魔術師マーリンという海外ドラマにハマってしまいました。おなじみのツタヤで借りまくってます。
丁度東京mxテレビで水曜日の昼間に放映しているのを見たのがきっかけですが、その前に翻訳人柱の話の中に魔術師マーリンについてのエピソードが書かれているのを翻訳したのでとてもタイムリーだった為ですね。
 それ以前に私はアーサー王の伝説を本で読んだ事があり、エクスカリバー=特定の人にしか抜けない剣を抜いた為にアーサーは王になる事ができたとか、魔法使いマーリンの事=アーサーの姉である魔法使いモーガン・ル・フェイに騙されたマーリンは、樹の中に封印されて最期を遂げるとか、傷付いたアーサーも最後には妖精達に湖の中に連れて行かれると言う形で生死は不明だし、なとても幻想的な物語だと思っておりました。ナカナカ興味深い伝説です。

動物の物語だったら本邦における動物崇拝』も面白いので良かったら読んでみて下さいね。

十二支考 『虎に関する史話と伝説民俗』
  南方熊楠

  (一) 名義の事
 虎は梵(註=ぼん。サンスクリット=インドの古語。今でも使用されている)名でヴィヤグラ、今のインドの言葉ではバグ、南インドのタミル語ではピリ、ジャワ名はマチャム、マレー名はリマウ、アラブ名はニムル、英語でタイガー、その他ヨーロッパ諸国はだいたいこれに似ていて、いずれもギリシア語やラテン語の『チグリス』(註:チグリス川の事で、チグリス川はトルコを源流とし、イラクをほぼ南北に縦断しペルシア湾に流れる川。英語など西欧諸言語からの綴り「Tigris」、アラビア語ではディジュラ=虎)に基づいている。
そのチグリスという名は古ペルシャ(註:現在のイラン)語の『チグリ=矢』から来ている。虎が速く走るのを矢が飛ぶような速さになぞらえたのだと言う。
わが国でもむかしから虎の実物を見た事もないのに『虎は一日に千里を走る』などとも言われており、戯曲にも武将・加藤虎之助清正のすばやさをほめたたえ、千里一跳虎之=せんりひとはねとらのすけ、などと洒落=しゃれ、にされている。
 ローマ時代の人、大プリニウスの著書『博物志』によれば、生きた虎をローマ人が初めて見たのはアウグスティヌス帝の時代だったそうだ。それより前にヨーロッパ人が実物を見るのはきわめてまれな事だったから、虎が餌を捕えるために飛びかかる速さを、ペルシャで矢が飛ぶになぞらえたのを聞き間違えたのか、博物志の第八巻二十五章にこんなことが書かれている。
それには「ヒルカニア(註:カスピ海沿岸周辺部。現在のアルメニア)とインドに虎がいて、速く走るのは驚くべきほどだ。子どもを多く産むが、その子どもたちを全部盗まれた時に最も速く走る。たとえば、猟師が隙を見てその子どもたちを盗み、馬を替えつつなるべく速く走り去ろうとすると、父虎は最初から子どもたちの世話はしていない(ので知らん顔である)。母虎が巣に帰って来て異変に気づくと、ただちに臭いを嗅=かいで、あとを追い矢のように走って追いかける。その声が近くなると、猟師が虎の子を一つ落とす。母虎はこの虎の子をくわえて巣に走って戻り、その子を巣に置いたらまた猟師を追いかける。また子虎を一つ落とされると、これも拾い巣に連れ帰ってまた拾いに走る。こうしている間に、猟師は残りの虎の子供たちを全部船に乗せる。母虎は浜に立ってはるか遠くを見てムダなことではあるが恨んで嘆いていた」とある。

けれども十七世紀には、ヨーロッパ人が東洋に航海して目の前に生きている虎を自然の姿のまま観察した者が多くなると、噂ほど長い道のりを速く走るものではないとわかったので、英国サー・トマス・ブラウンの著書『荒唐世説(プセウドドキシヤ・エピデミカ)』でプリニウスの説を覆=くつがえ、している。
李時珍(註:り じちん、1518年 -1593年、中国・明の医師で本草学者)がいう虎はその音声を模倣しているという。虎は唐音でフウ、虎がフウと吼=ほ、える声をそのまま名前にしたということである。これは確かな説ですべてどこでもオノマトープ(註:フランス語オノマトペ=擬声&擬態語、のこと)で動物の声をその動物の名前にしたものがとても多い。
