中国神話の伝説の鳥、鳳は雌、凰は雄。と言う事は比翼の鳥みたいなもんか?霊泉を飲み、竹の実(てゆーか竹の花って咲くのは60年とか120年に一度と言われてるよね?その実って成るの?実はおろか花すら見た事無いよ)を食物とし、梧桐の木にしか止まらないという。

『火の鳥・鳳凰編』の考察

そんなにざっくりではなかったあらすじ
 ある漁村の村に一人の男児が誕生した。
父親は息子の誕生を喜び、岬の山神の元へ息子を連れて見せに行く途中、足を滑らせて転落死してしまう。
赤子も怪我を負い、そして15年後。
左腕と右目を失った少年『我王=がおう』は誰よりも強く育っていたが、その容貌から差別され蔑まれて生きていた。
(そんな身体では力が強かったとしても、片手で漁師の網を引くとか片目で魚を追うとか、漁師としては働けないか、半人前の仕事しか出来なかっただろう。後に我王が語った所によると、母親も父親の死がショックで、精神的におかしくなったらしい。すなわち我王とその母が生きて行くには、村人の恩情にすがるしか無い。つまり村の厄介物であるのは確かである。父親も漁の最中の死ならともかく、それゆえあまり我王親子は、同情もされなかったのでは無いか?と推測される)
我王は村の子供達との力比べに勝ち、母親に勝者への賞品である、沢山の握り飯を持ち帰ったのだが、それに泥を掛けられて堪忍袋の緒が切れてしまった。
犯人である対戦相手の家に行き、捕まえて崖の上から突き落とす。
それを責める相手の両親も同じく崖から突き落とした我王は、村人から追われる身となった。逃げる途中で押し込みし、子供を殺してまた追われ川に逃げる。
そして川から上がったところで火を焚いていた都の彫刻師『茜丸=あかねまる』と出会う。
我王は親切にしてくれた茜丸の身ぐるみを剥ぎ、彼の健康な身体に嫉妬し、彼の職業の命でもある右腕に斬り付け放置して逃げた。茜丸は助けを求めて自力で近くの寺に辿り着く(紀ノ国=和歌山県の北あたり)。

一方我王の後を追う謎の女『速魚=はやめ』は、茜丸の妹と名乗るが、我王に捕まり無理矢理連れ回され、夫婦にさせられてしまう。我王は和泉=大阪あたり、で盗賊一味を結成し暴れまくっていたが、我王は鼻の病気に罹りそれは段々と酷くなり、原因が速魚の塗る薬が毒だという部下の言葉を信じ、速魚を殺してしまう。
我王は、彫刻師の兄茜丸の仇を、速魚が討とうと自分に毒を与えたのだろう、と言うが速魚は否定する。
本当は速魚は茜丸の妹ではなく、命を助けられたお礼に、我王と一緒になったのだと言う。その正体は我王が逃げる途中で助けた虫の精であった。それを知って激しく後悔する我王。
抜け殻の様になり、役人に捕まり打ち首にされそうになる。それを助けたのは以前我王が出会い、鼻の病気になると予言した旅の僧侶『良弁ろうべん僧正』だった。
僧侶は、偉い都の上人で我王の身の上話を聞き、輪廻=生まれ変わりや因果応報、の話をする。
命に対する疑問を持ち、悩む我王は僧侶の弟子となり、奥州への行脚の共として付き添う事になった。

茜丸は、我王に襲われてから、助けを求めた寺にそのまま残り、左手でも彫刻ができる様に、と血の滲むような努力をし、自分を見つめ直し、今までの思い上がった自分を鍛え直していた。
そこへ都から『橘諸兄=たちばなのもろえ』がやって来て、茜丸に鳳凰の像を三年で彫れと命じる。
権力者の無理難題に、寺の和尚も憤ったが、茜丸は怒りと共に、鳳凰を彫ってみたいという欲求を、押さえられないのだった。都の寺々を巡り、鳳凰の情報を得ようと歩き回り、茜丸はついに四百年前の、筑紫の国のクマソに火の鳥が住む、という情報を得て旅に出た。
そこで茜丸は、とある橋の上で自分の腕をダメにした男と、再会したのだった。
我王は、最初とぼけようとしたが、最後には自分が追い剥ぎした男であるのを認め、茜丸に仇を討つように言うが、茜丸はそんな気はもう無いと去って行く。
我王は、その先の旅で人々の苦難と、政治と宗教が密接に繋がっており、それが民衆の為にあるのではない現実を突き付けられた。
それでも僧形である自分を頼る人々の為に、我王は魔よけの仏頭を彫ってやった。すると人々は有り難がって礼を言う。初めて人に感謝され我王は泣き笑いする。
我王の才能を見抜いた上人は、我王に仏を彫らせ、土で作らせるのだった。そして「お前はそのうでで何万人、何十万人かの人間を救う」と言うが、そんな気はないと否定する我王。

