これは柳田國男「イタカ及びサンカ」の冒頭で書かれていた『七十一番職人尽歌合』の第三十六番「イタカとエタ」です。
>東京国立博物館のサイト様より引用。
(柳田國男著・田川亜木夫訳  「イタカ及びサンカ」「妹の力」他
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柳田先生の「イタカ及びサンカ」の内容に触れつつ、独自の見解を示しているので、非常に参考になると思うので載せておきます。興味があったら対で読んでね。

 サンカ者名義考――サンカモノは坂の者  喜田貞吉著


 京都あたりでは一種の浮浪民を、サンカまたはサンカモノと呼んでいます。
東山や鴨川堤などに臨時の小屋を構えて住んでいる者は、そのやや土着的性状を備えて来たものと思われますが、それでもやはり戸籍帳外の者として、しばしば警察官から追い立てをくらって他所へと浮浪しなければならない、という運命を免れません。
そのある者は数年前から警察や役所のお世話になって、今は在来のある「特殊部落」に接した地に借屋住まいをして、他にもう一つの部落を作って戸籍にも編入され、日雇その他の労働者として立派に一人前の日本国民である資格を備えることになっていますが、それでもなお「旧部落民」からは、「あれはサンカじゃ」と言って、その仲間扱いにはなっていないらしいです。
 京都あたりではサンカという類いの者を、私の故郷の阿波などでは、オゲあるいはオゲヘンドと呼びます。尾張・三河あたりではポンとかポンスケ・ポンツクなど言っているそうです。かの四国・九州あたりで勧進や禅門、西国などと呼ばれる仲間にも、この集団が本当に少なくはないらしいです。
実際に竹細工などをして漂泊している者に対しては、その職業によって箕直し、あるいは竹細工などと呼ぶ地方もあります。
柳田君によれば、ノアイとも、川原乞食とも呼ぶことがあるといいます。またその種類によって、セブリ・ジリョウジ・ブリウチ・アガリなど呼んでいることもあるそうです(人類学雑誌「イタカ及びサンカ」より)。
 各地方により種類によっては、様々な名前があるとしても、近来はサンカという名称で、広く彼らを総括する様な風潮になっているように見えます。
そしてその文字では、普通に「山窩」と書く様になっています。
これは大正三年頃の大阪朝日の日曜附録に、鷹野弥三郎氏の「山窩の生活」と題する面白い読物が連載されたのが、よほど影響を与えているものらしく、それ以来地方の新聞などでも、浮浪漂泊もしくは山住まいの悪党集団の記事などの場合に、よく「山窩」の文字を使うことになっている様です。
しかし彼らが山の穴を住まいにするという事はむしろ稀な場合であり、柳田君もすでに言われたように、もちろんこの宛字は意義がありません。
よしんば穴住まいをしている者についての称呼だとしても、それを難しく「山窩」などと書いて、それが俗称になったとは思えません。
 サンカのことが学界において論議されたのは、私が見た限りでは柳田君の「イタカ及びサンカ」(人類学雑誌明治四十四年九月、十一月、同四十五年二月)が初めてのようです。
同君は職人尽歌合にあるイタカとこのサンカとを合わせて述べ、彼らと売笑婦との関係に及んで、一種の娼婦をヨタカと言いソウカと言うは、イタカ及びサンカの語と関係があるらしいと説いています。
そしてそのサンカの語そのものについては、「本来の意味は不明である」というだけで、その説明を試みてはいませんが、その名称の由来は非常に古いものと解釈しているらしいです。
それは平安朝末期の散木奇歌集に、

 伏見にくゞつしさむががまうで来りけるに、さきくさに合せて歌うたはせんとて、呼びに遣はしたりけるに、もと宿りたりける家にはなしとて、まうで来ざりけれは、
 うからめは、うかれて宿も定めぬか  つく
   くゝつまはしは廻り来て居り

