目次へ


弟橘姫と八百比丘尼
生き返った女の物語
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と言うと日本のあちこちに彼の日本平定行脚の記録や史跡は腐る程残っているのだが、確かに都から兵が組織されドサ廻りwしていたのは間違いないのだろうが、全てが1人の人物によってなされたものであるというのには甚だ疑問である。それにハッキリ言って彼には興味が無い。←キッパリ。では、何に興味があるのか?と言うと、その后である弟橘姫である。弟=古語で若く美しい、かわいいなどの意味。
橘…今の京都御所に左近の桜(注釈*元々は梅)、右近の橘がある。雛人形にも飾られるがその通りこれは植わっていたその場所に左近、右近の陣を敷いたので便宜上そう呼んだのである。よって右近や左近はどうでも良い。大事なのは、桜と橘なのだ。桜と言えば木之花咲耶姫命(このはなのさくやひめ)である。桜の花が華やかにパッと咲いて散る様に人の人生は儚いと言うのを表している。では、橘とは…田道間守(たじまのもり)が垂仁天皇に命ぜられて探し出したとされる時じくの香の木の実=不老不死の食べ物、である。繁栄は約束されてもいつかは滅びる運命。何故なら木之花咲耶姫命と対で輿入れした醜女の姉を突き返したからだ。この姉姫こそが石長姫(いわながひめ)で永遠を司っていたのだ。突き返したからにはもう手遅れで、永い命の礎を失った為に別の方法で永遠を求めねばならなくなった。それが橘の実である。そしてそれを宮中に植えたのだ。桜の繁栄と橘の永遠性という呪術的な意味を込めて。注釈*桜は元々は梅だったのだが、梅は春の先駆けで咲く花なので人に先んずると言うのと,実をつけるので「子孫を残す」と言う意味で用いられていたが、地位が固まればその意味はあまり必要ではなくなる。その代わりに、繁栄子孫の為ではなく、自分の為の華々しい繁栄の為のものに変わったのだろう。橘も実をつけるので子孫までも変わらぬ地位でいられる様にとの事が、自分が変わらない権力の座にいられる様にと永遠を求める意味も変化している*
そして弟橘姫で思い出すのが、大国主の最初の求愛相手である夜神姫(やがみひめ)だ。月の信仰や命に関わる何かの力を持っていたと推測される姫だ。とすると、日本武尊の后の弟橘姫も何かあるのではないか?これに関連があると思われるのが、彼女の死の異説である蘇我比(め、は口偏に羊と書く)神社縁起である。日本武尊が東国へ遠征した時の事、神奈川から千葉に船で渡ろうとしたとき暴風雨に遭った。これを竜神の怒りであると考え、怒りを=海を鎮めるために弟橘姫は入水した。(一説によると日本武尊が乗船前に何か海の神に対して暴言を吐いた為に=注*どうやら内房だからか距離的には大変に思われなかったのか「こんな小さな海なら飛び越えてもいけんじゃん♪ラクショー」とか調子こいたらしい。でもって、海の神が怒って日本武尊ごと船を海底に引き入れようとしたのを弟橘姫が身代りになって許してもらったらしい)が、ここから異説→その後浜に流れ着き「我、蘇れり」と言ったので蘇我となったと言うちょっと不気味な物語だ。名前に橘が付いているので、蘇りの話もあながち見当違いではなく何かがある様な気がして来る。そもそも戦いの遠征それもいつ死ぬとも限らない旅に女連れで普通行くのか?である。技能的に遠征に必要な力、恐らく特別な秘術=医療技術でも持っていた=主治医として夫に付き従ったのではないかとも推測できる。彼女もまた命に関わる力を持つ人なのかも知れない。ちなみに蘇我の本当の意味とされているのは、単に蘇我氏の領地があった事に由来している、もしくは弟橘姫が身の回りの世話をしてくれる女官と一緒に入水したが、その女官の1人であった蘇我氏の娘だけがその地に流れ着き、奇跡的に助かったので蘇我氏が喜び蘇我神社になったと言うが、そうなると弟橘姫の伝説と五十歩百歩で張り合う位の胡散臭さだ。と言うかやはり蘇った?と言う所だけが合致してるのがやはり何かある気がして不気味だ。
仏教と人魚と八百比丘尼
仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年=6世紀)である。しかし、国家の宗教として民衆に強いて大仏や寺を建立して広め、流布されたのが大体奈良時代710年(和銅3年=8世紀)頃の事になる。人魚と言うものはそもそも仏教の説話に用いられたものである。俗に言う、因果応報の物語という奴だ。聖徳太子=仏教を信仰し広めるのに貢献したとされる人、推古天皇622〜の飛鳥時代に活躍していた、に関連する寺に人魚のミイラが安置されている。それは琵琶湖で漁業を営む男が、死後人魚となったのを聖徳太子が仏教に帰依させる事で救ったと言われるものだ。魚を殺生すると自分がその姿に生まれ変わるという輪廻転生の説話である。これは話だけよりもインパクトがあるに違いない。そのミイラを見せながら、殺生はいけないと坊主に言われれば、成る程と納得してしまうだろう。比丘尼=女の僧侶、の存在が確認されているのは奈良・平安時代からである。この八百比丘尼は熊野比丘尼の様なものではなかったのか?と考えられる。熊野比丘尼とは寺を持たずに全国を熊野権現の為の遊行をする=六道図(地獄絵図)や曼荼羅図等を見せて絵解きした、比丘尼達の事だが、室町時代特に盛んであったらしい。で、八百比丘尼の伝説が書き記されているのも、室町時代の文献『中原康富記』からで、その頃に現れた八百比丘尼は自称800才と言う事なので、逆算すると室町時代が1336〜なので6世紀頃だし、文献にも八百比丘尼の父親は唐との貿易を行っていた、らしいので年代的には辻褄は合う。しかし、八百比丘尼がその頃から800年も人魚のミイラを持ち歩き説法していたなどとは、勿論そんなに長く人間が生きる事は有り得ない(大学のプロフェッサも寿命は125才までそれ以上は身体が限界と言っていた)よって八百比丘尼自体は名のみの世襲制だったのかも知れず、『受け継がれた人魚のミイラ』がそれ位の齢であったと言う事なのだろう。ただしそれも自称800年前なのかも知れないが。八百比丘尼も全国を流れてこの因果物語を説法したのは、日本の各地にこの伝説が残っているので十分に有り得る話だ。しかし、それだけの役割であるかどうか?ここにも長寿というもの=寿命に関する何かが潜んでいる様に思われる。呪いや何かで各地の人々から寿命を延ばすと称して金品を得ていたか(中原康富記によると、800才と称する老女が自分を見せ物にしてお金を取っていたらしい)、当時としては高等な医術を持ち治療を施していたか。前者では方相氏的な役割に近いであろう。方相氏とは宮中で大晦日の日に鬼やらいする人の事で、今の節分の元となったもの。中国から伝わった。また方相とは仏教では石や木を用いて結界を作り修行場を作る事を言い、それから転じて疫病をもたらす悪鬼を弾く結界を作る人を方相氏と言ったのである。一種の儀式を執り行うシャーマンとしての比丘尼と言う訳だ。しかし、後者だとも考えられる薬草等の知識が半端ではなかったのかも知れない。定住しない僧と言うと山伏が連想される。彼らは本草学に通じていたのだ、その知識を比丘尼達も持っていた可能性はある。となると、やはり不老不死の薬があるのかも知れないと、人魚という幻獣を見せる事も合わせて民衆の支持を得ようとしたのではないか?と色々推測してみたのだった。

目次へ