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第二回は剣豪について書こうかナ、と思っていましたが、"三種の神器"(さんしゅのじんぎ)についてちょっと調べてみました?。そもそも、三種の神器の持つ意味を正確に知らなければ何もなりませんね。三種の神器とは、『天皇の位を示すものとして、代々の天皇家に伝えられて来た"宝物"の事』です。言い換えれば、これを持っているからこそ、天皇であると宣言できる"証拠の品"とも言えます。で、その種類ですが、三種類あり
1.八坂瓊曲玉
(やさかにのまがたま)
別名八坂瓊五百箇御統
(やさかにのいほつみすまる)とも言う
やさか、は"や・さか"であり、"や"はたくさん、の意で"さか"とは古代の長さの単位で、やさかとは即ち"とても長い"と言う意味です。長い緒(緒とは、細い紐の事です)に通した曲玉の事であると言いますが、私は大きさもとても長い(大きな)曲玉の事だと思います。これは皇居に祭られています。しかし、ものの本の中によると、人の飼っている犬が獣を襲った時、その腹からこの八坂瓊曲玉が出て来たので天皇に献上した、という記述があるので、もしかしたら一時紛失した(盗まれた?)事があるのかも知れませんよ。(って、危ない発言!! )そして丹塗り?みたいな色と言う事らしいので、この玉の色は赤い色の様です。同名の八坂神社(やさかじんじゃ)というのがあります。祭神は勿論スサノオです。

2.八咫鏡
(やあたのかがみ)
これも"や・あた"に分かれ、"あた"は古代の尺度で親指と中指を開いた幅を意味しています。これも大きな鏡の事でしょうか。古代では単純に大きくて立派なものを所持しているのは権力者の証だったのでしょう。しかし、一説には、(八頭)やあたの約で突出部が8つある事を意味しているとも言います。八つの出っ張りの付いた形の鏡の事かも知れません。これは伊勢皇大神宮(いせこうたいじんぐう)の御神体です。

3.草薙剣
(くさなぎのつるぎ)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東国遠征の時、賊の計に掛かり火攻めにあった際にこの剣を使って周囲の草を薙ぎ払い、反対に迎え火を起こして難を逃れた故事からこう呼ばれました。また、この剣は素戔鳴尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に(なお、この時、素戔鳴尊が八岐大蛇を切った剣は蛇麁正=オロチノアラマサ或は天蝿折剣=アマノハハキリノツルギとも呼ばれ、後に物部一族=モノノベイチゾク、が御神体として石上神宮=いそのかみじんぐう、に祭ります。物部一族面白いです)この化け物の尾から出て来た剣、天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ=この剣の名前は八岐大蛇の上にいつも雲がかかっていたため)と同じ物とされています。これは田神宮(あつたじんぐう)の御神体です。八岐大蛇は一説によると『や・あた』のおろちではないか?とされていますが、それは長さの事ではなく形状の事ではないかと思われます。つまり指二本使ってひとあたとすると八あたならば指は九本です。指をおろちの首に例えるとすると九個の頭を持つおろち=九頭竜と関連がありそうな気がします。
曲玉だけで、あとの本体2つは今でも別の所にお祭りしているみたいですね。(もっとも分霊が皇居に祀られているそうですが)一緒にしておくとまずい事でもあるのでしょうか?(畏れ多くて、別所に祭る事にした。ともありましたが)一番考えられるのは、"防犯上の理由"からでしょうね。しかしこう見ていくと、この三種の神器、どうも素戔鳴尊がポイントの様な気がしてなりません。剣は元々、素戔鳴尊の物です。鏡の形態がもし八つの突起の付いたもので、八岐大蛇を模している(八岐大蛇を退治した記念品として作った物なのかも)とすればそれを退治した素戔鳴尊に行き着くのではないでしょうか?もしかすると、八岐大蛇も何かの比喩である場合もありますね。(例えば8つの国を平定したとか)すると、天尊降臨(てんそんこうりん)『=皇祖神である天照大神(アマテラスオオミカミ)の邇邇杵命(ニニギノミコト)を始めとする天神が三種の神器などを持ち、高天原(たかまがはら)という天の国より下って、葦原中国(あしわらのなかつくに)=日本、を治めていた大国主命(オオクニヌシノミコト=オホナムチ)を始めとする国神を追い出しこの世の支配者となった。(しかし…今の世も天下り横行という点では神話の時代から少しも進歩がないですねえ。もっとも使い物になるかならないか判らないモノ、が幅をきかせてるのと一緒になんかしたら、神様が気を悪く為さるかも知れませんけど)この邇邇杵命が現在の天皇の始祖とされている』の神は素戔鳴尊の後任に任ぜられた者と言う意味にも取れそうです。"その証としての三種の神器"の様な感じがするんですが。皆さんはどうお思いになられます?