 という連歌を引証して、サンカという語が古くに見られる例としているのです。
さすがに博学な柳田君だけあって、うまいものを見付け出したものだ、とひたすら敬服の外はありません。
しかしながらこれは柳田君もすでに言われたように、「ただ一つの証拠ですが、誤字などがあるかも知れません」という以外に、実は本来「くぐつし(傀儡師)であるサンカ」と読むのではなくて、「くぐつであるシサムという名の者が詣で来たのに」と読むべきものではないだろうか?という疑いがあります。
柳田君は上の連歌の詞書の中なる「さきくさ」のことを「人形芝居の一曲だろうか?」と解釈していますが、これは曲名ではなくて遊女(うかれめ)の名前でした。
体源抄十に、

前草(さきくさ)は最初はクグツだったが、最後は遊女になって、両方の事を理解できてよかった。(以上は柳田君も松屋筆記から引用しています)
前草が言うには、歌は第一の句を短かく歌うのが良い、と言います。またこうも言いました。流行歌は本質が律です。けれども呂と律の両方あります。くぐつの様なものは呂音に歌うのです。この巴法師の歌もまた呂音です。だから傀儡(くぐつ)の形ではなく、すぐ歌いながら、呂音に歌うのがすばらしいのです。歌い女の駒(人名)の歌がその様なものです。

 とあります。つまり歌を歌うのに堪能な遊女だったのです。この頃には、松屋筆記ですでに注意しているように、傀儡(くぐつ)と遊女(うかれめ)との間には違いがあり、両者間の歌の歌い方にも相違があり、遊女は流行歌を律の音に歌いますが、傀儡は呂の音に歌うという様な事だったのがわかります。
そうして散木集の家綱の連歌の詞書は、

伏見に傀儡のシサムというものが来たので、遊女のサキクサに合せて歌を歌わせようと、これを呼びに遣わしたところが、前に居た宿にサキクサは居ないと言って来なかったので

 と解釈すべきでしょう。このように解釈してこそ、その歌も「うから(れ)めであるサキクサはうかれて宿も決まっていないのか、傀儡まわしのシサムは廻って来て居るのに」という意味で解釈するとよく通じるのです。
「くぐつ」と「くぐつまわし」とはもとは必ずしも同一とは思いませんが、これは歌詞の都合上から、「廻り来て居り」と言いたいために、わざわざ「くぐつまわし」と言ったのかも知れません。
しかし「くぐつ」にしても「くぐつまわし」にしても、それをその頃に「くぐつし」と言ったとは思えません。
これは平安朝に傀儡子と書いたのを、後に人形遣いのことだけを傀儡師と書くようになってから後の事でしょう。
したがって上の連歌の詞書は、「傀儡師(くぐつし)であるサムカ」ではなくて、「傀儡(くぐつ)であるシサムが」と見るべきでしょう。
 その言葉の通りであるならば、上の連歌は本当に面白い発見ですが、今になっても平安朝当時からすでにサンカという語があったという証拠にも、また傀儡を他にサンカと呼んだらしい証拠にもならない様です。
 それなら、サンカとは果してどのような語なのでしょうか?
これについては、了蓮寺伊藤祐晃師の示された泥洹(ないおん)之道という書に、

三家者(さんかもの)の位牌の事
三家は日本では坂者と言う。これを音ではなく訓で呼ぶためです。

 とあるのが最も面白い説と思われます。この書は寛永十一年に袋中和尚の著わしたものです。
和尚はその名を良定と言い、京都三条畷の檀王法林寺の開山で、寛永十一年の当時九十一歳の老齢でした。
その書名の泥洹とは涅槃という意味で、したがってこの「泥洹之道」は、死者の葬儀や位牌の書き方などを示したものです。王公・卿相以下、いわゆる三家者の賤民の人々に至るまで、それぞれにその身分に応じての位牌の書き方を例示してあります。
その著者の袋中は寛永十一年に九十一歳とあるので、その生誕は天文十三年で、江戸時代以前の故事もかなり知っていたでしょうし、特にその長い年月の間、扱い慣れていたところから、いわゆるサンカモノが何であるか?くらいの事はよく通暁していたに違いありません。
したがって同書にいわゆる「三家者」を解釈して、

