どろろの主演&主要キャラクター御紹。ゲームと原作等の(好き勝手)比較考察

まずゲームの基本概念。では、各キャラ共に人間性善説に基づいて造られていると思う。元々は思いやりも持っていた人間が誘惑や欲望に負けて、少々道を踏み外したばっかりにこんなんなっちゃいました〜♪みたいな感じを受ける・・・。
百鬼丸 
ダブルキャストの、言わずと知れた陰の主役。
ゲームでは、本当の主役に据えられてしまった為に、性格的に少々天然お気楽気質が、見え隠れしている。
本来は、差別的な扱いに、かなりシニカルに、なっているべき原作の部分、人の本性の醜くさを熟知し、それが何故に起こる感情や、欲望かをも熟知し、ある種達観された老成さ、が備わっていた様に、思えるのが漫画版であるが、ゲーム版は世間と隔離されて育ち、そのまま世の中に出て来る設定だから、だと思う。
つまり、まだ世間知らずなのだ。
そんな大変に、過酷な運命の子供、として育ちながらも、性格的には意外に物事に対して、平凡な人物である気がする。
喜怒哀楽が素直、というべきか。
それは、寿海が人里離れた地に、住んでいる事と切り離せない。
他人との接触の、あまりない百鬼丸にとっては、寿海こそが世の見本であると同時に、身体と心をも作り上げる元、となったのだ。
そして実際、寿海のお陰で、造り物だらけの身体であるのに、日常的にも見た目にも、不便はなく暮らせそうな百鬼丸の様子は、ゲームでも部位奪還の、ムービーが無ければ健常人と、まったく違和感が無い。
ゲーム設定の見た目が、下手に美丈夫である為に、彼の持つハンディが認識されにくかった、のではないだろうか?
と言うよりも、部位を取り戻す前後の彼には、見た目の変化が(ゲームのお約束の為か?ビジュアル的にそれをやると、規制にでも引っ掛かるのだろうか?)本当にまるで無いのである。
最初にモノクロ画面だったり、声がくぐもっていて、操作性の悪さ=百鬼丸の疑似体験を、させられているのに、である。
(まあ、これも諸刃の剣で、操作性の悪さは、ゲームでは致命的なので、試みとしては悪く無いと思う。加減としては、ギリギリの線ではあったが)
だが、醜い男が部位を取り戻して行く度に、段々と美男子になる、のならどんな話になっていたのだろう?と思う(趣向を変えた美女と野獣みたいになるのか? )
身体の部位を取り戻せば普通は弱くなるはずだよなぁ…。そうした意味でもゲーム版百鬼丸は見えざる苦労をしている?しかし基本的には、美丈夫で若けりゃオッケーなのだ♪
↑少し成長させてみました(終章どろろ、より)
性別不肖なのは、どろろの行動様式のせいで容姿ではないと思う。一緒にいればすぐに女の子であると、分かってしまうのだろう。多宝丸ですら、どろろを庇って身替わりになったのも女の子だと知っていた為に違い無い。大きいどろろさん画もその内にトライしてみたい。
↑トライしてみた(終章どろろ、より)
どろろ
 一応主人公。
漫画での、大きな差異はただ一つ、この子の出自が、まるで無視されている点である。
どろろとは、これがあるから、主人公なのである。
どろろの出自を、未収録編の筋で通した為に、どうでも良くなってしまったのだ。
つまり、どろろは野盗=権力者に対して強盗を働く集団、の頭である『火袋』(どろろの母である火袋の妻もその一味である)の子供である。
