幼年期から最近までの心に残った本・好きな本の紹介ベージです。

『八月がくるたびに』おおえひで作・理論社
この物語は友達が感動して、いい本だから、と言われ勧められるまま学校の図書館で借りて、読まずに返してしまった本です。1年後に借りて読んだら本当に良かった。最初の時には、なんか地味ーで暗そうな表紙と題名、内容に引いてしまったんでしょうね.なんとなく怖かったし。とゆーか、今見ても怖い。最初にこの記事を書いた時点では、ここで言及している旧版でしたが、その後に新装版が出てイラスト(さし絵)が一新されてしまったのですよ。残念でならない。かなりマイルドなものに成り下がってしまいました。あれは一種の芸術で、その熱量に圧倒され子供の私は、なんというかその執念的なある種の宗教、神がかりな本に激しく影響を受けるということを経験したわけなんですね。その頃、流行っていたのがコラージュで小学校の五、六年生が文化発表会みたいなのを各教室でやっていたのを見た時に、そのコラージュがあって(いろんな顔の)、そのコラージュがこの本とオーバーラップしてしまい、気持ち悪くなって吐いた。
 思えばこの本は、絵を見ただけで人間の業の恐ろしさを見せつけられて、おぞましいけれどもしかし目をそらしてはいけないと思ったので、思い切って後日に読んだんです。そーいえば、昔は終戦記念で体験(軍人では無い。一般の人で被爆したり怪我をした人)がテレビで戦争でいかにその後の不自由な生活を余儀無くされているか切々と時に慟哭して語る番組がありました。その人たちはあまりに普通の人でその不条理さに怒りすら覚えました。今はもう生き証人という方々もお亡くなりになったり、公共のメディアに出られる状況ではなくなったのかも知れません。それは仕方ないことですが、あったこと(悲惨な大量殺人戦争の記憶や記録)は無かったことにしてはいけないと思います。

『いやいや園 』中川李枝子・福音館書店
 私は学校が嫌いだ。排他的で孤独を好むのもこの頃に培ったものでございます。この頃は子供がごろごろいたから二、三人死んでもよさげな雰囲気があった。 勉強の重圧で陰湿ないじめもあった。しかし世の中は無知なだけの餓鬼を、素直だの純真だのと(死語)持ち上げて決めつけて、醜い部分を見ないで高度成長だ のと浮かれまくり、自分だけ腹一杯になるのに必死で、猛獣を放ったらかした(育児放棄。親はなくても子は育つ、なんて言ってたんだよ?無事にドキュンが一丁上がりだけどね)結果が今出ているのだ。今いやいや園なんか本当にあったら大変だろうね。色んな 意味で。
 昔は先生という人種は、あまりにも感情的だから好きでは無かった。えこひいき、は当たり前にあったし、気分次第で生徒をどのように扱っても良いという風潮だっ た。(だからセクハラロリコンせんせーがはびこってるんじゃないの?)そういう扱いを受けて成長した子供達が、その後にモンスター級のクレーマーになってしまったとしても、それだけ小学校・中学校でひどい目に会ったかわいそうな人たちかも知れない、と 思うと私は一概に責められないと思うんだよね。
このいやいや園は、ドキュン小僧がそんなに乱暴で何もかも嫌だ嫌だというなら、いやいや園に行け!と言われて行ってみて、びっくりして改心した、という話なんだ けれども、私は自分が行く立場で読んだことは無い。憎たらしいあいつが、いやいや園に行ってひどい目にあったらいいなあ、と思いながら読んだのである。

『小公子・小公女・クオレ』子供3部作・その1
 私が子供の頃これを読んでいない者は子供にあらず、だった。一家に一冊はあったんじゃないか?と、思う位だ。題名で損してると思う。小公子=リトルプリ ンス、小公女=リトルプリンセス、だもんね。この話は結局、適度に不幸になって(人の可哀相な話が好きなのは、大人に限ったことではない)清く正しくても 馬鹿を見ないで幸せになれる話は面白いし、それが寓意なのだろう。正しい話ではある。
 要するに不遇な主人公が悪環境にも負けず、地道に頑張って幸せを掴む話、が物語の骨子である。子供の時に読んでおくのは、やはり良いことのような気がする。自分の子供に買ってあげる、読んであげるなどするといいかも知れません。