往年『学芸志林』(註:東京大学が明治十年代に刊行した雑誌で、法学部、理学部、文学部の3学部が編纂した)で浜田健次郎君がわが国でのいくつかの例を詳しく述べておられた。虎の異名が多くある中に晋=しん、(註:晋265年 -420年、中国の王朝の一つ)梁=りょう、(註:中国の南北朝時代に武帝が建てた王朝=南朝502年 -557年)時代以後の書物には、しばしば大虫と呼んだという記録が見られる。
大きな動物つまり大親分という意味の尊称らしい。スウェーデンの牧牛女=うしかいめ、は狼を黙者=だんまり、、灰色脚=はいいろあし、、金歯=きんば、などと呼び、熊を老爺=おやじ、、大父=おおちち、、十二人力=じゅうににんりき、、金脚=きんあし、などと名づけて、決してその本名を呼ばない。
また同スウェーデンの小農民たちはキリスト昇天日(註:イースター復活祭。春分の後の最初の満月の日の次の日曜日のこと)の前の第二週の間は鼠や蛇などの名前を呼ばない。どちらもその害を避けるためだ。(ロイド『瑞典小農生活=ピザント・ライフ・イン・スエデン、』)(註:Peasant=小農民Life=生活 in=のSweden=スエーデン。『スエーデンの小農民の生活』という本)。カナリース族は自分の本名を言わず、ベンガルでは必ず虎を外叔父=ははかたのおじ、と呼ぶ(リウィス『錫蘭=セイロン、俗伝』)。

 わが国にも各専門職ごとに忌詞=いみことば、というのがあり、たとえば『北越雪譜=ほくえつせっぷ、』には、杣人=そまびと、(註:きこりのこと)や猟師が熊狼から女根まで決して本名を呼ばないと言う例を挙げており、熊野=くまの、でも兎=うさぎ、を巫輩=みこども、狼を山の神またお客様など言い、山中では天狗を天狗と呼ばず高様=たかさま、と言った。
 また中国では虎を李耳=りじ、と称う、晋の郭璞=かくはく、は〈虎が物を食べている時にその言葉を耳にするとそれを中断してしまうから、だから李耳と呼ぶのである。その諱=いみな、を呼んでしまった為である〉、漢の応劭=おうしょう、は南郡の李翁が虎に化けたため李耳と名付けられたと言ったが、明の李時珍はこれはただの想像であると言い、李耳は狸児=りじ、を訛=なま、ったもので、今も南部の中国人は虎を猫と呼ぶと言った。
 狸は日本でだいたい「たぬき」と読ませるが中国では「たぬき」のほかに学名フェリス・ヴィヴェリナ、フェリス・マヌル等の山猫も狸と呼ぶ。したがって野狸と区別する為に猫に家狸という別の名前を付けた。そうやって考えてみると仏教で竜をバカにして小蛇子と言うように、狸児とは虎をバカにして子猫といった様な意味でそう呼ぶのだろう。
これに似ているもので日本で猫を虎に擬=なぞら、えた事が『世事=せじ、百談』に「虎と猫とでは大きさや強さは遥かに異なると言えるが、その形状がそっくりなのは他にはないほどに良く似ている、なので我が国の古い言葉に猫を手飼いの虎と呼ぶ事は『古今六帖=こきんろくじょう、』の歌に「浅茅生=あさじう、の小野の篠原いかなれば、手飼の虎の伏所=ふしどころ、なる(註:意味=まばらに生えた茅=ちがや、の野原、その篠原=しのはらは笹の原の事、の中に入ってみると、そこは飼い猫のねぐらだった)」、また『源氏物語』女三宮の章にも見られるし、唐土=もろこし、(註:昔の中国の事)の小説に虎を山猫という事や、『西遊記』の第十三回〈虎穴に陥って金星厄を解=とりのぞ、く〉という題名の章に「伯欽の道=い、うには風口+何是個=こ、の山猫来れり云々、只見る一隻の班爛虎〉(註:三蔵法師が山で道に迷って出くわしたのが、姓が劉、 名は伯欽、あだ名が鎮山太保という男で猟師である。その男が言うのには、風の響きが聞こえる場所には山猫=虎、が現れる、云々。見ていると片目で縞模様の綺麗な虎が現れた)」とあり云々」、これも伯欽が勇気のある男だったので(註:文中でも、この男は自分で『凄腕の猟師であるので虎や狼は自分を恐れて自分の家の側には決して近寄らない』と言っている。この後にはなんとこの因縁の虎との死闘も描かれている(勿論勝った)そして三蔵は第十四回の「心猿 正に帰すること」の章で、この伯欽の案内の途中、天界で騙した罰として石=岩の箱に閉じ込められて山に押しつぶされていた孫悟空と出会うのである。結構面白い。この西遊記も漢文読み下しもほぼ文語調だから読むの面倒だけどねwでも私が訳すととんでもないな。↓)虎を山猫とバカにした言葉である。