が、手下の裏切りによって、火袋は不自由な身体にされ、反骨心ゆえに妻と子の目の前で、殺されてしまうのである。
戦国の世であり、飢饉も手伝い、家も土地も無い母子の、流浪の果てには、母はのたれ死んでしまう、という悲劇が待ち受けていた。
それが、一般的に出回る、漫画のどろろの出自だ。
しかし、百鬼丸の部位で造られた子供、という設定だと、百鬼丸故にどろろのそれらの陰惨なる出自は、いらなくなるのだ。
百鬼丸の身体から造られた、というその設定だけが必要であり、たとえゲームでも同じ出自だとしても、残念ながら、重要では無くなる。
どろろは、なるほど刀や力に魅せられている。
が、百鬼丸が戦うのは、あくまで自分の身体を取り戻す為に、であり、自分を殺しに来た者達に対しても、人間である故に、百鬼丸はこれを斬る事が出来ない。
力はあっても、どろろの求める使い方ではない。
どろろは刀=力であり、弱い存在でも刀を持てば、強者とも渡り合えると思っている。
ゲームの百鬼丸設定が、かくの通りでは、いくら強くても、どろろは付いて行かないだろう。
そこで、どろろの身体が、この様な設定になったのかも知れない。
それならば、どろろが百鬼丸に付いて行くのは、自然な事の様にも思える。(もしくは、どろろが百鬼丸を、白馬の王子として認識したか?)だが、その代わりに、どろろは主役の座を、完全に百鬼丸に明け渡さねば、ならなかったのである。
多宝丸 
漫画では、帝王学でも学んだのか?と思う程に、俺様振りを発揮し、親の権威を笠に着ている。
独自の悪巧みも、板に付いていたが、やはりそうできるのも、親あっての事と思い知っているのか、親の勢力範囲内だった様だ。
親のモノを受け継ぐのは、一人息子の自分だ、と思っている為に、その親の野望と(本能か?)跡取りとしての、邪魔をしそうな存在の百鬼丸(=本来ならば正式な嫡子である)を、抹殺しようとする辺り、無意識ながらも中々計算高い所も見えて、良かったのだが・・・・。
ゲーム版では、妖怪を見て一目散に、逃げ出すような小心さ加減や、庶民を見下す口ぶりは、ある意味漫画版を彷佛とさせ、期待もさせてくれたが、段々と育ちの良さばかりが、目に付くキャラになってしまい、全くのボンボン息子の体たらくを、見せつけてくれたのだった。
多宝丸には、むしろ三郎太の役目を、やらせても良かった気がする。
景光が、再び子供を作り今度も、第二の百鬼丸が誕生してしまう、という可能性を恐れた魔神達は、景光の妻に自分達の作った妖人の赤子を宿らせた。
そして、魔神達は妖人の多宝丸に、百鬼丸を殺せたならば、ちゃんとした人間にしてやろうと言う契約をし・・・そうすると話は、かなり悲惨で、事実上の骨肉の争いに発展しそうだし、原作に近い雰囲気に、なったのではないだろうか?と思う。
(しかし、ゲーム版では、家族の結束が意外に重要視されているし、そこまで身内のどろどろ話が真相だと、プレイヤーもドン引きなので、恐らくは即座に却下だろう)
にしては、最後に魔神と完全なる一体化、を果たして百鬼丸に討ち取られるのは、魔神達の最期の悪足掻きか、妄執ゆえに血迷ったか?それとも、多宝丸の心にも、何がしかの闇が、あったのかも知れない・・・。
百鬼丸をして、自分にそっくりと言わしめている弟の多宝丸。傲慢な美丈夫のはずが、ゲームの影響でただのヘタレた次男坊として定着化?
