは題名は「どろろ」、14話より「どろろと百鬼丸」と改題。1969年作品 全26話。

百鬼丸どろろ アニメ版あらすじ
父親の立身出世の為に、48匹の妖怪との契約で、その身体を48ケ所を、奪われて生まれた主人公、"百鬼丸"。
挙げ句の果てに、たらいに入れられて、川に流され捨てられる。
彼を拾ったのは、"寿光"と言う名の医者だった。
彼は、今のバイオ技術も真っ青な技で、彼を見掛けは人並みに近い身体に改造する。
が、物の怪に魅入られ易い彼の身体に、様々な仕掛けを施し、これに対抗させようとする。
妖怪を一匹倒すごとに、彼の身体は生身に戻ってゆく。
己の身体を取り戻す為、旅に出る"百鬼丸"。
そんな彼の前に現れたのは、野盗"火袋"の子"どろろ"だった。
戦乱渦巻く、暗黒の時代を背景に、二人の奇妙な妖怪退治の、道中記は続くのだ。
 【白黒アニメ版どろろの考察】
原作では、未完、未決着で終わったどろろをきちんと結末を着けてくれたのが、白黒アニメでした。
けれど、どうしても謎だったのが、最終回の百鬼丸でした。
元々ニコリともしない、昔の頑固親父ばりの無愛想さだったのですが、それも体を取り戻したら念願が叶うので、少しは百鬼丸もハッピーエンドに、はならない所か逆に世捨て人になっていたのでした。
なんじゃとて?だよー。
何のために、誰のための戦いだったというんでしょう?
他の項目でも書いたけど、原作も同様にこの百鬼丸って寿光のお陰で普通に生活が、戦いでは健常者以上の働きが、できるんだねー。
だから私は、無理して取り戻す必要性あるのか?と、悪いけど常々疑問だった。
取り戻すことや、取り戻した喜びも描かれてるのなら、(原作では取り戻した手にキスしてたり喜んでる描写はあるんだけどアニメにはない)戦う意義もあるんだなと思えるけど、百鬼丸の場合は淡々として単なるパーツの置換にしか見えない、どうしても。
何でだか、何か変だと思ってきたけど、これらを説明しようとしたら、おぞましい仮定(多少妄想入ってます)に突き当たったのでした。
もしそうだとすると、このどろろという物語ってどんだけぇーなんだよ。
マジ呪いとホラーの物語。
昔に私が夢で見て小説のネタにしようと考えていた話を考えている時に、ハッと思い当たったんです。
異界に棲んでいる魔物は、この世界でパワーを存分に発揮するためには、ヨリシロがなければならない。
異界の何かと等価に交換できる何か。
そう考えると、この世界へと魔神が顕現できるようにするためには、できれば生きた肉体を手に入れるのが望ましい。
そう、百鬼丸の体のパーツ、それこそが魔神がこの世界へと顕現するためのヨリシロだったのだ。
つまり、百鬼丸の体のパーツの一つ一つに魔神の魂が宿ると言うこと。
体の一部が別の生き物として生まれ変わったと言っても良い。
だとすると、百鬼丸は魔神の魂を葬り去った肉体、魔神の死体とも言えるものを再び体にくっつけて生きていかなくてはならないと言うことだ。
そうでなくても、手を見るとあの魔神、足を見るとあの魔神と言うように戦いの記憶が蘇るだろうし、それに付随する悲しい記憶があれば、それも刻まれてしまい思い出さずにいられないだろう。
魔神は自分が倒されても最悪それを見越して、人間の愚かさを嘲笑うために、敢えて人間と取引をしたのだ。
魔神だけにマジパネェ。
魔神から取り戻したはずの肉体が、命を奪われた恨み節でも唸った日には、百鬼丸でなくても陰気な鬱々とした気持ちになりますよ。
元々自分のものなのにね。でも、貧しいからと親に人買いに売り飛ばされる子供と、魔神に売られる百鬼丸は構図的には変わらないんだよね。
子供は自分の所有物であると言う考え、無理心中に道連れにもされちゃう、日本人の根底に流れるその根性が溢れ出している物語とも言える。
百鬼丸の場合は、その相手が魔神だったためにどう転んでも、結末が不幸に終わるだけで。
しかも、親父が最後の魔神だったんで、それ=親殺しという尊族殺人も含めて、どんだけ不幸を背負わせるつもりだ、と文句をいう前に当の相手の親父をぶっ殺すことになっちゃうし。
あんたなんか親として認めてねーからな、と言うのがせいぜいだったんだろうね。
むしろ、百鬼丸が死なずに生き残ってることこそ奇跡なんじゃね?
(いや、むしろ死ねないのも魔神の呪いなのかも。なぜなら百鬼丸が生きていることこそ、自分たちがこの世に顕現した証だからである)
だから、なぜみんなが彼に魅力を感じたのか?はつまり誰しもが、百鬼丸だったからです。
親の権力で自由を奪われる、百鬼丸のように手も足も出せないような、一方的に理不尽な押し付けを感じたことがある、からです。
それが、たとえ親の愛情からと言われても、望まないことを無理矢理に押し付けられるのは苦痛でしかありません。
少年少女期の読者、視聴者はそういう立場の百鬼丸が、戦って体を取り戻すことに意味を感じ、また共感を抱き、そして百鬼丸がカッコいいと思ったのです。