つづき

面白そうなんで、西遊記の第14回を一部抜粋して訳してみましたテキストへ←クリック

十二支考 『鼠に関する民俗と信念』

 年が明けて子年が来ると、みなさま全員ネズミを連想しますよね。
子の年は鼠、丑の年は牛と、十二支に十二の生き物を割り当てるのは、古くは中国からはじまって、日本・朝鮮・ベトナム等の隣国に伝わり、インドやメキシコでもちょっと似ている十二の動物を、日めくりに割り当てた事もあったりしましたが、中国のように方角までは割り当ててはいないようです(作者註:拙文「四神と十二獣について」を参考にしてね)。
 清の趙翼=ちょうよく、(註:中国、清朝の代表的な考証学者の一人)著作の『?余叢考=がいよそうこう、』という書物の三四に書いてありますが、『春風楼随筆』には、『唐書』にキルギス(註:中央アジアにある旧ソビエト連邦の共和国)では十二の生き物で年を表して寅年を虎年というと書かれています。『宋史』には、吐蕃=とばん、(註:チベット王国の中国名)では兎の年に俺が生まれた、馬の年に隣りの七兵衛が嫁をもらったなどというと書いてあるそうです。
 邱処機(註:丘長春1148-1227道教の導師。道教とは仏教・儒教と並ぶ中国の三大宗教の一つ)が、元の太祖への上奏文(註:提出した意見書)の中に竜児(辰)の年三月日に申し上げる、とあります。
元の時に泰山(註:中国の山東省泰安市にある山。中国皇帝が儀式を行う山)に立てた碑には泰定鼠児(ネズミ)の年、また至正(註:中国の元時代の年号)猴児(サル)の年とあり、北方諸国にはむかしは子丑寅卯の十二支はなく、ほぼ鼠牛虎兎の十二の動物によって年を表しました。それが中国に伝わって十二支と合併したのだと思われます。
しかし周達観(註:中国の元の時代の人1296年元のフビライ・ハンの使節の随員としてカンボジアに行く)の『真臘風土記=しんろうふどき、(真臘=カンボジア、なのでカンボジア風土記。使節随員で行った時の記録)』にカンボジアでも鼠牛虎兎で年を表すのは中国と全く同じである、とあります。
ただ馬をモミー、鶏をロカなどその国の言語で呼ぶだけの違いであり、北方が起源なのではないか?とあります(作者註:一八八三年版、ムーラの『カンボジア誌』一巻の157ページを参照してね)。
ハッキリとは言い切っておりませんが、まずは十二の生きもので年や時間を表す風習は、中国にはじまって南北諸隣国へ広まったということです。
それから前述の『陔餘叢考=がいよそうこう、』には、十二の生きものを十二支に当てはめるのは後漢時代からはじまった、とも書かれています。
しかし『古今要覧稿』(註:江戸幕府編纂の百科事典。560巻で未完)五三一に、前漢の書『淮南子=えなんじ、』(註:中国で前2世紀に成立した書。内容は道教思想の解説。道教の思想本はだいたいどれも政治や軍事や天文・地理なども載っている。これもそう)に山の中で未の日の主人と呼ばれるのは羊の事であるといわれ、戦国時代に『荘子』が〈いまだかつて牂牧を為さずして、奥に生ず〉(註:今までに一度も放牧をやらないでメスの羊が)というのを『釈文』(註:読みにくい筆跡や漢文を、読みやすい字体・文体に直したもの。まさにこれのことですね、藁)に西南隅未地と書いてあるので、羊を未に当てはめたのは後漢にはじまったことではないと言い、故竹添進一郎氏(註:1841〜1917外交官・漢学者)の『左氏会箋』(註:『春秋左氏伝』の注釈書。春秋左氏伝とは孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。通称『左伝』=さでん)一四に引かれた銭?リの説に『今の牛宿の星群は子宮にあって丑宮にあらず、周の時代に元※[#「木+号」という漢字]木号=げんきょう、という星が虚宿二星の一つです。※[「木+号」]は耗=こう、で鼠は物を耗=へら、し虚=むな、しくする、当時この星群が子宮にあったからこそこんな名を付けたのですが、なのに今は子宮になく亥宮にあります。また豕韋=しい、という星は周の時代には亥宮にあり、亥は猪、つまり豕に当るので名づけたのです。なのに今は戌宮に居ます。このように一宮ずつ星宿の位置が後=おく、れて来たのを勘定すると、周の時代に正しく星宿の位置によって十二辰を定めたのです』とあります。
