| このページでは柳田先生が民話を考察したものを読んで、私が考察したことを書きます。
思いつくままにどんどん追加していこうと思ってます。できたところまで公開します。 | ||
| 【隠れ里】に関する考察
山深い集落で旅人が来るのは、吉凶のどちらか?と考えられていました。 彼はよそ者であり、その集団にとって何をもたらすのか?によって吉凶が決まったのでしょうか? いや、そうではないでしょう。 そのよそ者をその集団が受け入れる場合の、リスクとリターン、つまり危険と利益を秤に掛けて吟味して迎え入れていたことでしょう。 まず、山深いと言うことの意味ですが、立ち入りの難しさを意味しており、その集団の孤立化が懸念されます。 その独自の閉鎖性は、他の集団との交わりもエキゾガミイ(異種族婚)と呼べるまでになっていたかも知れません。 現代でも地域差の激しい場で育った者同士の婚姻の継続が困難であるのは、火を見るよりも明らかなことです。 それでもできるうちは、個ではなく集団的利益=労働力の確保、つまり子作りさえできれば目的は達成できたのでした。 しかし、閉鎖性ゆえに婚姻関係が親い者たちが続いた場合、起こりうる一番の危惧は、近親婚ゆえの子孫への優性遺伝病の発現です。 子は宝ですが当時にそう言いきれたのは健常児だった場合だけだったでしょう。 それ以外の子供だった場合は、家庭や共同体で養わなければならない存在=お荷物、と認識されたとしても無理はありません。 この事態を避けるためには、新たな血筋を入れるしかないのです。 そのために、旅人を招き入れる事もあったはずだと思うのです。 とすると、その旅人は新鮮な子種=宝をもたらす貴重な存在、まるで来訪神のように思われ、またそのように扱われたのではないでしょうか? 険しい山岳地をものともせずに分け入ってくるなら、その人間は肉体的に頑健であるのは、まず間違いないからです。 ここで折口信夫の、来訪神には来てもらいたいが、長く居られても困る、という一節を思い出します。 その通りに、お客様には福を貰いますがその見返りを十分に与えたら、もう用済みだからです。 旅する男が山の中で道に迷い、たどり着いた屋敷で良い思い=酒やごちそうや、女性の歓待を受ける、などの昔話=いわゆる隠れ里、と呼ばれるものはあるいはこのような事実が隠されているのかも知れません。 そしてこれとはまるで逆な、金を奪われる六部殺しは、僧侶が女性を禁止しているため女性との交わりを拒否したためと考えたら恐ろしいことです。 拒否すれば殺されるのは口封じか?そして金を奪うのは子種の代わりの代金なのかも知れない、と考えたらです。 生かして外に出したら悪く言いふらされて、新しい男が来なくなるのを恐れたとも考えられます。 歓待してお互い納得づくだったとしたら、喋ったとしてもお伽の国の楽園のように良いように宣伝してくれるからです。 それが語られる隠れ里の一つの姿ではないだろうか?と私は考察するのです。 「隠れ里」収録 一つ目小僧・その他 下巻 | ||
| 【座敷わらし】に関する考察
では、待ち望んでも外から誰も来なかった場合は、小さな共同体であろうと労働力は確保しなければなりません。 当然何代かそういう交配を続けると、不具合が起こります。 前述の優性遺伝病の発現です。 多少知能が遅れていても、素直に働いてくれれば目はつぶったかも知れません。 しかし、頭ではなく体に異常を持って産まれた場合はどうでしょう。 いらない子、厄介者、だからと言ってすぐに殺すとは限りません。 似ているのに、姥捨てなど老人を山に捨てる、と言うことが知られていますが、こちらは自分で貧しい家の厄介者と認識して自ら死をも受け入れなければならない、と言う覚悟をすることもできます。 ですが、子供の場合は?そんな覚悟ができる子供などいないでしょう。 子供というものは、騒がしく大人の言うことを聞かないのが本質だからです。 そのようにできているのです。 