一方、茜丸は火の鳥を求めて一年後、九州まで赴いたが、空振りに終わっていた。
そこで穴に埋められ、石詰めにされかけていた娘を救う。
娘の名はブチと言い、火の鳥を知っているとウソをつき、茜丸を翻弄するが、茜丸は怒らずに反対にブチの事を気遣う。
そんな茜丸とブチは、一緒に火の鳥を探す旅を続けたが、またもや空しく二年、約束の三年の時が過ぎようとしていた。
茜丸は、ブチにモデルとなってもらい、観音像を彫る。だがその像を彫り上げた時、茜丸は『橘諸兄』の命令でやって来た役人に連行されようとし、それを邪魔したブチは役人に刺されてしまう。
 都に連行された茜丸は『橘諸兄』によって首を刎ねられそうになるが、『吉備真備=きびのまきび』によって救われる。
茜丸は『吉備真備』の取り計らいで、正倉院の中に納められている、鳳凰の図を見る。そしていつか、唐に渡って鳳凰を見ると誓う。
が、遣唐使船から落ちて死に、みじんこに生まれ変わり、亀に生まれ変わり、鳥に生まれ変わり、そして鳳凰に出会った。が、それは夢で、茜丸は鳳凰図の前にいた。
夢の中の鳳凰を彫り上げた茜丸は、それを帝に献上した『吉備真備』の下で、奈良の大仏の建立事業に携わる事となった。

その頃、我王は師匠の『良弁』と共に、三年間旅を続けていたが、奥州のある寺の前で、二人はどろぼうとして捕まってしまう。だが、『良弁』は逃げ出し、我王のみが毎日拷問に会う。二年間閉じ込められていた土牢の壁に、茶わんを壊した欠片で仏像を彫る我王。
我王たちをどろぼうと告発した者こそが、どろぼうであるのがわかり、我王はやっと牢から出る。
土牢の仏像を見た寺の住職は、鬼瓦を製作して欲しい、と我王に頼むが、我王は気乗りしない。
なぜ、僧正が自分を置いて逃げたのか?悩んで酒浸りの我王だったが、奈良で大仏を建立するために、人々が牛馬の様に働かされ、事故で虫けらのように死んで行く現状を見て、我王は泣き怒り、それを鬼瓦製作にぶつけるのだった。
見事な鬼瓦が出来上がる中、僧正の行方を知った我王は、平泉に行く。
僧正は、即身仏になろうと地下に埋まっていた。
奈良の大仏を、帝に造るように勧めたのは自分であり、奥州にも資金調達でやって来たのであったが、次第に目が覚めて政治の道具に自分も宗教も使われただけなのを知り、即身仏になろうとしていたのだった。
我王は、師の側から離れなかったが、即身仏になった上人の姿を見て煩悶する。
人は何の為に生きるのか?人がみんな死んで仏になるなら、生きているものはみんな仏だ、と我王は悟る。
そして三年、奥州から三陸・北陸まで仏像や鬼瓦を、作りながら旅をする我王に、都から大仏の記念堂の鬼瓦を作らせようと、使いが来る。が、我王は拒否する。
その頃、国内を日照りと飢饉が襲っていた。
大仏建立の遅れで『吉備真備』の立場はまずいものになっていた。
茜丸はそんな中『橘諸兄』に呼び出され、『吉備真備』が失脚したので、自分の下に付けと言われる。
喜ぶ茜丸の前に、ブチが現れ再会を喜ぶが、茜丸が以前とは変わったのに気付いて、ブチは去って行く。
大仏は、無事に建立したが、仏殿の鬼瓦が出来ていない。

茜丸は、我王と鬼瓦の腕比べをすることになった。プレッシャーに苦しむ茜丸。
我王の元へは火の鳥が現れ、我王の転生してゆく惨めな人生を見させ、その怒りと苦しみを鬼瓦に込めろと言う。
はたして、勝負は誰の目から見ても我王の勝利だったが、投票(買収)で茜丸の勝ちとなった。
異義を申し立てられて焦った茜丸は、我王の旧悪を暴き、我王の残った腕を斬らせて放逐した。
 その後、大仏殿の後ろの正倉院の、北宝物倉に納められた我王の鬼瓦が火を吹いたが、日照りで水が枯れ、消す事も出来ない。大仏を守ろうとして茜丸は焼死する。
燃え盛る茜丸の前に、火の鳥が現れる。そして、茜丸をどこかに導いた。
正倉院の焼跡から、茜丸の頭部を拾ったブチは、都から姿を消した。
そして『橘諸兄』も失脚し、大仏は無事に開眼式も行われた。