『ポー小説全集』エドガー・アラン・ポー創元推理文庫
 ある時期は海外ものしか読みませんでした。ファンタジーの走りの翻訳もの、海外の民話が好きでした。このポーは手塚マンガで読んだ月世界旅行記(ハーバート・ジョージ・ウェルズ著)と共に出て来たので興味を引かれて読んだのでした。ホラーなショートストーリーが特に良いです。ゾクゾクします。彼は女の髪の毛について、(特に色に)関心があったみたいですねえ。ゴシックホラーとか、シャレの効いた小話風な物語とかもあるし、何しろホームズ& ワトソンの元ネタらしい『オーギュスト・デュパン』(名前はルパンか!)の出てくるモルグ街の殺人は今読んでも面白いと思う。
 そしてこのポーの小説が『世にも怪奇な物語』というオムニバス映画になってますが、雰囲気と映像の映画?って感じでした。古いから特にそう思うのかも。とにかく当時の監督の感性がバリバリ入りまくってる。
第一話「黒馬の哭く館」第二話「影を殺した男」第三話「悪魔の首飾り」は特にフェデリコ・フェリーニの脳みそ逝っちゃってる系の人の世界観がバッチリ出てる。奇形な、というか不安定で人の心に心配と恐怖を煽り立てるような世界。第二話もアランドロンがサイコパス野郎を熱演してるんで面白いかも知れません。ちょっとエロいし。

『巴里の憂鬱』ボードレール新潮文庫
 詩集というか、ショートストーリーです。楽しめる読み物ですよ。(まあ、散文詩なので軽い読み物って感じですね。実際本も薄いけど…)噴火獣(シメール)やジッグラドなどちょっとオカルティーな言語が出てきてワクテカしながら読みました。ほのぼの系ではなくアイロニーが込められた寓話、と考えてもらえると大体の本の雰囲気がわかると思います。

『恐るべき子供たち』コクトー、角川文庫
『禁じられた遊び』ボワイエ、角川文庫
『午後の曳航』三島由紀夫、新潮
 これは私の中で子供たち3部作のその2という所です。共通のイメージとしての死がテーマです。一見無関係な様で、有事の際には一番割りを食らってしまうのが子供と相場が決まっているのだから、あながち的外れでは無いのかも知れません。大人不在の社会。それは昔からの事、だが昔は働く場と家との距離も近しく子供側も納得させられる理由もあった。今は、大人になれない人々が子供の存在を否定している、と思われる。自分がいつまでも守られる立場でいたいから。
★恐るべき--。幼少期の強烈な印象を持ったものは、長じても影響を与えられたまま、あとを引くものだということ。と大人になっても子供みたいだと碌な事にならない、という事だと思う。
★禁じられた--。映画がロマンチックすぎる。自分の住んでいる所から、ほんの数キロ離れた場所が戦場で、でも自分は平和だとすると、人間は何を思いどういう行動を取るのか?だけど、多分ほとんどの人が無関係だからと普通の生活を送るよね?でも、戦火に晒された人たちは逆にどう思うのか?そしてそれが子供だった場合は?というような事と。(ネタバレ)子供達がお墓遊び、などに没頭していた場合、大人はどう教育してあげたらいいのか?だよね。
幼児が外出先で、初めて障害者を目にした時に言った言葉に対して、どう対処するのか?に似ていると思う。正しく教えないとダメな案件だからである。
★ 午後の曳航- -。これは映画が先でした。土曜の午後に放映していた映画で、なぜか外国映画だったんだね。池田満寿夫の映画もイタリアだっけ?これって今は放映できるんだろうか?相当ヤバイ内容だと思う。倫理的に。ネタバレ上等だから言っちゃうけど、母親= 未亡人、の情事を覗き見する少年。だからもちろんそういう大人の男女関係(R15だと思う)も描かれている。そして少年が普段属しているグループ= 遊び友達がいる。けど、その集団では解剖にハマってるんだね。もちろん最初は動物= のら猫を捕まえて解剖(はい、ここでアウトー!動物愛護協会が多分激怒する)結局は、母親の情事相手を侮辱された(覗き見を見つかったが叱ったりせずスルーされた)その罪をつぐなわせるとか言って少年法を持ち出して、罪にならないことを確かめた上で解剖。なんとも小賢しい。でもコレが書かれたのは昭和38年だってさ。すごいね、さすが三島由紀夫!
 しかし、子供たちのようなまだ倫理観・道徳観が未熟な者たちが集まると、とんでもないことに発展するよね?止める大人がいないとダメだということ。目を光らせないと、ただ側にいるだけでは案山子だよ。蝿の王という話もそういうのが主題なんだけど、実社会でもあるあるだと思う。今度そのあるあるについてはいくつか例を上げたりして詳しくやってみたいと思ってます。


