フィールドワークっぽいものもしてみたいと思うが、地域限定の危険が高過ぎてやれないでいたりする。それに近くに変な?面白い?場所もある。が判らな過ぎ。そもそも古代人の考えって判らん。彼らの信仰の対象って何?アニミズムみたいな命とか魂への信仰?それとも生き抜く為の糧を得たい為の自然物への信仰?とにかくその縄文だか弥生だかの信仰の場があったらしく、それが後に神社になってる所がある。古式床しい神社であるが、雰囲気が異様過ぎ。異質過ぎ。好きで色々神社廻りしていると大体場の感じが判って来ると思うんだけど。ここは何だか良く分からない場所だ。って事で今回はあの世とこの世の狭間を縫って行き来していたらしい人物『小野篁』を調べたりしていたんだけど(最初、夜に地獄に行ってたらしいんで、もしかすると夢の道を使ってたんじゃないか?と思った為)色々連想したんでそっちをうPしときます。彼の百人一首の歌『わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟』訳意=大海原と沢山の島々をも、ものともせずに船を漕ぎあなたに会いに篁が戻って来ますよ、とあの人に知らせに行ってくれないかな?その漁船でさ、by takamura,onono。 って、なんか悲しいってか侘しいぞ。

ジョハリの窓と浄玻璃の鏡
似た様な言葉であると思った。書くと判るが聞いただけでは混同してしまうかも知れない。ジョハリとはジョセフとハリーの名から取ってある。彼らは心理学者である。そのジョハリの窓とは自分の心にある4つの窓である。自分と他人の知る自分の人物像を『解放された窓』と呼び、他人が気付いていて自分の知らない面を『盲点の窓』と呼び、他人の知らない隠している自分の内面部分を『秘密の窓』と呼び、自分も他人も気付かない自分を『未知の窓』と言う。公開された部分=イメージの完全なる一致とも言う、の大きい解放された窓が大きければ、自己を曝け出す度合いが大きくストレスも少ないだろうって事だが、何でも開けっぴろげが良いとも思えない。(未知の窓を小さくするのは賛成だが)。『浄玻璃の鏡』とは閻魔大王が持つ鏡、の事。閻魔様は死者が悪行を隠蔽否認した時に、この鏡に亡者の姿を映すのである。すると、この鏡は死者の生前の本当の姿、生前に行った善行・悪行を余す所無く映し出すので、亡者の言い分と照らし合わせるのである。こうしてみると、どちらも自分の真実と向き合うという点で一致しているのは面白い。
地蔵と閻魔
親より先に死んだ幼い子供=10才以下、は賽の河原(三途の川の河原)で石を積まねばならない。石を積んで塔を作り罪の許しを乞うのだ。しかし、積み終わる頃に鬼がやって来て「父母の嘆きはこんなもんで済まされんわ」と突き崩してしまう。また最初からやり直しだ。そうして子供達は父母を思い泣きながら石を積む。こうした繰り返し地獄を見かねたのが地蔵尊。賽の河原までお出ましになり(巨大化している)袖の中に子供達を入れて極楽へと連れて行く。この地蔵が閻魔の化身だとされている。なので閻魔様の像の側には地蔵様の像もあったりするんである。ついでに地蔵様は道祖神と同じ役割と言うか混同していたりもする。が役割は微妙に違うと思う。道祖神は男女むつまじい姿の像が刻まれた石碑であるが、村の守りであり村の境界線・辻道などに建てられ外部からの災厄を入れない様にする、いわば弾く力を持っている。逆に地蔵は(今でもそうだが)その場に起こった不幸な霊を慰める=封じ込める役割を持つ。しかし、こうも考えられるかも知れない。道祖神は村に何も入れない代わりに何かを閉じ込める役割を持っていたのかも知れない、と。
閻魔王とは
