未来人カオスの考察

・はじめに…漫画は子供の物である。これは持論だ。子供の頃のワクワクや想像力は物凄いエネルギーがある。子供の頃にそれを溜込まないと、それからは味気ない人生になると思うのである。手塚漫画や(その他テレビアニメにもそれと同じ位)十分にそう言う意味での=キャラだけではなくストーリーに対して、萌え萌えさせて頂いたので十分な人生になってると思う。なので、このサイトでは手塚漫画は年少者向けの漫画やアニメのみ扱っている。大人向けだと、『空気読め!』の本当に大人の都合が入ってしまい(大人は子供よりも寛容かと言うとそんな事は無い、むしろ柔軟性を失い偏狭になって行く癖に、御都合主義で全部グレーにするのだ)、子供特有の正義感がねじ曲げられる懸念が生ずるのだ。イデオロギーの混乱。多面的な価値観を示す事により、登場人物も色んな立場から選ばれて描かれる。これは下手すると非常に危険な事で、描かれ方によっては思想や理念と言った人間形成に大きく影響を与えてしまう=洗脳。と、これを書いたのも実はこの『未来人カオス』と言う物語は、後の『アドルフに告ぐ』の登場人物である二人のアドルフが、カオスでの須波と大郷のまんまの関係であるからだ。二人のアドルフに干渉するのが、カオス=超自然的存在の介入ではなく、家族や国であるだけの違いだ。よって、この一部で完結を迎えたカオスの続編とも言うべき部分が、アドルフに告ぐには描かれているとしか思えないのである。年少期に未来人カオスを読み、その後にアドルフに告ぐを読んでしまうと、ちょうど自分の体験ともオーバーラップする部分もあったという理由でカオスを読みはじめた自分としては、かなりキツイものが残った。まあ、アドルフは現実的にはこの二人の部分とは別に国際外交的に非常にデリケートな問題(主にナチスとイスラエル問題)も孕んでいる。…つまり言いたい事はそれ相応に年代に応じたものを読まなければダメ、と言う事で大人になったら自己責任だからご勝手にと思うが、いくら生意気でも子供は子供で、その時期には何ものにも縛られず=何かの都合等考えず、に本当に単純明快に人生の答えを出して行って欲しいと思うのである。月並みではあるが、単純な夢と希望(と少々の絶望感=挫折)を与える漫画が必要なのだと思う。なんかこのスローガンは、ジャンプ臭いけどw。

・カオスを読みはじめた訳…上でも書いたけど、友達と思っていたのに違っていたでござる、と言う事があった。それは例のみんな一緒、みんな仲良し、のスローガンを絶対に崩さない癖に実際には弱肉強食を見てみぬフリの教育のお陰wだった。小学校の高学年から少しづつ、我々の歯車は軋んで狂って行った。人間は能力に於いては平等なんかじゃ無かった。それを学校では教えてくれなかった。事実を知ればやる気が無くなる?それでもやる気を起こさせ、希望を与えるのが教育ではないのか?ただ面倒臭かったんだろう。子供の数が多過ぎて、少し位死んでも構わないと思われている、と言う実感はあった。友は体育会系だった。が私はそうでは無かった。お互いに正反対の資質を持っていた。小学校はまだ救いがあった。身体と頭脳と同等の価値があった様に思えたからだ。お互いの無いものを尊重しあえた。しかし、受験戦争のある中学ではそうはいかない。溝は深まる一方。拍車を掛けたのは学年の狂死達だった。奴らは入学時のテストで平均点が高いのに目を付け、学校の規定カリキュラム以上の課題を毎日毎日我々に課した。それに付いていける者、脱落する者、の差は開くばかり。私は元来の臆病さと小心さで真面目に課題に取り組み、ヒイヒイながらも何とか付いて行けたが、友達は辛くも脱落してしまったのだった。こうして学力の二極化は交友関係の二極化も促進した。恐らくそれは我々だけではない。もしかすると、これは実験では無かったのか?と今でも不信感で一杯である。【その頃、東アチ=東大アチーブメントテスト、と言うのをやっていて、多分それだと思うんだけど、専攻が出来の悪い奴らを集めて去年のテスト見せてやらしてたんだよね。テスト前に。ってかこれさ、もう完全にカンニングだけど。「もうなんもいえねえwww」今なら大問題っしょ。日教組は勝手に近くの商店の裏に集まって変な歌を歌って鬨の声=ときのこえ、と読みます。なんか上げてるし、碌なもんじゃなかったな】よってカオスの超自然的存在のやり方は間違っている。人間の仲を引き裂きたいのなら、片方に特権を与えて片方を徹底的に貶める事だ。そうすれば自然に両者は憎みあう関係になる。事実そんなのは殊更言う間でも無く、世の中にはゴマンとある構図だ。コレ位は理解出来た程度に、私はそんなにバカでは無いつもりなのだが、行動様式は中学2年の男だと言われる。まともな友情を育めなかったので、成長が止まってしまったのかも知れない。だから、いつまでも漫画やゲームetc子供が好きなものが好きで抜けだせないなのかもwww。
・今読むカオス…今改めてカオスを読んで須波を生まれ変わらせる必要性には疑問を感じるが、須波を裏切って非道に走る大郷にしては、性格的にまだ弱さ=善としての人間性、が残っている(これはやはりどうしてもアドルフに告ぐのアドルフ・カウフマンを思い起こさせる)ので中途半端だ。この優柔不断が悲劇をもたらしたとも言えるが、毒を喰らわば皿までのふてぶてしさがあって然るべきだと思うのだ。彼にこの優しさを残したのは結果的に二人の和解への布石なのだろうが、愛情の裏返しが憎しみ、の様に一度こじれたら関係の修復は困難だと思う。実際『和解出来るんじゃないかと、そんな風に思った時が俺にもありました』を体験しました、からだ。なんか偶然出先で会って懐かしくなり、連絡を取って付き合い始めた途端に、マルチに引き込まれそうになって最終的には完璧に縁が切れたけどね。しかし、正直言って友情が理解出来ない。(極端だが友達の為に死ぬって出来ないよね、普通。愛の為になら死ねるとは思うよ。だって、愛の行き着く先=家族になる事、だから。それを前提にすると、身内の為になら骨身を削っても命投げ出しても人は納得するんじゃないかな?でも、友達はどこまで行っても他人。私には理解出来ん)友情の復活よりも赦しと後悔の自覚がテーマになりそうだ。若い内は思いもしないが、色んな経験をすると酷い目に会って傷付いたりもするが、赦さないと自分が傷に捕われるので不幸になる。過去として切り捨てれば未来は開ける。実際カオスはそうした。後は大郷の番なのだが、そこまで行き着いていないまま終わっている。年を取ると何故か『思い出す』と言う事が多くなる。やられた事もそうだが、自分のしでかした事を克明に思い出す。大概は今度こんな事があったら、『もう二度と繰り返さないようにしよう』と自戒を込めて思うだけで済む場合が圧倒的だ、がもしも、繰り返すなんてもっての他な事をしていた場合、自責の念なんて半端なものでは済まないだろう。赦す事が出来ない人と、取り返しの付かない事をしたと自分で思う人は、それから逃れる為には自我を放棄する=精神崩壊やボケる、しかないんじゃないか?と思う。つまり大郷は過去の幻影に悩まされて発狂とか。今カオスを読むと、そんな末路しか見えて来なかった。のは、大人になってひねくれたせい?それとも手塚先生なら、人間は絶えず変化して行く生き物だ、と言う事で大郷が物凄い改心した行動を取って、最期にカオスを助けるかも知れないな、と思うのだった。


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