体を取り戻したら普通の人間になれると思っていた、だけどそうじゃなかった。
だから、去っていくしかなかった。
人と接するとそれが一層ハッキリして惨めになるだけだ、と分かってしまったから、世捨て人になるしかない。
そう言う定めだったのだろう。救われない話である。

では、百鬼丸が魔神を倒すことに、意味はなかったのか?
というと、自分の体を取り戻す他に、魔神に苦しめられている人を救うことになる、という大義名分が一応は設定されているようです。
が し か し、 元 々 父 親 が 鬼 畜 な 取 引 も 屁 と も 思 わ ず に、 野 望 を 実 現 さ せ よ う と し た お 陰 で、 人 様 に 更 に 迷 惑 を お 掛 け す る こ と に なっ た、 と 考 え る と 百 鬼 丸 は 父 親 の 尻 拭 い を さ せ ら れ て い る に す ぎ ず、 肉 親 と し て は 非 常 に あ り が た 迷 惑 な 家 族 を 持っ て し まっ た け れ ど、 他 人 の 目 か ら 見 た ら 同 じ 穴 の 狢 の よ う に 嫌 わ れ る 運 命 だっ た、 と も 考 え ら れ ま す。
だからなのでしょう。
妖怪を倒しても倒しても、百鬼丸は誰からも感謝はされません。
それどころか石持て逐われることもしばしばです。
まるで、大地を砂漠化させてしまった兄(トンズラした)の償いとして、たった一人で何百年も花を植え続ける少女(ワイルドアームズより)を思い起こさせます。(こちらも人間と違うので、成長しない姿のまま生き続けるので、化け物呼ばわりされて迫害を受けています)
百鬼丸は、最初から薄々気付いていたのかも知れません。
尋常ではない体と運命を背負うには、尋常ではない理由(産まれた理由)があるのだと、つまりはそれを知ることだけが、生きる縁でなければならなかった、ということです。
知れば知るほど、ドン底に墜ちて行く気分だったことでしょう。
許しを得ようと渇望し足掻き償い続けだからといって、それでも許されない事の方が現実には多いのですから。
(取り返しがつかないということはもちろんあります)
百鬼丸は自分が他人から迫害を受けるのも、自分の不完全な体に対する偏見ゆえと考えていました。
しかし、百鬼丸は体を取り戻す旅の途中で、魔物との取り引きが実の父の仕業と知ってしまい、父の方でもそんな自分を息子と分かっても、詫びの一つも言いません。
肉親である自分に対してもこれなら、自分の野望のためにはどれだけ人が苦しもうが死のうが平気で踏みつけてきたのだろう、と考えたのでしょう。
自分の中に流れているそんな男の血、到底許されない事を続けてきたに違いない男の息子だから、人々から忌み嫌われるのだ、と気付いてしまったのです。
百鬼丸はそれを理解したし、妖怪退治も止めることもできず、それが破滅に向かうためだけの前進と知りつつも、行かなければならなかった、というのはやはりこれは償いをさせられているのに他なりません。
百鬼丸の肉体を使ってこの世に妖怪が顕現したとすれば、人々の認知は妖怪=百鬼丸でもおかしくはないでしょう。
体を取り戻す様子を見て、人々が恐れを抱くのもあながち間違いではなかったのかも知れません。
そして、一人で寂しく去って行く百鬼丸は、魔神を全滅させたために、燃え尽き症候群になっただけ、だったのでしょうか?私はそうは思いません。
48の魔物を倒し体が完全になって行くのと引き換えに、今度は魔神によって少しずつ心を引き裂かれ、希望や夢をなくしてしまったのでした。
魔神は体を返す代わりに、今度は目に見えない心を少しずつ奪っていったのです。
だいたい自分の体なのに、取り戻す際に激痛を伴うという事こそ、不思議ではないでしょうか?
自分のものなのに。それは手放したくない妖怪の断末魔の叫びが、そのまま痛みとして変換されているような気がしてなりません。(もしくは産みの苦しみに酷似している描写)
そして体を取り戻して心を失った百鬼丸。
そして望んでいた、夢見ていた自分にはなれないのを知ったのでした。
自分をどう感じていたでしょうか。
私はやはり自分は出来損ないのままなのだ、と感じていたろうと思います。

どろろという物語は、手塚治虫の未完の作品の一つで、終わりがないゆえに読者各自がそれぞれ望む結末を付けても仕方がないと言えます。
ただし、キャラクターというのは、先天的に持つ性質のことで、ここを無視してはならないと思うのです。
どろろと百鬼丸は各メディアの中での取り巻く設定と能力値が大幅に異なる、のですがそこで特に百鬼丸のパーソナリティーがここまで変わるというのも時代のせいなのでしょうか?
百鬼丸は、元々は『年下は年上が面倒を見るのが当たり前』の価値観の上に成り立つキャラクターだったので、どろろの世話を焼いて当たり前でした。
またそういうどろろですが、結果的には面倒を見てもらいながらも、それを痛いほど自覚しているからこそ、周りに対しても憎まれ口を叩いたりするような子供でした。
それが百鬼丸と旅するに従って、成長して行きます。最初は生意気で可愛いげのないどろろでしたが、百鬼丸とお互いに影響を与えあう形で、最後には百鬼丸の相棒と認められるまでに逞しくなりました。そこまでの成長を見守るのもどろろという物語の面白さです。
漫画あらすじ どろろグッズ
アニメ版どろろ




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