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安倍晴明が人気の様ですね。
最近読む本の中によく出て来るので、ちょっと調べてみました。
彼は讃岐(香川県)の生まれとも言われ、よく『母親が人ではなく狐であった』などと言います。
式神(鬼神の様なもので=アラジンの魔法のランプの精の様な感じか?)を操って色々な仕事をさせたとか、晴明の奥さんがそれを怖がって屋敷から追い出したとか、話が伝わっています。
一説に寄ると、その式神もある種の人々を差していたのではないか?と、推測されています。使役夫であるとか、異能集団であって、晴明はその力を借りる代わりに彼らを保護したのではないか、と言う事らしいです。
そして、晴明は陰陽道の土御門家(つちみかど)家の祖とされています。
しかし、私が彼について知っていたのは、あの忌ま忌ましい古典の授業で習ったからに他なりません。
『瓜の毒を当てる話』です。

【知らない人の為に】
ある夜、晴明が夜空を見上げていると異変が起こっていた。それを読み取った晴明は翌朝、時の権力者である"藤原道長"の元へと使いをやった。道長は晴明から「今日お宅で異変が起こります」などというトンデモナイ手紙が来たので、仰天してすぐさま家の門を固く閉じ、その道の達人を呼び集めた。
その面子は武将の誉れ高い"源頼光"、名医の"丹波忠明"、法力優れた僧正"勸修"、そして陰陽師の"晴明"であった。
まず、晴明が占うとどうも贈り物の瓜の一つが怪しいと言う。
そこで 勸修が呪言を唱えると、瓜の一つが激しく動き出した。
忠明が進み出て瓜に2本の針を刺すと、瓜の動きは止み、
それを頼光が刀で断ち切ると…
中からは、目に針の刺さった蛇がまっ二つに頭を刎ねられて出て来た。
これは、それぞれの達人が見事な技を披露して道長を助けた物語、なのである。
しかし、登場人物の歴史的な年代が合っていない事から、これは後の人の作り話らしいですね。
で、一つ気付きません? 『晴明が夜空を見上げていると』の部分です。
実は彼の肩書きは陰陽師の他に、天文博士と言うものもあるのですね。
と言うのも…
〜良く判る陰陽道(おんみょうどう)〜
陰陽道とは、古代中国の陰陽説(いんようせつ)・五行説(ごぎょうせつ)に基づいた信仰的思想の事である。世の万物は全て"陰と陽"="プラスとマイナス"で構成されており、物質は"木・火・土・金・水"の5元素の形態が流動しているにすぎない。と言う説に基づく、むしろ本来は自然哲学ないし自然科学の分野だったのだ。
従って、晴明は分類上は科学者なのである。
そして陰陽道の得意とするのが、この説の解釈による先読み、=未来の予知なのである。その方法として、天文や暦が用いられたのである。←天文博士
しかし、現実の陰陽師は招福除禍の目的で活動したので、呪術的な面ばかりが強調されてしまったのだ。
尤も、陰陽師自体がわざと恐怖を演出し人心に付け込んだ部分もある様ではある。
今で言うカリスマな人物像を作り上げたのだろう。
この辺は今の占いブームと少しも変わらない。
それは人が今も昔も大して変わらない事の証明でもありそう。
そして彼が誰からこの陰陽道を習ったのか?
今昔物語に出てました。
賀茂忠行(かものただゆき)・保憲(やすのり)父子に師事した様です。
賀茂家=勘解由小路流(かげゆこうじりゅう)
安倍家=土御門流(つちみかどりゅう)
本朝陰陽道の二大勢力である。
彼=晴明の出ている文献としては、
『今昔物語=こんじゃくものがたり』『古今著聞集=ここんちょもんじゅう』 『宇治拾遺物語=うじしゅういものがたり』があります。
などと書くとホントゲンナリするでしょ?
だけど何の事はない、これって(当時の人が)あちこちで聞いた面白おかしい話、不思議な話(幽霊だとか、鬼だとか)、イソップみたいに寓意のある話、を集めた本で、今読むとうさん臭さ爆発の物語集なのだった。
だから、結構笑えるよん。
また、その中のほんの1つか2つ晴明に付いて書かれてるわけなんだけど、他に収録されている話が話=相当ぶっ飛んだ話ばかり、なんで、そんなに取り立ててすごい話には思われないんだな。
前述の晴明の出自にしても、これを読んだ後では「さも、ありなん」てトコだね。
昔の人ってどこまで本気かわからないよね。案外こんなのは気楽な読み物で、ホントはそういうのも有り得ないって、知ってたのでは?昔は娯楽も少ないから。