関連する神社名 祭神など
八坂神社
京都市東山区祇園町

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祭神、素戔鳴尊。今も祇園祭で有名。祇園祭とは、西暦869年に全国で疫病が流行った時に平安京の庭園であった神泉苑に、当時の国数66ヶ国 にちなみ66本の鉾を立て、祇園の神(素戔鳴尊)を祭り、さらに神輿をも送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。ここで、なぜ 素戔鳴尊なのか?という疑問が出て来ますね。それは、1.素戔鳴尊が南海を旅した時に、誰も素戔鳴尊だと気付かずに冷たくあしらったのですが、蘇民将来(そみんしょうらい)だけは粟で作った食事を出してくれたりと厚くもてなしてくれました。それを喜んだ素戔鳴尊は、これからもし病気が流行った時には「蘇民将来之子孫也=そみんしょうらいのしそんなり」と記した護符を持った者だけは、病気に罹らない様にする、と約束をした。という故事から来ているそうです。しかし、素戔鳴尊は病気や、薬の神様でしたっけ?大国主命ならわかりますが…それに病気についても"治す"というのとは微妙?にニュアンスが違う様な…むしろ病気を除けるという感じ? 2.実はそんな事が出来るのは(…やっぱり素戔鳴尊は、◯◯!?だったのね?!!←な?んちゃって、ブルー◯ードの世界みたい)素戔鳴尊インドの祇園精舎=ぎおんしょじゃ、の守護神である牛頭天王=ごずてんのう、と"同一視"されていたためです。牛頭天王の役割の一つが"病魔退散"なんですね。


八坂神社です
伊勢皇大神宮
三重県伊勢市


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皇祖神をまつる内宮(ないくう・皇大神宮こうたいじんぐう)と産業の神をまつる外宮(げくう・豊受大神宮とようけだいじんぐう)から成り、単に「神宮」とも呼びます。他の「神宮」と呼ばれる所とは"格式が違う!"との事ですが、古くは石神神宮出雲大社熊野大社もむしろそれより古くから「神宮」と呼ばれている記述もあるので、それは少し疑問です。この頃は伊勢神宮ではなく、度会宮=わたらいのみや、五十鈴宮=いすずのみや、大神祠=おおかみのほこら、などと呼ばれていましたし。(なお御参りの際は外宮→内宮へ、という順序で行きましょうネ)内宮は垂仁天皇(スイニンテンノウ、第11代天皇この人ちょっと面白いです。がそれはまた次の機会に…)の皇女、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が鎮座地を求めて各地を巡幸の末に定められました。外宮…度会宮(わたらいのみや)や豊受宮(とようけのみや)と言う。祭神は豊受大神(トヨウケノオオカミ)=豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)。和久産巣日神(ワクムスビノカミ)の子で、天照大神の御饌(みけ=食事)を司ると同時に農業、産業全般を守護する神様です。不思議な事に、ここには天照大神の兄弟神である月読命(ツキヨミノミコト、ツクヨミともいう。月読の"よみ"は数えるの意で月を数える暦=信仰があった事も伺わせる。その他にも興味のある事が!!それもまた次の機会に…)までが、天照大神と同様に荒御魂(あらみたま)までもが祭られているのに、"いない"んですね。素戔鳴尊がどこにも…これは彼の本当の出自に関係しているのでしょうか?後述
熱田神宮
愛知県名古屋市熱田


