やっと2015年がやって参りました。去年早々とジェッターマルスについて、少しだけ書きましたが、今年こそがジェッターマルス君の生誕年です。現実では疑似人間的なロボットなど程遠い現状ですが、むしろロボットが壊れて命令を聞かなくなったり、人間に近付け過ぎて自我に悩んで人間で言う『危ないヤツ、キレたヤツ』にそっくりなロボットでも出来ようもんなら、こっちの身が危険に晒されるので、やはりロボットと言ってもコントロールして動く様な、動かす=頭脳、のはあくまで人間で居た方が無難だと思われます。アトムの項でも書いた事ですが。まあ、自動車なんかも便利だけどね、人間でさえ疲労だのストレスでその操縦を誤るくらいだから、その人間にロボットを近付けて良い訳が無い、と思うのですよ。発達させるべきなのは、誤作動に対する制御でしょう。実際、自動車のその方面の技術は近年めざましいものがありますし。絶対的にロボットは道具として使う事を私は推奨します。

マルスと川下博士の作った女ロボットの美理(みり)。この二人を見ていると、どうしても『三つ目がとおる』の写楽と和登さんを思い出してしまうのであった。

思えば、アトムも良いけどマルスの方が気になってしまうのにも、訳がありました。親と同等である創造主の山之上博士が、マルスに何よりも強さを強要したからである。もう一人のマルスの頭脳担当の川下博士の教育によって、強いだけではダメなのでは無いか?とマルスは考えるようになり、この大いなる矛盾をマルスが成長しながらどのように克服して行くのか?ですね。

これまんまどこの私さんの話?と気付きましたよ。私も親から、優しさは弱さだからいらん、とされて育ったので(あの武道やってる家系の人じゃないですよ。私体弱いから。似ているのは男として産まれなかったので、って所くらい)私的には、人間は弱い生き物じゃ無いですか?猛獣とも素手で戦ったら、絶対に負けて殺されるし、生き延びる為に道具を使って、最終的には銃を発明しましたよね。人間が生き延びて生物の頂点に立っているのも、知恵を出し合って協力しあったからです。力づくだけなら滅びてます。大切なのは協力・助け合い、ですよ。これって優しさが無いと出来なかった事なのでは?人が強さだけ求めた世界は、世紀末の暴力伝説です。『バイオレンスジャック』かよっ!(てこれも結構思い入れのある作品だったりしますが、これも力は正義か否か、みたいなものも主題に入っていたと思うので、連想するのも当然かな?個人的には『手天童子』が一番好きな作品だけど。高2の夏に、社会科の課題として選んだ岩波新書の『魔女裁判』の本と、偶然読んだコミックスの『デビルマン』の相乗効果でトラウマ植え付けられたので、デビルマンは好きじゃ無いです、なのにバイオレンスの結末!激おこぷんぷん丸だよ。手天童子の頃の永井豪は、マジ鬼才だと思う。奇才ではなく

と言う事で、強さと優しさの関係。強さと優しさは基本関係ない、(弱さを言い訳にして、正義を放棄しても良いのか?にも通ずる)という当たり前の事に気付くまで私は迷走し続けるのですが、マルスの葛藤が他人事ではなかったので、私はこの作品に思い入れが深かったのでした。結局私は人の言う事を聞かない頑固さを持っていたし、私は人に優しくして欲しいので優しくするのは当然だと思っています。大体親が無理難題を押し付けるのは、完璧に自分の自己満足のためであり、子供の人権を考えての事では無い、のが90%だ、というのを今では知っていますしね。



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