--今昔物語から-- 第二十四巻
安倍晴明随忠行習道語第十六(あべのせいめいただゆきにしたがいてみちをならうだいじゅうろく)
今は昔、天文博士の安倍晴明という陰陽師がいた。
古の大家に負けず劣らずの腕前を持つ、優れた陰陽師であった。
それと言うのも、幼い時に賀茂忠行(かものただゆき)に師事し、夜も昼もなく、修行に勤しんだお陰であった。それゆえに、実力も少しもゆるぎのないものになったのだ。
晴明がまだ若かった頃、師の忠行が夜更けに下京の辺りへ出掛ける事になった。晴明もこれに同行することになった。忠行は車の中で寝てしまったが、その後を歩いていた晴明は前方から"物の怪"それも何とも言えず恐ろしい鬼共がやって来るのを見付けた。すぐに師の車の後ろに駆け寄って、忠行を起こしてそれを告げた。忠行も驚いて飛び起き、見るとなるほど鬼共がやって来るのが目に入った。直ぐさま呪文を唱え、自分と供の者達の姿を鬼から見えない様にし、通り過ぎるのを待った。
こうした事から、晴明は忠行に一層目を掛けられ、あれこれと技を教わりその道の大家となったのだ。
その後忠行は死んでしまったが、晴明は土御門大路(場所名)から北、西洞院大路よりは東の位置に居を構えていた。ある日晴明がその家にいる時に、年寄りの僧侶が訪ねて来た。見ると、お供に10才位の子供を2人連れている。「あなたはどなたですか?どこから来たのです?」と晴明が聞くと、「儂は播磨の国に住んでおります。実はいささか、陰陽道と言うものに興味がありましてな。そこでご高名なあなた様に少しでもお教え願えれば、と思うてやって来ましたのじゃ」と言う。
しかし、晴明は考えた。
『こんな事を言っちゃいるが、この坊主、飛んだ食わせもンだぜ。どうやら俺を試しに来たらしいな…。しかし、ここで下手な事になれば俺の名折れじゃんか。うーむ、よし、ここは一つ逆手に取ってやるか!……この坊主の供をしているガキ共は式神が化けているに違いない。<もし、式神なら直ちに消え失せろ!!>』と念じつつ低く呪文を唱え、袖に両手を隠して印を結んだ。
そして、晴明は何食わぬ顔で法師に言った。
「承知しました。しかし、今日はあいにく所用がありますので、本日の所はお引き取り頂いて後日改めて 、と言う事でいかがなものでしょう?」
すると法師は喜んで「おお、それはありがたい」と言って
両手を擦り合わせ、額に当てて(注:昔の人の感謝のポーズらしい)立ち去った。
「もう、1、2町(距離)は過ぎた頃か…」と晴明が思っていると、法師が舞い戻って来るのが見えた。しかも人が隠れていそうな所をのぞきのぞきやって来る。そして晴明の前に来ると、「いや〜、供のものがいなくなってしまった。…晴明殿、どうかお返し下さらんか?」と言う。
それに対し晴明は「変な事を言いますな?この晴明がお供の子供を隠したですと?そりゃ一体どう言う事です?」
と平然というので法師は降参して「それはごもっともでござりますなあ。儂の負けですじゃ。しかしどうか、お許し願えませんかな?」と詫びたのであった。晴明はこれを聞くとやっと、「よしよし。爺さん、式神など使って人を試そうとするからこういう目に合うのだ。他のやつならいざしらず、この晴明を謀ろうとは…」と言って再び袖に手を入れて呪文を唱えた。
すると外から子供が2人走り込んで来て、法師の前に姿を現わした。
「いやはや、面目ない。あなたのご高名を聞き及び、つい『試してやろう』などと思ったのが間違いの素でした。しかし、昔から式神を使う事はそんなに難しくはないのだが、人の式神を隠す事などと言う事は聞いた事もありませんぞ。並み大抵の法力ではありますまい。ぜひ、これからは儂も弟子の1人に加えて下さらんか」と言って、すぐさま自分の名札(=弟子入りの申込み用紙、住所、氏名、年令、生年月日など記す)を書いて差し出した。
また、この晴明はある日広沢に住む寛朝僧正(かんちょうそうじょう)と言う人の所へ訪ねて行ってあれこれ話し合っていると、若い公達(きんだち=貴族の尊称)や僧がやって来て、晴明にあれやこれや質問を始めた。「あなたは式神を使うそうだね。それを使って人を殺す事もできるのかな?」
と聞いたので、晴明は「そんな私にとって秘儀中の秘儀の様な事を、軽く聞かれちゃ困りますな、…。ま、そんなに簡単にコロッとはいきませんが、やろうと思えば出来ますよ。現に虫なんかは造作もないことですし。しかしね、私ゃまだ生き返らせる事が出来ないのでね、やらないんですよ。第一、そんな罪な事は可哀相でできんでしょう。殺生がいかに罪な事か--」と話している最中にたまたま蛙が5・6匹池の方に向かって飛び跳ねて行くのが見えた。
その公達が「じゃあ、できるならそんな事言わずにぜひ見せて下さいよ。アイツを一匹でいいから殺して見て下さいよ」としつこく言うので晴明は
「やれやれ、あなたは本当に罪作りな事を平気で言うお人だ。しかし、この私を『試そう』という言うのなら致し方無い…」
と言って草の葉をひきちぎり、呪文を唱えつつ蛙に向かって投げ付けた。すると蛙はぺちゃんこに潰れて死んでしまった。
僧達一同はこれを見て真っ青になって戦(おのの)いた。
この晴明は家に誰もいない時には式神を使っていたに違いない。
なぜなら、人もいないはずなのに蔀戸(しとみど=昔の雨戸)がひとりでに上がったり下がったり、門も閉じたり開いたりしたからだ。こんな風に不思議な事が度々起こった様である。
その子孫は今も朝廷に仕え高い位にいる。その土御門の家も代々受け継がれ、つい最近まで式神の声もしていたそうである。
この様に晴明はただ者ではなかった、と言う事だ。そう語り伝えられている。
おわり----私の訳。でお送りしました----
どうやら、晴明さん。プライドが高くて試されるのがお嫌いの様ですね。う〜〜ん、ぐれいと。実際はどんな人かわかりませんが。確かに"ただもん"じゃなさそうです。
そして、晴明神社というのが京都の堀川一条にあります。彼の著書としては、『占事略決』というものが唯一現存確認されたものだそうです。


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