★現代語訳
 上田敏「海潮音」より『鷺(さぎ)の歌』エミイル・ヴェルハアレン
ほのぐらき黄金隠沼(こがねこもりぬ)、
骨蓬(こうほね)の白くさけるに、
静かなる鷺の羽風は
徐(おもむろ)に影を落しぬ。
水の面(おも)に影は漂(ただよひ)、
広ごりて、ころもに似たり。
天(あめ)なるや、鳥の通路(かよひぢ)、
羽ばたきの音もたえだえ。
漁子(すなどり)のいと賢(さか)しらに
清らなる網をうてども、
空(そら)翔(かける)奇(くしき)翼の
おとなひをゆめだにしらず。

また知らず日に夜(よ)をつぎて
溝(みぞ)のうち泥土(どろつち)の底
鬱憂の網に待つもの
久方(ひさかた)の光に飛ぶを。

昔これが教科書に載ってたんですけどね。鷲の歌と題名勘違いしてました。サギだったんですね、ワシじゃなくて。
まあ、わかりづらいと思うんでだいたいの意味↓です。
うす暗い草木が枯れて黄金色に見える、うっそうと茂った沼地。
河骨=こうほね(睡蓮の様な水中植物の名前)、が白く咲いている場所である。
ゆったりとした鷺のはばたき巻き起こす風が 段々と沼地にその影を落とす。
水面にその姿が映り漂い、広がって布の様にも見える。
空なのである。鳥が通って来る道筋は 羽ばたく音も絶え絶えではあるが聞こえて来る。
漁師がとても知ったかぶりの男で
美しい網を水に向かって打ち、それを捕らえようとするのだけれども
空を飛ぶ神秘的な翼が自分の頭上で 音を立てているなどとは夢にも思わないのである。
一日中溝の中や泥土の底に向かって網を打ち 憂鬱になりながらも待ち受けているエモノはそんな所にはおらず 空の光の中を飛んでいるのだった。
『箱根八里』
箱根の山は、天下の嶮(けん)
函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小徑(しょうけい)は苔(こけ)滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ
八里の?根(いはね)踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士
これは文部省唱歌である。箱根の山という題名とこれまた勘違いしておりました。
=題名の箱根八里とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせたもの。と言う事らしいですね。
意味
箱根の山は、この世で一番険しいとされている場所である。
それは、中国の難所に作られた関所である函谷関ですら問題にならない位だ。
一万丈(三万メートル以上)あるんじゃないかと言う位高い山と、千尋(二キロメートル弱)はありそうな深い谷。
まさに目の前には山がそびえ立ち、後ろには谷が待ち受けている様な場所である。
雲は山を取り囲んでいるのでその頂上は見えず、霧は谷を閉
ざしており底が見えない。
そして昼でもうす暗いのは杉がうっそうと茂った並木道だからである。
羊の腸の様に曲がりくねっている小道は苔ですべりやすい。
だから、こ
こは一人の兵士が守備に当たるだけで一万人の敵が来ても関所を守り防ぎきれる位のすごい場所だろう。
それでも国中を旅していた様な豪傑の武士は、刀を腰に差し足には高下駄をつっかけて、八里の岩だらけの悪路をものともせずに踏みつけて平らにしてしまう。
こんな風だったのだろう、昔の武士というものは。

面倒なんで一番のみです。だいたい歌うのも一番くらいでしょうし。これ滝廉太郎でしたねえ。私は『花』(これはちゃんと題名を正確に覚えているよん)の方が好きだけど。
というか、むしろタキレンタロウって聞くと、つい『湯殿山麓呪い村』を思い出してしまう推理小説大好きな私なのだった。(判る人いる?かなァ)ということで
『花』
1.春のうららの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき

2.見ずや あけぼの露浴びて
われにもの言ふ櫻木を
見ずや 夕ぐれ手をのべて
われさしまねく青柳を

3.錦おりなす長堤に
くるればのぼるおぼろ月
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき

1.春のぽかぽか陽気の気持ち良い隅田川。
川を上ったり下ったりしている船の船頭さんの
操る櫂からこぼれ落ちるしずくが飛び散る花びらみたいに見える。
この眺めは何に例えたら良いのか?恐らく例えられないだろうね。

2.見なかったのか?見れば良かったのに。明け方の夜露に濡れて
私に物言いた気な様子に見える桜の樹を。
見なかったのか?見れば良かったのに。夕方の風に枝が揺れて
まるで手を伸ばして私に向かって『こちらへ』と招いている様に見えた青い柳の樹を。