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祭神、熱田大神とは、御神体の草薙剣そのものである。即ち"剣が神様"なのらしい。ナンカ???
"あつた"とは、元々"あゆた"であり、""は接頭語で""は湯""は田で、"水の湧く田"の意味。"あゆた"が"あた"になり、"あった"になった。なお、"あゆち"(=吾湯市)の""が""に変換され"あいち"となった。そして、市=地と田は同じ意味なので"あつた"も"あいち"も同所を示す言葉である。
-剣の来歴(ゆくえ)-
大蛇の尾の中
素戔鳴尊天照大神邇邇杵命(降臨の際に持参)東国平定の時、景行天皇(ケイコウテンノウ=オホタラシヒコシロワケ、垂仁天皇の子)の元へ来た日本武尊に倭姫命が御神託を受けて渡す日本武尊病死日本武尊の妻の宮簀媛命(ミヤズヒメノミコト)が占いで熱田の地に奉納した現在に至る
おまけ…島根県松江市、八重垣神社(やえがきじんじゃ)
素戔鳴尊が景色に感動して詠んだとされる有名な歌「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を(やくもたつ、いずもやえがきつまごみに、やえがきつくるそのやえがきを)」(意味: たくさんの雲の湧き立つ清清しい出雲の地に、家を建て幾重もの垣根を張り巡らせよう。私の妻を家に籠らせて独占するためには、たくさんの垣根が必要なのだ。そのたくさんの垣根を、ここに作ろう!)で知られる八重垣神社は、素戔鳴尊とその妻、奇稲田姫(クシナダヒメ=下記参照)が新居を構えた地とされ、この二神が祭神となっています。ここには奇稲田姫縁の池があって、コインうらない(もちろん、恋占い)が出来るそうですよ。なんともロマンチック、私も個人的にぜひとも行ってみたいです。
(おまけ)
Java Script による占い



解説、初心者の為の記紀よりのお話『素戔鳴尊』
素戔鳴尊の大蛇退治と草薙の剣…あんまり天照大神(アマテラスオオミカミ)の元で乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働いた為に、天界に居られなくなった素戔鳴尊(スサノオノミコト)は、仕方なく地上に降り立ちます。そこは新羅(しらぎ=今の朝鮮)の国でした。しかしその地が気に入らなかった素戔鳴尊は舟に乗りまた旅を続けました。そして、出雲の国(今の島根県 )の鳥髪と言う所まで来ました。ここで、川が流れているのを見付けますと、上流から"桃 "、ではなく"箸"が流れて来ました。『ははあ、この先に人が住んでいるのだな』と思った素戔鳴尊が先を行きます。すると、人家がありました。中には、老夫婦と一人の娘がいました。しかし、三人とも泣いています。「どうしたのだ?」素戔鳴尊が声を掛け訳を尋ねますと、その夫婦は「私たちは、手名椎(テナヅチ)足名椎(アシナヅチ)と申す者です。実は、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)という八つ頭を持つ大蛇が現れて、毎年娘を喰らってゆくのです。私たちには娘が8人おりましたが、最後に残ったこの子奇稲田姫(クシナダヒメ)までも間もなく大蛇に喰われてしまうので、悲しくて泣いているのです」とまた、さめざめと泣くのでした。「その大蛇とはどの様な化け物なのか?」と聞きますと、「目は酸漿のように赤く燃え、八つの頭と尾を持ち、その大きさは八つの谷と峰をまたぎ、体からは樹が生えているのです」という、と?んでもない化け物でした。ここで、素戔鳴尊は「もし、その娘を私にくれるなら、天照大神の弟であるこの素戔鳴尊が、化け物を見事に退治してやろう!」と申し出ました。身分を明かされた老夫婦は「ははーっ!!」とばかりに畏まり「娘はあなた様に差し上げます!」と一も二も無く承知したのでした。素戔鳴尊は奇稲田姫を櫛に変え髪に差しました。そして、樽に強い酒を並々と入れたものを八つ用意させました。そして大蛇が現れますが、まんまとこの酒を飲み酔い潰れて眠ってしまうのです。そこをすかさず、素戔鳴尊が剣を打ち下ろして首を刎ね、めっためたに切り裂いてしまいました。この時、大蛇の尾に刃が当たりこぼれました。不審に思って切り開いて見ますと、中から素晴しい剣が現れました。これこそが、天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)です。しかし、素戔鳴尊はこれを「自分が持つには恐れ多い品だ」と言って、姉の天照大神に献上しました。そして、いつしかそれが巡り巡って、熱田神社に御神体以上の存在として祭られる事になるのでした。( おわり)
(追記)素戔鳴尊はその出生の記述も他の日月二神(天照大神と月読命)が、左右の目から生まれたのに対し鼻から出た、とこの時点でもう区別されています。なお、素戔鳴尊の名は日本の地名の"須佐"の他に、新羅の巫覡王・"次次雄(ススン)"に淵源を持つらしいです。そして、インドの牛頭天王と同一であり、八坂の"社伝"では新羅の牛頭山に鎮座する素戔鳴尊を勧請(かんじょう=神仏の来臨を願う事)し、などとあるので、どうやら素戔鳴尊は渡来の神様らしいですね。それで伊勢皇大神宮に祭られていないのでしょう。そのくせ凄まじい力を持っていのですから、なかなか祭る者達も複雑なものがあるでしょうね。


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