ご存知の通りに地獄の裁判官(の一人)である。元々は人が死んだ初七日担当だったのだが、あまりに慈悲深いのが原因で五七日と担当替えさせられたのだった。何しろ死んだばかりの人間は、生き返りたいあまり自分がどれ位必要とされている人間であるか、この死がどれだけ不当か等々述べるので、閻魔様は同情してしまい生き返らせてしまうのだった。すると生死のバランスが崩れてしまうのでついに、死者が生き返るには体が腐って間に合わない時期の王と交換する事になったのである。閻魔帳なるものは、本当は初七日の時にその担当の王が『獄録』と言う死者の悪行を記した帳面に照らし合わせるのが裁判の最初の仕事だったんで、それを担当していた閻魔様の帳面で閻魔帳と言ってたんだが今は秦江王担当。次に二七日で初江王に裁かれ三途の川を渡らせられる。渡し場は三つあるとされている。ここには脱衣婆がいて渡し賃が無いと衣服をはぎ取られたりする。その衣は木に掛けられるが、衣は罪の重さになるので枝が折れたりすると、重罪であることの判断材料にされてしまうのだ。川には橋も架かっているが、悪人には細い糸にしか見えないので渡れず川の中を歩かねばならない。罪によって川の深さも変わるらしい。三七日は宋帝王。邪淫の有無を調べられ、ネコに体を噛み付かれ蛇に締め上げられる。四七日は五官王。量りによって生前の罪を量られる。五七日は閻魔王でここで大概の人間は引導を渡され終わる。罪が軽ければ軽い程に裁判の回数は少ない。二七日で終わる者もいると言う事だ。しかし、中には閻魔様でも裁ききれない悪行者もいる。その場合、六七日の変生王により五官王の量りと閻魔王の鏡を用いて再び裁決する。それでも決まらない極悪人は七七日。所謂四十九日。ここで最後に泰山王により最終決定がなされる。まあ、裁判の間には血の池とか針の山とか火の海とか色々あるらしいよ。勿論罪の重さによって苦しさは違うんじゃないかな?死んでから四十九日までとりあえず家族に供養してもらうと良いらしい。それにより情状酌量ってやつが発生するらしい。ただ、悪人は嫌われたり回りも悪人にしてしまい、そんな情のある事をしてもらえはずが無いので罪は重いままかもね。でも終わりじゃないよ、まだ百カ日には平等王と一周忌には都市王、三回忌には五道輪廻王が待ち構えている。その後の王は知らない。
道祖神と歓喜天
道祖神は男女一対の像である事が多い。これを見て思い出すのが歓喜天。歓喜天は元々はインドのガネーシャ神。そこでは障碍をもたらす悪神であったが、十一面観音の捨て身の行為(十八禁)により改心し善神となった。その時の姿として象頭の男女が抱き合う姿で表されている。欲望を満たした後の賢者タイムって所か?そういう不安定な状況なのだが、【単独の聖天を勧請するとご利益は凄まじい。ただし、禁呪になっている。徳の低すぎる者には与えてはいけない呪法=三摩耶とか言うらしい。聖天は七代の幸福を一身に集める程のご利益だが、この神は厳格過ぎてついて行けないだろう。何より不潔・怠惰を嫌い、悪人にはまず見向きもしない所か反対に罰してくれる。全てがマニュアル通りでないと機嫌を損ね、やはり罰を与えられてしまう。しかも、淫欲を抱いてもいけないし(=家系が途切れるのでその運を一身に集めるという訳なのだろうか?)、契約時の約束を破ると即死亡するので注意が必要だ。つまりまず善人であり、毎日風呂に入り毎日儀式を行い、やり方を少しでも間違えると罰が当たる、Hは一生できないだろうし、約束を破れば退場と言う事だ。しかし、ご利益は間違いない?んだろう。あと聖天のいる印に大根が使われるが、アレは改心する前大根と牛が大好きで供えさせていたが、牛が無くなると人の死肉を、死肉が無くなると生きた人間の肉を食っていた、という説話の大根が好物ってのが元になっている】大概は秘仏である歓喜天のご利益はその姿からか、一般的に夫婦和合と子授けである。この辺から道祖神の原点と繋がったのではなかろうか?