我王は山背国(京都)の山中でひっそりと仏像を刻みつけ暮らしていた。そこにブチが現れ、茜丸の弔いをして欲しいと頼む。「来るが良い」と我王は言い二人は山中に姿を消す。  おわり


感想 
火の鳥の中で1・2を争い、評判良いのがこの鳳凰編である。
なる程、これは日本人の気質に合っている物語(=悪人の改心物語)である。
その人気の我王だが、彼に肩入れするのは、その様に悪人でも更生するので、根っからの悪人は居ないと言う性善説に片寄る人、と過去にちょっとした後ろ暗い事してても、もう今はフツー=真人間、だからと過去の悪事をなきものとして誤魔化したい人、なのではないかと勘繰りたくなる。
この物語では、最後まで生き残り、心を入れ替えて=こういう物語は好きみたいだが『あくまで物語』への判官びいき、なのであって現実では、そういう人間を蛇蝎の様に嫌い、避けるのが普通だが、だからこそ夢物語で好まれるのかも知れない。だが、身近に殺人犯がいたら、やはりどうなるか、あなたがどうするのか?は自明の理であろう。物語の最後には庶民衆生の味方の様になる、我王は生い立ちこそ可哀想なのだが、結局は極悪人である。
一方の善人である茜丸は死んで、二度と人間に転生出来ない=解脱とは違う、畜生道で転生を繰り返す定め。
どう考えても割に合わない。悪い奴がたまに良い事をすると、凄く皆が賞賛するってゆーやつですか?としか思えないが(これは差別…なのである)それはそもそも、やった事が大した事無いんだよ、という場合だけなのであるが、それに似ている。
 だとすると、我王という人間は肉体的にも、ハンデを負った存在なのは確かなのだが、それを払拭しようと我王自身がいくら頑張ろうが、どうやっても認められないのだろう。
一般よりは劣る、と見下し捉えられている、真の意味で哀れな存在、だからだ。
だから、上から目線で哀れんで、良くやったと、まるで芸を披露した犬のように褒めている、ようなものだろう。
それはカインを殺したアベルが、神は彼を追放したものの、彼を迫害するものに罰を与える、と宣言しているのと同じ目線であり、贔屓?似ているなあ、火の鳥に。
そういう読者も、ある意味火の鳥目線で、我王を見ていると言う事になる。
まあ、我王の場合物語冒頭から誕生シーンとして始まっているし、主人公として位置付けされているのは明らかだし(最初はピカレスク…後に魂の更正の物語?)肩入れされてるキャラでも不思議では無い。