 つまり十二の生き物は周の時代に十二支に当てられたのです。わたしは天文の事はあんまりくわしくない方なのですが(註:そのくわしくない天文の論文がネイチャーに載ったんだから熊楠スゲー)幼年の頃にその元で学んだ鳥山啓先生、この人は後に東京へ出て華族女学校で教鞭=きょうべん、を執=と、り八、九年前に亡くなられましたが、和漢蘭の学問についてくわしく田中芳男(註:幕末から明治期の博物・物産学者、農務官僚)のこともいつも尊敬してみんなに薦めていたという博識者でした。
この先生はもっぱら『論語』の中に『北辰のその処に居りて衆星これに向うがごとし(註:意味、北極星があって他の星はこれを中心にして動くようである)』というのを教えるついでに「孔子の時代は北辰(註:北極星の古称)が天の中心にあったからこう言われました。ですが、今は北辰の位置が動いて句陳(註:鉤陳ともいう。小熊座のこと)という星が天のまん中に居座っています」と教えていただきました。
漢の石申(註:BC4世紀に活躍した中国の天文学者)の『星経』の中にも『句陳は大帝の王妃のことである』(註:もともとは大地の神。今は女神で、后土娘々とも呼ばれるそうです)とあったので、新しい女たちが世の中に出て来て活躍するのもごもっともなことですね。天でさえ女主人に支配されるのが流行りのようですから。
 このような星宿の名前と、古今の星宿の位置の移り変わりから推測した銭?リ氏の説は誠に正しい説で、クラーク女史が「中国で日の黄道=こうどう、を十二分し、十二の生きものの名前を付け、順次日の進行に逆らって行くとしたのは珍無類のやり方で中国で起こったのは疑いありません」といったように(『大英百科全書』十一板、二八巻九九五頁)十二の生きものという具体的な名前から離れて、十二支という抽象的の象徴を周の中国人が完成させたのでした。
 かくして日本、カンボジア、モンゴル人等が鼠牛虎兎というのとは異なり、子丑寅卯と形而上の物の名前で数える事になってから、十二支と十二の生きものを離して考える事が出来ました。
これは日本人がネの日ウシの時といわば多少鼠と牛を思い起こしますが、字音で子午線と読んでしまうと急に鼠と馬は連想できなくなります。午前午後と言われても決して馬のイチモツと尻の穴を思い出さないことでもわかりますよね。
このように十二の生きものから切り離して、十二支の名目を作るという中国人の偉業によって、暦占編史を初めその文化を進めることに非常に力を添えたことと思われます。
そしてモンゴル、チベット、日本等の諸国また中国でも十二の生きものと十二支を同じ名で呼び、もしくは別々に考えられない人間は、どうかすると十二支を十二の生きものの精霊であるように考えていて、鼠の年の男は虎年の女に負けると言って妻を離別したり、兎は馬に踏み潰=つぶ、されると言って卯年生まれの者が午の方角、つまり南へ住居を移さなかったりすることが多いです。
 さて本元の中国人が十二の生きものから十二支を別に作ったのは良いのですが、十干の本となる木火土金水の五行=ごぎょう、をそのまま木火土金水と有形物の名前のままにしたことから、火は木を焼くが水に消されるなどと相生=そうしょう、相尅=そうこく、の説が盛んになり、後世にさまざまな迷信を生み出しました。
こんな風に考えると、子年だから鼠の話を書くと言うのもバカバカしい話ですが、毎年やって来たことですので書き続けます。