ゲームと他メディアの景光は容貌も甚だしく異なっていると思う。ゲームでは容貌は並みよりも優れていて中身が小物な感じだが、原作ではなぜか貧相な小狡いイメージ。魔神によって身体も徐々に蝕まれている為に、実年齢よりも老けて見える、と思う。
景光
 ゲーム版と、漫画原作版で甚だしく違うのが、景光である。
百鬼丸の誕生の動機が、そもそも異なってしまう。
漫画版では、己の野望の為に、進んで我が子を生贄として、捧げるのである。
それに対して、ゲーム版の景光は、元々我が子が混乱の世に乗じ、暗躍している魔神達の滅ぼし手、として産まれて来る運命を、背負っていた為に、魔神達に誑かされて、まんまと契約を結んでしまう、という形になっている。
魔神達にとっては、肝心なのは、自分達の滅ぼし手である、百鬼丸の身体を手に入れる事で、それをすれば阻止できるし(実際は、だからこそ百鬼丸に、魔神退治が出来た、とも言えなくは無いのだが)景光が天下を取れば、自分達の傀儡として、魔神支配の世の中になり、天下を取れなくても、戦乱の世は続くであろうから、実は決して魔神達の損にはならない、という取り引きになっているのである。
ここでの景光は、人並みな欲望はもっているものの、自ら動いて運命を開く男ではない。
後ろに見えるのは、常に魔神なのであって、決して景光ではない。
原作では、魔神達が一同に会するのは、やはり地獄堂だが、最初の景光の契約以降は出て来ない。
魔神と言っても像であり、具現化するのは、魑魅魍魎の妖怪としてである。
魔神が結託して話したり、何かをする事は無い。
結託して悪をなすのは、もっぱら人間の仕業である。
ななぜなら、悪神のなせる業とは、その人間の持つ悪心を助長するに、過ぎないからである。
捲かぬ種は生えぬ。無い心を、育てるのは無理なのだ。
だから、その人間からして、性善のゲーム版では、悪の担い手は専ら、魔神なのであり、アニメ版では人としての、善悪の境を軽々と踏み越えた景光は、最後に魔神として認識され、滅ぼされてしまう。
それに対してゲーム版の、あくまで傀儡としての景光、は闇の力を受け入れるには(二人の息子を自分の犠牲にする辺りも)弱々しく、魔神とは完全なる一体化が、できなかったのである。
寿海 
漫画版でも同様だが、盥に乗って川を流れて来た、百鬼丸を拾い上げて育てた、のみならず非凡な才能を持ち、百鬼丸に身体の部品を造って、見掛けと機能を人並みにした人物。
文字通りに(百鬼丸の項で述べた様に)百鬼丸という人間を、形作った者である。
しかし、百鬼丸が普通の子供と、変わらなくなっても、その身に怪異が迫る事が、頻発すると邪魔になって追い出す。
ここの行は原作漫画では「お前を受け入れてくれる場所を探せ」の様な言い方があり、百鬼丸の方でも「これ以上御迷惑を掛けません」と心苦しく思う様を述懐している所を見ると、あながち見当違いでもないだろう。
お堂の中でお告げの様に、48魔神の話を聞いたのも、家を出て後の事である。(ゲーム版では、お告げ故に家を出た様な、設定になってはいるが・・・)
とすると、これはまるで一寸法師の様だ。
一寸法師も、おじいさんおばあさんに邪魔にされ、なんとか都で身を立てようとして、京の都に上り奉公し、その屋敷を襲って来た鬼を退治した結果、普通の身体になる物語である。
 そう言えば、寿海は鞍馬山(京都)に住んでいる。
一寸法師と百鬼丸とは、行き先が全く逆だが。
そしてもう一つ、ここで手塚の別の作品『三つ目がとおる』の写楽と比較してみたい。
彼の養父、犬持医師も医者である。
そして、彼等の仲も順調では無い。
写楽は、ラーメン屋のヒゲオヤジの元に、下宿させられて、共に暮らしてはいない。
和登さんの推測でも、実子ではない子供に対する疎ましさ、異形への恐れの様なものを代弁させている。
百鬼丸と寿海にも、十分に当てはまる図式だ。
むしろ、同じ異形を売り物にしている写楽は、額に余分な目の様なものが一つ付いているだけで、後は普通だ。
が、父の犬持は、写楽に普通の子供=人間に育って欲しいと切望し、三つ目を取る手術まで、受けさせようとした事があるのだ。
対する百鬼丸の身体を思うと、寿海の間に感情的な何か、があってもおかしくはない。
尤も、犬持医師も、医師としての好奇心もあって、最初は写楽の育児=観察日記の様なものも付けていたし、寿海も医学的な好奇心も、無かったとは言えまい。
穿った見方をすれば、凄腕の医師が、隠遁生活を送る事自体、おかしくはあるまいか?
その技術ゆえに、そうせざるを得ない状況に陥った、と考えるのが普通である。
そう推察を重ねて行くと、寿海とは技術は立派だが、どこかしらうさん臭く、得体の知れない人物である。
限り無い怪しさがありながらも、百鬼丸が真っ当に育った所を見ると、自己の研究に対しては常軌を逸脱してしまうだけ、なのかも知れない。所謂マッド・サイエンティストな感じか?だが、まさかギャングが身内=子供に対しては自分とは逆に、清潔に育てたがるのと同じ…では無いな。


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