ちなみに名に天が付くのは天部と呼ばれ、元々はインドの悪鬼が調伏されて善神に変じたものである為、気性は荒々しい。この天部衆の直属のボスが明王達なのである。歓喜天を直属の部下としているのは軍茶利明王だそうである。彼は、根源的な生命パワー=愛欲に通ずを持つ。パワーの象徴型として蛇が用いられている。御利益は健康と災厄からの守護。そして恋愛成就。
喪中
上記で述べたように、死者を悼み成仏出来るようにと死の國の裁判官達に手心を加えてもらう為に、死んでから七日毎に四十九日まで冥福を祈り、色々とやらなければならないようであるが、取りあえず面子としては初七日=葬式にやってしまう事が多いが、遺族・親族・友人・知人で行う。それ以降は遺族のみだが、やはり五七日だけは葬式の時の様に親族・友人・知人も集めた方が良い。そして四十九日も同様である。しかし、意外に忘れ去られているのが、喪中である。神道の影響の強い日本では死は穢れなのである。四十九日までは忌中(=穢れている最中ですよ、の意味)と呼ばれ、昔は人前にも出られなかったのである。今は時代が変わったのでそこまで厳しくはないが、それでもどうかな?と思う事はある。年賀状を出してはいけない位の認識しか無いんじゃん?初詣はアウトだ。それから最低13ヶ月=1回忌後までは祝い事に顔出さない方が良いよ。結婚・出産・新築・開店・転居等等、各種祝い事の事である。まあ、それも半年位で地域や周りの人間性で臨機応変に、かも知れないが、ただ、親が死んだのに半年後に結婚する様な事は止めておいた方が良いと思うよ。出来ればね。『親が死んで間も無いのにおめでとうか、』と吐き捨てるように言われなくても、思われているのが普通。急死なら仕方ないけど、それ以外なら死ぬ前に前倒ししてあげれば良いのに、と思う。ってか、1年待てないってどーゆー理由?基本結婚したら、死ぬまで(嫌でも)ずっと一緒にいられるんだが。まあ、なんてゆーか土器ゅんですか、藁、どうでも良いけど。でも、実際半年位で結婚してやっぱりダメだった=離婚した、とか聞いちゃうとどうなんだろう?もっとも、やっぱり常識のない行為を平気で出来る人間だから(同じ職場で異性関係乱れまくり=不倫だったし、ちょっと…な人)結婚も上手く行かなかったって事なんだろう。子供も出来るのに…。良識がある人なら知識として一考されたし。
ガネーシャ 
インドの最高神シヴァの妃パールヴァティがシヴァの留守に自分の身体の垢から作った子供である。(亭主のいない間に産まれた子って…ちょっと疑惑あり?)それを知らないシヴァが部屋に入ろうとした時に、パールヴァティの入浴中の見張りをしていたガネーシャが咎めた為に首をはねられてしまう。それに怒ったパールヴァティに責められたシヴァが(ガネーシャの元々の首は遠くに投げ捨ててしまった為)通り掛かった象の首を刎ねて付けて生き返らせた、のが象頭のガネーシャである。しかし、象の頭が気に入らないと泣くガネーシャ(そりゃ当然か)に困ったシヴァは「神々のうちで最初にお参りされるのはお前にしよう」と言ったので機嫌を直したそうだ。ガネーシャが嫉妬深いから最初にお参りしなければならない、とか言われてもいるが、商売など何か事を始めようとする時に、まっ先にガネーシャに祈ると上手く行くと言う事を忘れてはいけない。ちなみにガネーシャは甘いものが大好きである為、甘い乾燥果物や饅頭などを供えると喜ぶ。

月に呪いを掛けたガネーシャ
ガネーシャが、誕生日に饅頭をたらふく食べて自家用車(のネズミ)に乗って夜道を帰る途中、蛇が出て来てネズミが驚きガネーシャが転げ落ちた。片方の牙を折り、腹が弾けて饅頭が飛び出してしまった。怒ったガネーシャは饅頭を腹に戻し割れた腹から饅頭が落ちない様にとその蛇を腹に巻き付けてベルトにした。それを見ていた月が大笑いしたので、ガネーシャは月に向かって折れた牙を投げ付け、そして「月を見る者にも災いあれ! 」と呪いをかけた。ガネーシャの牙によって傷つけられた月は欠けて行く様になった。困った神々の取りなしで、ガネーシャは呪いを解くのだが、ガネーシャの誕生祭りの行われる8?9月は呪いが復活するらしいので、ガネーシャを信仰するならその間は月を見てはならない。


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