目次へ


『臥薪嘗胆』好きですねえ。この言葉。私の『座右の銘』にしてしまうとかなりな事になるので、そうはしませんけど。これ高校の漢文の授業で習いました。読めますよね?でも、中学生の人の為に読みがなをお教え致しましょう。(ノまあ、後ほどね)では、これを御存知無い方や忘れてしまった方の為にどのような故事であるかの解説のはじまりはじまり?
昔の中国の春秋時代の事です。
数ある国のその1つに 呉(ご)という国がありまして、 闔閭(こうりょ)と言う名の王が支配しておりました。
この国は富国強兵(=国を豊かにし兵力を増強すること。国の経済力・軍事力を高めること。日本の明治政府の基本政策の1つ)を地で行く様な国でした。
そして、ここにもう1つ 越(えつ)という国がありました。
王の名を句践(こうせん)と言い、この国もナカナカどうして呉に負けておりません。
なので当然のごとくぶつかりあう日が訪れました。
しかしこの戦いでは呉が破れ、闔閭はその時に負った傷が元で死んでしまいました。呉の国の皇太子である 夫差(ふさ) がその後を継ぎました。
が夫差は父の仇討ちをするべく、その憎しみを忘れる事の無い様にと、 毎日薪(まき)の上に臥(ふ)しその痛みを憎しみに変換しておりました。更に通りがかった者に『あなたの父上を殺したのは 憎き句践。そしてその身体の痛みはあなたの父上の受けた仕打ちです。決してその事をお忘れになりません様に!』と声を掛けてもらい増々憎しみの炎を燃え上がらせておりました。
それから数年後、今度は逆に越が呉に攻め入って来ました。今回は憎しみに燃える夫差が見事にこれを打ち破りました。負けた句践は会稽山(かいけいざん)に逃げ込みました。 しかし『ここは、命あっての物種。生きていればまた逆転も可能です。潔く降伏致しましょう』との 臣下の范蠡(はんれい)の言う通りついに降伏しました。
しかし夫差の臣下である伍子胥(ごししょ)は『あやつを赦してはなりませぬ!!』と強く訴えました。なので句践は呉の国の他の大臣にワイロを渡してようやく赦してもらったのでした。
越の国へと帰った 句践は部屋に苦い胆(きも)をつるし、毎日それを嘗(な)め、屈辱の苦い思いを味わったのを忘れない様にしました。 句践は国力を盛り返してゆきましたが、勝った 夫差の方はすっかり越の事など忘れて北方に勢力を伸ばそうとしておりました。
伍子胥はこれに対して意見を進言致しましたが、よかれと思ってした事が逆に身を滅ぼす事になりました。臣下の手痛い口煩さにキレた夫差は伍子胥に自決するようにと言い渡したのです。それを告げられた伍子胥は、使者に言いました。『私の墓に梓(あずさ)を植えて下さい。ゆくゆくはそれであのお方の棺を作る事になりましょうから。そして、私が死んだらこの目をくり抜き家の東の門に置いて下さい。私はこの国が越に滅ぼされるのを見届けなければならないのです』と言い残し自決しました。
間もなく再び越の国が呉に攻め込んで来ました。 結果は伍子胥が言った通りになりました。 夫差も 降伏しようと使者を送って命乞いをしましたが、句践の臣下の范蠡が夫差を許さないようにと強く進言したため、夫差は自決し呉の国は滅びました。
この故事から『臥薪嘗胆』とは報復を成し遂げる為のテンションを下げない様にわざと辛い目に会って耐える事。もしくは、ある目標を成し遂げる為に苦労に耐え忍ぶ事、として使われています。
これは『がしんしょうたん』と読みます。
★私がこの故事より考えさせられた事★
その1 
『 一念岩をも通す』って事だね。
うん、人間の執念ってすごいな?。
「虎」と「岩」を間違えて矢を射たら、矢が岩を通ってしまったという、これも故事らしい。
岩だと判っていれば無理だと始めから諦めるだろうが、虎だと思って是非とも仕留めたいと思ったのならその一念によって、岩だろうが虎だろうが射抜く事が出来るのだ、と言う事ですね。意志の強さと言うか力を感じます。まさに、その通りでしょう。何事にも(勿論恋愛などにも)十分応用出来ます。が、悲しいかな人間は油断と言うか、緊張状態の持続はかなり難しいのです。これはストレスになるからです。いつもそう言った執念を持ち続けるのは実は脳に良く無いのです。なのでこれは防衛本能とも言えるのでしょう。それゆえ、もしいつまでもこの強い気持ちを持ち続けられればどんな願いだって叶わないはずが無いのです。特に効果的なのが恋愛です。これで失敗するとすれば、それはマイナスイメージという余計な思い(よって一念ではなく雑念)が入った状態であるか正しくない思い(相手の喜びを無視した自分勝手な思い)だからです。もう、だからそれだけを考える。=どうしてそうする(愛したい)のか?なぜそうしたいのか?相手を幸せにさせるには自分は何をしたら良いのか?それだけを考える事。これは狂気に近いから人間の限界にも近いです。まるで自己の鍛練や修行に似ています。荒行・苦行と行って差し支えないのかも知れません。報酬は相手の好意(笑顔)それだけを望むのならうまく行くでしょう。ナカナカ難しいですね。そしてだからこそ、これが人を恨んだり憎んだりする方向に持って行かれると、(悲しいかな、心の弱さがそうさせ易く、その状態の方が持続してしまう)精神が汚染されるのです。結果、自分の闇に自分が呑まれてしまうのです。