『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック、ハヤカワ文庫【ブレードランナー原作】
 映画版はまず世界観に圧倒されます。中華的な原色の電光の町並みはアジア的でありながら、近未来を雑多に目まぐるしい世界として描き、そこに内包されるデッカードが存在し、その華やかな世界の裏の顔としてのアンドロイドが存在しているのです。映画での主人公はともすればアンドロイドとも言えなくは無いけれども、原作の主人公はデッカードであり人間です。というのも、本で描かれているのは荒廃した未来、衰退の一途を辿る生き物達。人々は放射能汚染に怯えいつ不適格の烙印を押されるか恐々とする毎日。挫けそうな心を機械によって転換し、テレビで気を紛らす。寂寥感のみが支配するそれはまるで、死とは沈黙なり。と言っている世界。そして、デッカードはそこで生きている。人工生命体は平気で狩る癖に、天然の生き物の命には法外な値が付いていて、人はアンドロイドでは無い証明とステイタスシンボルで、それらを買い飼っている矛盾ともとれる世界。結局、もう滅亡とわかっていても人間は意識の優先順位は変えられないのか。それこそ、の結末の未来なのだろうけれど。妙に引き付けられるのはリアルだから、とは思いたくない物語です。

『バビロンを夢見て』リチャード・ブローティガン新潮社
 謎だらけである。まず、探偵が冴えない。謎も事件も何一つ詳らかにはされない。でも、私が驚いたのは私がバビロンの住人である事がわかったためである。
この本の解説に主人公は、不在の探偵とあったのを見てずっと心に残っている。華々しく活躍する探偵たちは、戦場で戦っているがその不在の間をこの主人公が活動しているのである。活動である、活躍ではない。なぜなら、依頼(死体を盗む)も不十分というか余計な死体を抱え込んで始末に困る結末。未遂行なだけでなく、自ら窮地に陥っているのである。だから冴えない。けれども、主人公は白昼夢で異世界のバビロンへ(心だけ)転移する、という何ともへんてこな(おそらく脳の障害。そのために徴兵も免れたのだろう)独自の世界を持っているが、それは現実を悪くすることはあっても、役立つことはまったく無いのである。

『グローリィ(上・下)』ジャック・カーティスハヤカワ文庫
 サイコ・スリラー・サスペンス、前作の"カラスの審判"がタイトで話的にやりきれない部分が残っていたのに対し、テンポが良く一気に読める上に、納得できる結末もちゃんとついている。ハーレクインっぽい感じで、結構娯楽になりました。
 後付けで解説もつけようと思いましたが、内容がうろ覚えです。特にカラスの審判は読んだはずなのにあんまり内容が気に入ってなかったらしく、まったく覚えていません。
 グローリィは最初から引き込まれます。男が目の前にいるのに透明人間のように、見えず次々と女性たちが殺されていくのです。それを解決する、という話ですがハーレクインぽい、ということはヒーローとヒロインがラブりながら犯罪を解決してめでたし、な話だったのだと思う。今度、買うか借りるかして読み直すわ。(読んだら解説は増えるかも知れません)