三家者は藁履作り、秤作、弦差(つるさし)のことです。
そもそも坂者とは、また皮[广+(十+十)/日の構成の漢字。探したけど無いので意味不明]とも言います。京に入る時には顔を覆います。これが昔から言われている燕丹です。燕丹は燕の国王でしたが楚の国王に追い出され、皮を被せられました。そしてこの播磨国に来て言いました。私をこの国の王にしなさい。するとこの国の人は笑って叩き出しました。そのため、牛や馬を食べて生活するようになりました。その子孫のことを伯楽、あるいは連索(注略)または唐土と言います。俗に言う非人のことです。(下略)

 と言っているのは、その当時の所伝として貴重な文字だと言えます。ここに書かれた燕丹とはエタの事です。
この説はすでに室町時代に行われていたもので、蔭涼軒日録(長享二年八月十一日及び三十一日の条)にもその事が見えます。燕丹のことは元々は僻説で取るに足らないものですが、しかしこの袋中の記事によって、かつては藁履作りや秤作り、ないし弦差(つるさし)の人々をエタと言い、それをサンカとも非人とも言っていた事がわかるのは面白い事です。
 エタが皮作りの職人だけでなく、かつては浄人(きよめ)(塵袋)をも、河原者(壒嚢抄)をも、青屋(三好記雍州府志)をも、エタという名で呼んでいた事は、「エタと皮多」(三巻六号)の条下でもすでに説明されていた事です。
つまり元はその語が及ぶ範囲が極めて広かったので、徳川時代の法令ではいわゆるエタは、ただその中のある限られた一部分に過ぎないのでした。そして戦国時代以来の実際に通暁しているはずの袋中和尚は、そのエタいわゆる「燕丹」という言葉を使って、藁履作・秤作・弦差の集団をこう呼び、これがつまり三家者(さんかもの)で、あるいは非人ともいうと説いているのです。
それならその当時には、少なくとも京都では広く賤民の通称として、サンカモノの語を用いていた事が推察できます。
 袋中はさらにそのサンカモノという語を解釈して、坂ノ者の転音だと言っているのです。坂ノ者とはもと京都東山の五条坂あたりに居た一種の部族で、賀茂河原に居た川原者と相対して、しばしばその名が古書に見えている者でした。師守記貞治三年六月十四日条に、祇園の犬神人(つるめそ)である弦差と田楽法師との喧嘩の事を記して、

田楽と犬神人とで喧嘩事がありました。この田楽が馬に乗り、犬神人の間を通り抜けたからでした。その無礼を問われて馬から打ち落とされ、田楽人はその場で殺害されました。坂者も怪我をしました、うんぬん。