私も小さいうちから大人しくて言うことを良く聞く子は早死にする、と大人から聞かされたものです。 それぐらいの寛容さがあるのが、本来あるべき大人の姿なのだと言うことでもあります。 話はそれましたが、覚悟ができない子供を死に追いやる(殺す)とどうなるのか?ですが、祟る、がその答えです。 おそらく、続けて殺して良くないことがそれに連続して起こり、祟りを恐れたのでしょう。 むやみに殺さなくなった代わりに、自然に弱って死ぬのを待つようになったのでしょう。 座敷わらしのその種類が書かれている石神問答は、遠野物語のようなどこか幽玄の世界をぼんやりと眺めるような世界観ではなく、もっとおどろおどろしい、まさに祟りもありなん、と言う世界観に彩られています。 化け物、妖怪、そうとも言えるような座敷わらしの描写は、そう言う不具者を殺した末の怨念に満ちた姿に酷似しているのではなかっでしょうか? だから私は石神問答に書かれた、決して遠野物語には載せられないような、異質でおぞましい話が本来の姿を示しているのだと思います。 ただの貧しい間引きではない結果の座敷わらしは、國男が茨城の土地で見た子供は男女二人だけと言う判で押したような家族構成と、そうするための子殺しの様子を描いた絵馬を見たときの衝撃と似たようなものを感じたに違いないと思います。 だから遠野には載せられなかったのです。 「石神問答」書簡二十三と二十四より。収録 箋註:石神問答・下巻 | ||
| 【喋る魚】に関する考察
話は二通りあります。 一つは日本ばなしにあった「イワナの怪」そのままのお話。 では、なぜこれが人の心に恐怖を呼び起こすのか?です。 それは人間だと思っていたものが、そうではなかったこと、に対する恐怖に他なりません。 人はなぜ動物を恐れるのか?は言葉つまり意思が通じないから、です。 そして、人のような複雑な考え、気持ち、つまりは心などない、と思うからこそ平気でそれらを殺せるのです。 それ(魚)が化身して、人間と同じ心を持っていると教えられたら、今までのこと(殺したり食べたり)を後悔しないでいられるでしょうか? しかも、頼みを聞くふりをして殺したのだから、これは祟られても仕方ないと考えてしまうでしょう。 祟りとは何か?と言うと仕返しのことです。 自分の行いに恐怖すること、自分の行為を自分がそのまま受け取るかも知れないと言う恐怖、自分が悪人だと認識させられるが祟りの本質だと思います。 だから何か悪いことが起こるとしたら、それは自分が引き起こしているだけでしょう。 悪は罰せられる、と言うのは誰もが子供の頃から教えられた意識だからです。 しかし、考えるとこれは魚がそのまま喋っているわけではないので、話す魚という話とは少し違う気がします。これはいわばただの因縁話です。 そこでもう一つの話す魚の話になるのですが、これも柳田先生は沖縄の民話にうまくたどり着いていますが、私はもう一つ前段階があるのでは?と思うのです。 この話す魚そのものが普通の魚ではない、と言うところまでは同じですが、ではどんな魚なのか?が問題になってくるのです。 魚が喋るはずがない、のです。そう、話ができるのは人間でしょう。 もうお分かりですね。人魚です。 そう言う話が石垣島にあったのです。 先生は世界中に話す魚の話はある、と言います。そして人魚の伝説も世界中にあります。 この話す魚の正体は人魚のことだったのでは?と私は思うのです。 人魚と言っても、本当にそんな異形な存在があるかどうかはわかりません。 ただ、海洋民族はイレズミをしますから、イレズミの模様が鱗っぽかったの知れませんし、それを見た人が大げさに魚のような人と言ったのが人魚に変わったのかも知れませんし。 ただ、魚が話すよりも人魚のモデルになった海洋の種族が、話す魚のモデルになったと考えた方が、スッキリすると思うのです。 「魚王行乞譚」「物言う魚」収録 一つ目小僧・その他 下巻 | ||
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