内部の様子は動画に撮ったのでこちらをどうぞ↓


詳しいことは動画でご覧頂くとして、ポイントと思われるものだけピックアップしてレポートします。



表の下駄箱からスリッパを出して蔵の扉を開けると。
おめえよ!(重えよ!)と思わず言ってしまうほど、開きにくい。
扉は開けたらちゃんと閉めてね〜、よろしこ!
右側は見えますね。


まん中と左側はこんな感じです。手前には玉があります


これですね。國男が神懸かっちゃった玉は。


入り口すぐ右にある、生家の模型と間取り図は着目すべきでしょう。これです。





「私の家は日本一小さい」と言ったのも何となくわかります。三人家族くらいなら思わないでしょう。しかし、國男の家族は父母と子供5人の計7人家族(2,4,5男は早世=早死に。生きてたらもっとヤバス)。この間取りでは、プライベートもへったくれもないでしょう。実際兄(鼎)が離婚したのは(二度もだよ)、嫁がこの家で暮らすのも(年頃の男の子もいるし)難しかったんだろうな、というのはバカでない限りわかると思います。新婚なのにエッチもできない(マジな問題)これじゃかわいそうだわ。居住のスペースがないと人間関係がギスギスしますから。外国の刑務所が満杯でよく暴動が起こるって、そういうことだよね?当時はこれが普通の一般家庭の家だと言いますが、昔からこうだから嫁姑で殺し合いをする昔話がよく語られていたんじゃないでしょうかね?
ということで、兄が二度も離婚をして、しかも二度目の嫁が実家から出戻りを許されずに、悲観して入水して死んでしまったので、鼎は世間体が悪くて地元にいられずに辞職し(当時は名誉職である教師)上京して東大に入って医者になりました。
医者になったのが縁で、布川で早死にした小川医師の後を継いでくれるように、と小川の親戚のこれも医者の海老原精一と言う人が鼎に頼んだので、この地へとやって来たのでした。
國男の父親は維新前までは結構羽振りが良かったようです。だから子だくさんでも養えると思って気にしなかったのかも知れません。しかし、この利根町に来て貧乏な市民を見、貧乏だから子供の数が少ない=間引き?それと戦前の乳児死亡率も関係していると思うが、中国の一人っ子政策のように、自主的に各家庭で男女一人づつしか育てないように規制していた。という実態に衝撃を受けた幼い國男は、これを何とかしようと役人になって(農商務省)農民の窮状のためにがんばって働いたのでした。ってことなんだね。後年になって國男が布川時代を回顧して書いた本も展示されてました。
故郷とは違って、みんな近所の子供はすべて呼び捨てにする、ということにビックリした、などとも書かれています。やはりおぼっちゃまくん


昔の小川邸の写真
 
 そうやってみると、この小川邸をもってしても、7人家族ではキツいかも。(ここでは最初は松岡家の者は長兄の鼎と國男だけだった模様)
しかし國男は両親が(弟二人を連れて)兵庫から、やはり兄を頼ってやって来ると、入れ違いのように都内のもう一人の兄通泰の所に移り住んでしまいます。
というのも、何か思う所があったのだと思います。
著作では父親がインテリゲンチャであるとしているのも本当でしょうが、兄を頼る父という存在にも、それとは反する思いもあったことでしょう。
肉親ゆえの愛憎半ばする思い、があったのかも知れません。
この思いが一番切ないわ。

父と母の写真



小川の家(兄鼎の元)を出てから、都内に住む兄(やはり東大出の医者)の通泰の所から現在も荒川区にある開成中学に行くようになり、そこで後に作家となる田山花袋と知り合います。彼とは仲が良かった様で、書簡のやり取りもしていたようです。後に自然派がどうとか、化粧品じゃあるまいしな議論で仲違いするみたいですが、思うにたとえば事実をそのままよりも、嘘=脚色を混ぜた方がよりわかりやすくなり人に受け入れられる。それは真実に近いから。事実ではなく。ってことじゃん?(ちがうかw)まあこれに柳田先生が避けて来た、性に関する問題もイロイロ絡んで来るんでしょうね。どう考えても幼少期の兄夫婦のトラウマが原因とか、元々人間がお上品にできているから、ということも関係がありそうですね。
群馬のつつじで有名な館林に、田山花袋の記念館があるようです。埼玉寄りすぎるからここが群馬と言われてもピンと来ませんが。私には群馬ってったら榛名湖と五月でも寒かった草津、それと伊香保のイヤな思い出…w。まあ今度つつじでも見に行く機会があれば行ってみたいとは思います。





柳田先生、文学青年だったようです。田山花袋に引っ張られて、歌人(和歌を詠む人)の所に入門して門人たちが結成した『紅葉会』に参加。(尾崎紅葉会じゃないんか?w)
これがその時の写真です。
前列の左から太田元綱(玉茗)・宮崎八百吉(湖處子)・国木田哲夫(独歩)
後列左から松岡國男・田山録彌(花袋)

明治29年11月写す


これが噂の『利根川図志』
一巻には(家のパソで検索してデジタルで見た)周辺の利根川全図という地図が今の地名とほぼ変わりなく載ってました。(私地元なんで)
利根川の源流についてや、なぜかカッパについても図入りで解説してありました。
この書は古事記・日本書紀・万葉集・古今集etcの諸書からの引用書にしてくれってあるけど、うーん、結局ただの地誌 ?だぬ。
利根図志

これは第三巻の地蔵市の様子の絵です。現在は間引き絵馬のある徳満寺で毎年11月下旬に行なわれているようです。


他にも布川大明神の絵とかもありました。
元々は府川だったのが天正十八年(1590年)に領主の豊島頼継がこの地にあった下妻の多宝院の末社で曹洞宗の禅寺『頼継寺』だったのを『来見寺』に改名させた時に布川の字に変えさせたということが書いてあります。


こちらが佐々木喜善さんです。彼の著書『老媼夜譚・上巻』と『老媼夜譚・下巻』もよろしくね!

遠野物語
先生を一躍有名にした『遠野物語』です。(翻訳遠野物語・他もよろしく)

この本の前にも詩や農政学の本をたくさん出してますが、民族学的なものとしては、『後狩詞記』翻訳遠野物語にも併録されてます。ナカナカ面白いですよ)や『石神問答』などがあげられます。

(『箋註:石神問答・上巻 』と『箋註:石神問答・下巻』も読みやすく口語体で出てます)
これは写真を写真に写したのでかなり見づらいですが、左は総理大臣の吉田茂からもらった『文化勲章』で右は死後に総理の池田勇人からもらった『旭日大綬章』(ほとんど大臣とか政治家、大組織のトップなどがそれぞれの分野で目覚ましい活躍した時にもらえる勲章らしい)ですね。ほかにも生前には『勲四等旭日小綬章』(現在の『旭日小綬章』公務員や企業で経済的に国や公共に貢献した人がもらえるらしい)

『文化勲章』授与の時の写真
先生の写真でちょっと珍しいなと思ったもの
大嘗祭(新天皇の即位後に行なわれる儀式)に出た。ってわーすげー!流石エリート、大正天皇の時のねっ!(40歳)この年に折口信夫と出会ったそうです。
大嘗祭についてのくわしくは『大嘗祭の本義その他・下巻』折口信夫著・収録でどうぞ。絶賛発売中!
國男二十歳それと対比して若い頃(22歳)の写真。

盛りだくさんだったのでじっくり見たら一時間くらい、ざっと見るなら10分そこそこって感じの資料館でした。いやでも、レアな写真や家族写真もあったので、柳田國男に興味のある人なら楽しめると思います。ぜひ御一見あれかし!


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