 とあります。ここに坂者とは、明らかに上で述べた犬神人の事でしょう。犬神人とは五条坂に住んで、一方では祇園の神人であり、一方では毘沙門経読誦の声聞師であり、そしてその内職としては弦指(つるさし)に従事して『つるめそ』と呼ばれ、後には夙(しゅく)とも呼ばれた一種の賤者でした。
師義記に、貞治四年祇園御霊会の神輿をかついだとあるエタも、おそらくこの犬神人の事なのだろうと解釈できます。
そしてこの田楽殺害の事件はまた東寺執行日記にも見られ、「新座の田楽の幸夜叉が、坂物によって殺害されました、うんぬん」とあります。これらから当時はこの犬神人に対して、サカノモノの語が普通に用いられたことがわかります。
 坂の者と言い、川原者と呼ぶのは、共にその住居形態から付けられた名前で、まさしく市街地または田園などに利用できる平地には住めず、わずかに京都附近の空いている荒地を求めて住みついた落伍者の謂れなのでした。そして掃除・警固・遊芸その他の雑職に従事し、または日雇を職業にしていた者でした。
これらの集団は地方によって、または山の者・谷の者・野の者・島の者・堤下(どてした)などとも呼ばれていますが、いずれも皆同一の理由から付けられた名前だと解釈できます。
その坂の者という名も、必ずしも京の五条坂の部族のみに限ったものではありません。
蔭涼軒日録文正元年二月八日条には、有馬温泉場の坂の者の名も見え、大乗院寺社雑事記には応仁・文明頃の奈良符坂寄人(ならふさかよりうど)の事を坂衆・坂座衆、または坂者などとも書いてあります。
 各地方によって種々な名称があるとしても、結局は同情すべき社会の落伍者たちが、都村附近の空いている土地に住みついて、様々な賤業にその生活を求めた者であり、特に京都では坂の者・河原者の名で知られ、それが通じてはエタとも、非人とも呼ばれていた者だったのです。
そしてその称呼は時に両者間でそのまま通用したので、実際に河原者のことをしばしば坂の者と呼んだり、坂の者もまた河原者と呼ぶ事にもなったらしいのです。
それなら後世では次第にその分業の色彩が濃厚になって、河原者の名が実際の河原住まいの者ではなく俳優だけの名称になった様に、坂の者の名がサンカモノと訛って特に漂泊的賤者の名として用いられることになったのでしょう。
賤者の名称が同じ程度の他のものに移って行く事は、もとは主鷹司の雑戸である餌取(えとり)という名が、エタと訛って浄人(きよめ)・河原者等にも及び、ついには死んだ牛馬を取り扱う業者にだけ限られる様になった例もあります。
その京都の坂の者の後裔は『つるめそ』の名だけで呼ばれて、本来の坂の者という名称を失い、逆にその転訛であるサンカモノの名が、別の意味で用いられる様になったのも、必ずしも特別に不思議な事ではありません。
こうして近時になると、オゲ・ポンスケなどと呼ばれた他の地方の漂泊民にまで、その名が広く普及しつつあるのです。
 坂の者がサンカモノと訛ったという袋中の説は、最も信用すべきものとしてこれを引用しても構いません。彼らが本来は坂の住民だったことが忘れられるようになると、それが訛りの多い京都人によってサカン(ノ)モノがサンカモノと転倒して呼ばれるようになったと思われます。
このようなことは上方地方に古今その例が多数あります。
冷泉(れいぜん)をレンゼイ(後にはさらにレイゼイと訛る)、定考(じょうこう)をコウジョウ、称唯(しょうい)をイショウ、新(あら)たしいをアタラシイ、身体(からだ)をカダラ、茶釜(ちゃがま)をチャマガ、寝転ぶをネロコブという類は、みなこれです。
釣瓶(つるべ)をツブレ、蕪(かぶら)をカルバ、汐平(しおひ)をヒオシという地方のあるのもまた同じことで、古くは佐伯(さえき)を「叫(さけ)び」の訛だと考え、近くはモスリンをメリンスの転音なども、また同一のものです。
 このようにして、サカノモノがサンカモノと呼ばれるようになったのは、極めて自然な転音と言わねばならないでしょう。要するに、サンカモノとは本来は坂の者という意味で、寛元二年の奈良坂非人文書(四巻一号四頁及び本号〔「民族と歴史」四巻三号〕一九頁)に見られる鎌倉時代の清水坂の非人の名称でした。
それなのに、それが室町時代には主として祇園の犬神人の名に呼ばれることになったのは、彼らもしくは彼らの一部が、南都末の清水寺から離れて北嶺末の祇園感神院の所属となり、犬神人として著名になった為でしょう。
そして、それが一般賤者の上にも及んで、京都では徳川時代の初期までも広くエタ・非人などの通称として用いられ、後にはその一部であった漂泊生活の最落伍者の称呼となったものと解釈できるのです。
 なお次号に掲げる「奈良坂と清水坂、両所の非人の悶着に関する研究」を参考にして下さい。

↑鎌倉時代には、奈良興福寺に属する奈良坂非人と、京都清水寺に属する清水坂非人が、本宿として畿内近国の各宿駅(末宿)の非人を支配していた。当時、興福寺の末寺であった清水寺がその支配を脱して延暦寺の支配下に入ろうとし、争論を引き起こしていた。清水坂非人もまた、奈良坂非人の支配を脱しようとし、奈良坂寄りの清水坂長吏の排斥、あるいは清水坂長吏と奈良坂の対立など、近国の非人法師をも巻き込んだ一連の争闘に発展した。争いは1210年(承元4)ころから少なくとも1244年(寛元2)ころまで続いた。(出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』)
についての研究。
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