大正十一年出版、永尾竜造君の『中国民俗誌』上巻に一月七日に中国人が鼠の嫁入りを祝う事が載っています。直隷の呉県では鼠娶婦。山東の臨邑県では鼠忌という。江南の懐寧県では、豆、粟、粳米等を炒=い、って部屋の隅に投げて鼠に食わせ、炒雑虫(虫焼き)といい、この晩は鼠の事を一切口に出さず、直隷永平府地方では、この夜は鼠が集まって宴会を開くので、灯りを付けて邪魔をすると一年中祟られてしまうといい、直隷の元氏県より陜西の高州辺へ掛けては、家の女性が鼠の邪魔をしないようにみんなで家を開けて門の方に出ます。
家にいて邪魔をすると仕返しに衣類を噛=かじ、られる、と言って恐れています。嫁入りの日にちは所によって違います。山西の平遥=へいよう、県では十日に嫁入りがあります。その晩は麺で作ったお餅を垣根に置いてお祝いをします。
陜西の岐山県では三十日の夜、灯りをともしたり言葉を話すのを禁じて、鼠を好きにさせておいたという事です。
日本には鼠の嫁入りのお話はりますが、このような新年の行事があるというのは聞いた事がありません。
『嬉遊笑覧』一二上に「また鼠の嫁入りというのは『薬師通夜物語』(寛永二十年)古くは鼠の嫁入りとて果報の物と世にいわれ云々、『狂歌咄』、古い歌にも「嫁の子のこねらはいかになりぬらん、あな美はしとおもほゆるかな」、『物類称呼』に、鼠は関西にてヨメ、また嫁が君、上野=こうずけ、では夜の物、またヨメまたムスメなどと言うそうで、東国にもヨメと呼ぶ所多く、遠江=とおとうみ、国にはお年始のころだけヨメと呼ぶそうです。
其角(註:宝井其角=たからいきかく、江戸時代前期の俳人で芭蕉の弟子)の句に「明くる夜もほのかに嬉=うれ、し嫁が君」。
去来(註:向井去来=むかいきょらい。江戸時代前期の俳人で同じく芭蕉の弟子)の説では「除夜から元旦の間に鼠のことを嫁が君と言うのは、確かな事はわからないけれども、今考えてみると年の始めは、すべてがおめでたくてお祝いの言葉しか言わないものなので、寝るや寝起き、などと言う言葉を正月に使うのを嫌ってイヤがったので(註:大晦日の晩は、年神が交代するため家族でそろって寝らずに夜明けを待つという行事があったため、寝るのは縁起が悪いので言い換えた)イネツム(註:稲積む=寝る)、イネアクル(註:稲挙げる=起きる)などと呼ぶような例はたくさんあります。
鼠もネのひびきが縁起悪いので、嫁が君と呼ぶようになったと思われます。この名前があるから鼠の嫁入りという諺が出来たのでしょう。また鼠を夜の物と呼ぶ様に、狐を夜の殿というのは、似た様な名前ですね。思うに狐の嫁入りは鼠の後に出来た言葉でしょう」と書かれています。
『抱朴子=ほうぼくし、(註:葛 洪=かつ こう、の著書。葛洪は283年 -343年西晋・東晋朝中国の道教研究家・著述家である)』内篇四に、山中では寅日=とらのひ、に、自分で虞吏(註:怖い役人)と自称するのは虎、当路者(註:重要な地位にいる人)と自称するのは狼、卯日=うのひ、に丈人(註:老人の尊称)と自称するのは兎、西王母(註:中国で古くから信仰された女仙)と自称するのは鹿、子の日に社の君と自称するのは鼠、神人と自称するのは蝙蝠=こうもり、などと多くの例を挙げ、いずれもそれらの本名を知っている人には害を与える事が出来ない、とあります。
 これは十二支の異なる日ごとに、当日の十二の生きものたちに属する三十六の生きものたちが、化けに化けて自らいろいろな名前を自称していく行くニセの名前のお話です。
これに対してスウェーデンで放牧業をしている女たちの言い伝えには、昔動物たちがみんな言葉を話していた頃、狼が「ワガハイを狼と呼ぶな、襲うぞ。おまえの宝と呼べば襲わない」と言ったとかで、今でもその実名を呼ばずに、黙った者、鼠色の足、金歯などと呼び、熊を老人、祖父、十二人力、金足などと呼ぶそうです。
またイースター復活祭のはじまる前の二週間の間、鼠、蛇などの有害動物の名前を言わない。これを言うと年中その家にそれらが呼ばれたといって集まって来るからであるという(一八七〇年版ロイドの『瑞典=スエーデン、小農生活』二三〇頁、二五一頁)。
古代エジプト人は故人は魂、副魂、名、影、体の五つに分けられ、神もその名を呼ばれて初めて現われることが出来、鬼神はそれぞれ自分の名前を隠しているといいます。人がこの隠された名前を知ることができれば、神がその願いを聞いて叶えてもらえると信じられています。