その2
馬鹿な上役や会社(この場合君主や国家ですが)に就くと大変だな?という事。
しかもなまじ先見の明があると煙たがられるって事かな?大体人間は始皇帝の場合もそうでしたが、絶対的権利を手にすると何でも叶う特権も持ってる気になる訳です。で、技術とかそんなものも自分のモノにできなければそれを持つ一族を根絶やしにする事も厭わないんですね。ホントならその知恵っていうか技術みたいなものは国家とか人類の財産って思うのが当前と平民である我々は思うでしょう?しかし、彼等権力者は違います。何とか自分の為に使わせるなら未だしも、言う事を聞かないとなるとすぐ抹殺です。技術者も人だし、人より優れているという自負もあるでしょうから自尊心をくすぐられたり懐柔されれば何とかなりそうです。しかし、高飛車な権力者は違いますね。なければ誰も使えないから惜しくないんです。従わなければそれまでです。でも場合によっては、自分は散々使ってその後(自分の死後)他の人に使われるのがイヤだからという理由での抹殺もあります。何ともバカバカです。そんなのに仕えなければならないのは悲しいですね。だから、少しでもそう言う有能な能力者達の気を掴める様だったら、それはもう名君。そして誰か1人の臣下がうまく権力者に言い包めてそういう方向に持って行けたらその場合もその権力者は名君。やってる事は滅茶苦茶だけど不思議と結果オーライならそれでも名君。・・・紙一重だねぇ。人の世は。


その3
成就しても油断するな、と言う事。
人間とは目標を達成したら、もしくは達成しそうだとはっきり見通せたら次を見定めなくてはダメだ、と思いません?それが確かに一大事業であったとしても、結果(成功だろうが失敗だろうが)が出れば過ぎた事。もう、次を決めなくては成らないのです。一事を達成して満足して燃え尽きてはいけないのです。なぜ、その一事を大事に達成できたのか?達成したいと思ったのか?その先に何があると思ったから達成したいと願ったのか?を考えるべきなのです。実は人間の行動の成否はその先にかかってくるのだと思います。達成してそれがどの様に人の役に立つかですね。自己満足だけでは限界があります。そして、天が与えた才能を眠らせてしまい込んでいる者は罰が与えられます。満足して先に進むのを怠ってはいけません。天はその人に特別に与えてくれたのにそれを無にするのはいかがなものでしょう。望んでも与えられない人だっているはずです。その人に申し訳ないでしょう?などと考えて、常に自分を磨く(魂を)のを忘れてはいけないのです。常に邁進して下さいませ。



目次へ