だが、である。単純に計算して、我王がぶっ殺した人の内訳=15才で悪ガキと、その両親を崖から突き落とし殺す3人+逃亡し押し入った先の子供を刺し殺す1人+茜丸を追い剥ぎし正常な腕に嫉妬し斬り付ける傷害=1人+速魚を連れて逃げる途中で、一家惨殺4人+16才時、盗賊となり反抗する手下を、見せしめに殺す1人+無理矢理女房にした速魚という女に「今日は18人殺した」と自慢している+18人。その速魚も殺している+1人=ざっと計算しただけでも29人は殺傷している。おまけに盗賊をしている間一回襲う毎に20人近い殺傷を行っていると思われるので(集団で、だが我王は進んで殺してるに違い無いので)軽く100人は殺ってるだろう。
現代でも、2人殺したら死刑確定、と人々が声高に言っている訳だが、我王は戦国時代に生きている訳でも無い=平安時代、ので現代とは事情が違うと言っても(厳に、茜丸は一人も手に掛けていない)残念だが、我王は間違い無く連続強盗殺人鬼である。
 これって何か読んだ事ある?な気がして思い出したら、これは仏教に帰依する盗賊の話、がベースだろう?と思える。我王と茜丸
仏教のありがたい説話集に山賊の頭=もちろん追い剥ぎ殺しもバリバリな罰当たりの畜生、が名のある僧侶に出会い殺して追い剥ぎしようとするのだが、その坊主の説法を聞いて、急にその場で手下達を捨て仏教に帰依し、仏を求めてひたすら西へと歩く、歩いて歩いて仏を呼び続けて、最期に仏から返事が聞こえて、山賊の頭は泣いて昇天、という悪人でも帰依したら、極楽に行けますよ、な有名な話
それと同質! (と言うか、あー書いててまんまな気がして来た。我王も上人様と出会って、改心する事になるし。文学的に言うと『恩讐のかなたに』も入ってますしね)
しかし、やっぱりこういう宗教の矛盾=人の命の重さは一律ではない=人は平等では無い=それを是正するのが宗教です、みたいな…。100歩譲っても、懺悔すればそれまでの罪はチャラになっちゃうの?という胡散臭さをどうしても感じてしまう私には、だから我王にこれっぽっちも共感出来ないのだった。
まあ、舞台も遣随使・遣唐使の仏教はじめとする、中国の文化大輸入時代の話だから、仏教の説話をベースしたとしてもおかしくは無いのではあるが…。
その一方で、輪廻・前世・因果応報を解いてるから。でも、それすらも仏教を信じれば、解脱出来るみたいな?
物語のベースは、仏教説話なのだが、実際はそうならないのがこの火の鳥、なのである。
火の鳥が見せた、我王の未来からも、猿田彦一族が非運なのも、全部決められていた事の様だ。
何のことはない、因果応報に捕われ続けて救いが無いのが、猿田彦なのである。
我王には生きて、もがいて償って貰わなければならないのである。その為なら罪を犯させる境遇もきちんと御用意致しますよ、が火の鳥なのである。
ひどいと思われるかも知れないが、実は猿田彦達が同じ悲惨な運命に陥るのも、本質が同じだからなのである。
最初の黎明編に出て来る元々の猿田彦は、荒々しい軍人である。その性格はまんま我王に引き継がれている。猿田彦一族=生まれ変わり続ける一人だから当然ではある。
だが、見掛けは猿田彦でも、中身が茜丸なら同じ事態や結果にはならない
当然なのだが、そこが人間の因業、転生の空しさを描いている所以なのである。身も蓋も無いとはまさにこの事ではなかろうか?自分の中にある問題点、に気付く事ができるか出来ないか?これを克服出来ればつまりは解脱に近づく野かも知れない。
まあ、正直前世は判らないが、先祖がやった事だからカンケーない!!みたいな風潮ではある。
ならば、誰のお陰でお前は産まれて来れた?ということだ。鬼畜生の所行をしても、その祖先が居なきゃ、この世にはいないはずだし、無関係だなどと無責任な事は言えないはずだ。
 そして、もしかするとその先祖の生まれ変わりが、自分で罪を精算する目的で産まれて来たのだとしたら?と考えるとぞっとしない話である。
それに、大体これを躍起になって否定する輩に限って、血は争えない!と言わしめるような人格の場合が多い=本当に生まれ変わりなんじゃ?という性格が多い気がする。
この猿田彦のように、罪の上乗せをして子孫に渡す、のだけはやめといた方が良いと思うのである。
それから幾ら信心深くても、罪を償う他者の為の行動を取らないと、結局は何一つ誰一人救われるはずないのだろうと思う。
猿田博士も人類の為に研究していたのか?と言うと疑問が残る。
裏設定である、兄のお茶の水に一矢報いる為の研究、であるとすれば、それは自分の為の行動で、罪を購うには程遠い行いだからである。
それから、面白い事に猿田彦の生まれ変わりの進化?ともいうべき事柄がある。
おおまかな流れとしては、最初=黎明編では、邪馬台国の忠実な一兵士、という権力側の人間であったのが、反旗を翻して次の我王=鳳凰編ではむしろ反勢力側にいる。そして太陽編では、反勢力からクーデターで権力の座に就こうとしている事である。
それからもう1つ、ただ一度の過ち=権力側に就き、我王の残された腕を奪った茜丸であるが、死後の描写がこれまた胡散臭い。火の鳥に導かれている?というより、吸い取られている様な描かれ方である。
これは…、穿って考えると、火の鳥に吸収されているかの様だ。
火の鳥は気に入った人だけを自分の中に取り込んでいる様な描写が他にもある。もしかすると茜丸の事を気に入っていて、彼の大半を自分の中に吸収し、残りカスが転生するので当然自我が無い=動物にのみ転生、なのではあるまいか?と、そんな気すらしてくる。
そう考えると火の鳥って自分勝手所か薄ら寒い、こわい。

そして【鳳凰編の個人的な思い出】火の鳥は昭和にラジオドラマ(15分番組)になっており、放送は確かNHKFMだったと思う。
ささきいさおが茜丸で、火の鳥の歌も歌=テーマソング、歌ってました。
その楽譜を渋谷区神南のNHK宛先に希望を、と募ってたんだけど、抽選ではなかったらしく「返信用の切手を貼った自分宛の封筒を入れたものを送って下さい」と、ささきいさおが苦笑して言っていた。
今なら、きちんと前もって言うんだろうが、昔は当然のマナーだったのだろう。
しかし、恐らく聴取しているのが少年少女だったため、その常識を知らずに、そのまま葉書か何かで請求したものと思われる。それ聞いて私も請求しましたよ。返信用封筒入れて。
後に鳳凰編のLPアルバムも出たので買って、中に楽譜いれてたんだけど、もう失われてしまいました。その時にリアルタイムで、テープにとった鳳凰編ももう失われてしまいました。月日は無常なものですね。


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