章安(註:章安灌頂=しょうあん かんじょう。561年 - 632年、は中国天台宗の僧侶)と湛然=たんねん、(註:湛然=たんねん。711年 -782年、は中国・唐代の天台宗の僧侶)の『大般涅槃経疏=だいはつねはんぎょうそ、』その二には、呪というものは実は鬼神の名前にすぎない。その名前を唱えられてしまうと鬼神は害を与えることが出来なくなるとあります。ちょうど夜這=よば、いに行って熊公じゃね?と本名を呼ばれるとあわててフンドシを捨てて逃げ出す様に、南無阿弥陀仏の大聖不動明王のと名号を唱えられると、どんな悪人でも成仏させ、苦しみから救わねばならない、というわけですね。
そういえばわが国の歴史にも田道将軍の妻、形名君の妻などと、夫の名前だけ記録して妻の名前は名無しで、中世、清少納言、相模=さがみ、、右近=うこん、と父や夫や自分の官位を名のり実名を知られていない才女は多いですね。
フランス領コンゴには姉妹の名を言い当てて、二人とも嫁にもらった話があるように(一八九八年板デンネットの『フィオート民俗記』四章)女の実名を知ったら、その女に惚れられるという古い迷信から起こったもので、親が付けた名前をうっかり夫となる人以外には知らせてはならないからです。
『扶桑列女伝』(註:色道大鏡=しきどうおおかがみ17巻扶桑列女伝。江戸時代の評判記、全18巻。藤本箕山=ふじもときざん著。内容は風俗案内手引書。女の評判や場所について作法など)に、名妓八千代の諱=いみな、は尊子、勝山の諱=いみな、は張子などと記録されていますが、遊女の本名をうっかり知らせたりすると「自分の妻になるという約束をした者だ」などと言いがかりを付けて来る者がいるから、貴人の忌名=いみな、と同じ様に本名を隠したため、諱と書いたのです。
西洋でも他人の奥さんを呼ぶ時には、その夫の氏名に夫人号を付けて(註:ミセス何とか)使い、よほど親しい関係でなければ本名を尋ねるのは失礼なことです。
中国では天子の諱を隠すあまりに、どう読むか判らない新字を作った事さえあるようです(一八九五年版、コックスの『民俗学入門』五章。『郷土研究』一巻四二三頁拙文「呼名の霊」参照)。
動物が自分の名前や人間の言動を、人間と同じ様に理解していると信じられているのは、どこの国でも普通の事で、サラワク(註:ボルネオ島北部=現在のマレーシア・サラワク州とブルネイ、に存在した白人王国1841年-1946年)やマレイ半島には、動物が面白い事をするのを見ても笑ってはいけない、笑うと天気が荒れ出し大災害が起こる、と信じている人たちがいます(一九一三年板デ・ウィントの『サラワク住記』二七四頁、一九二三年板エヴァンスの『英領北|婆能=ボルネオ、および巫来=マレー、半島宗教俚俗および風習の研究』二七一頁)。わが国でも鼠とりを仕掛ける時に小声でその事を話し、鼠に聞えたと思ったら今日はやめだなどと大音で言います(『郷土研究』一巻六六八頁)。
 さて一年の計は元旦にありで、鼠の害を少なくするため、中国で七日や十日の夜、鼠の名前を呼ばずにごちそうまでするし、日本でも貴族の家庭内ではで三ヶ日間ネズミと呼ばずヨメと言い換えたのです。
明暦二年板、貞室=ていしつ、の『玉海=ぎょっかい、集』に「ヨメをとりたる宿の賑=にぎわ、い」「小鼠をくわえた小猫ほめ立てて 貞徳」、加藤雀庵のヨメとは其角の句にあるヨメが君の略のことで、『定頼卿家集』には、尼上の蓮の数珠=じゅず、を鼠が食べてしまったのを見て「よめのこの蓮の玉を食ひけるは、罪失はむとや思ふらむ」、このヨメノコからヨメガ君が出たのでしょう、ヨメは夜目であると言います(『囀=さえず、り草』虫の夢の巻)。
まあそんなところでしょう。
この当夜謹慎して鼠をもてなすのは年中の鼠に害をなるべく差し控えてもらう気持ちから出たのを、鼠はその時期に繁殖の交尾をするために、鼠の婚礼を祝うものと思い込んだ為に、日中ともに鼠の嫁入りと名付けるに至ったのでしょう。
つづき



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