3.様々な自然の色に鮮やかに彩られている長い堤防の上に
日が暮れると昇って来るかすむ月。
まさにこの景色は『春宵一刻値千金』ではないか。この
眺めを何に例えたら良いのか?恐らく例えられないだろうね。
隅田川って言ったら私は花川戸を思い出します。そこは浅草の浅草寺(せんそうじ)の雷門の向かって右へ右へと行くとすぐです。水上バス乗り場から歩いても近いし、(水上バスも乗った事あります。ヒミコ=漫画家の松本零士 氏がデザインした宇宙船のような水上バス、が出来る前ですが、川は流れていないのか色と匂いが淀んでいました。)あの辺りは靴問屋が目白押しなんで見なが ら(なぜか便所サンダルとか雪駄のイメージが強い店舗だけど)川の方に行っても良いのですが、まえーに行った時に川岸にブルーシート小屋が並んでいたん で、女1人ぶらつくのは怖くて断念した過去があります。今現在はどうだか判りません。花川戸は助六が有名らしいですが、わたしはアレね、花川戸と言えば花 川戸の夜太郎親分=あおい輝彦(おんな浮世絵・紅之介参る!)ね、ちとマイナー?藁。
★ゴジラ考
別冊映画秘宝 特撮秘宝vol.8 (洋泉社MOOK 別冊映画秘宝) と 別冊映画秘宝 新世紀怪獣映画読本 (洋泉社MOOK 別冊映画秘宝)、という本を頂き中身が映画『パシフィック・リム』礼讃とゴジラについて書かれていたので、ここはいっちょ『私にも言わせてぇな!』的な、笑。と言う事でお送りしたいと思います。【著者近況その23】の改変=私はKindleの著者紹介ページで、特に自身に特筆すべき経歴が無いので近況について、と称して色々書いているのですが、 2014年に書いた物の中に関連ありそうなものがあったので、ちょっと加筆もして怪獣モノ=ゴジラについて書いてみます。

 香山滋という作家をご存知だろうか?恐らく、『?』と思う人が多いと思うのだが、彼はゴジラの作者である。
 私は彼の作品を古本屋で買ったのが彼を知ったきっかけである。それは『ソロモンの桃』という題名の文庫本である。内容は非常に冒険的かつ幻想的 な作品、つまり伝奇ロマンに彩られた作品であった。一脈芥川龍之介のアグニの神(芥川龍之介・短編集に収録してます)に通じるものがある、と言えばどんな 感じかお判り頂けるだろう。
で、ゴジラの作者というのはそのソロモンの桃の表紙に、著者紹介欄が書いてあって知ったのである。
ということでゴジラ。
 最近はアメリカ版の日本的な造形のゴジラが出て来る映画が評判なので、邦画のゴジラ映画特集をテレビ東京(私はつい旧名の『東京12チャンネル』と言ってしまい笑われるが)でやっていたが、何とも言えないなあ。 元々の白黒版のオリジナルゴジラ(と呼ばせてもらうが、)の映画があまりにもあまりな作品だった。のでそれは越えられないだろうな、と思う。
 正直ゴジラの主題から結末までは、もうあの一作で完結しているのでこれを越える作品にはなり得ないのは判りきった事だからである。
 内容をざっとご紹介すると、水爆実験で眠っていた怪獣ゴジラが目を覚まし、しかも核の影響で突然変異まで起こし(口から光線=放射能を含む、が出て街を破壊)が海から日本に上陸し暴れ回る。手も足も出ない人類だったが、ある若い科学者の発明した薬品によって倒される。
(あまりにもざっくりした御紹介)というものなのだが、この若い科学者の発見とジレンマ=この発見はゴジラを倒せる、が必ず人類はソレを兵器に転用してしまうだろうという確信。
 このままこれを使わねば日本のみならず世界が破滅する、というのも火を見るよりも明らかである。
彼の出した結論はゴジラの死と発明の封印のために自らもこの薬品によって死ぬというね、生み出した発明の責任をキッチリ取ってる訳なのですよ。生み出しっぱなし、ではない科学というものを体現している。(これは心を持った科学なのだろうか?)
 しかしこれはキツい。科学者として人間としての良心に従って行動しているのだろうが、途方もなくやりきれなさが残る。後味は非常に悪いが、その 原因は複合的で環境破壊としての水爆実験の是非だの、諸々の対立する価値観がてんこ盛りだからである。かくして、この位の濃密なテーマでゴジラの続編が作 られた事があっただろうか?
 だが、そもそもこのゴジラの誕生の意味は、何であったのだろうか?文明の進化に人心が追い付かず、環境・自然を破戒しながら、急激な進歩を遂げる事への 懸念と罪悪感、だったのではなかったか?今の世の様に『エコ』ではなく、『エゴ』で肥大化する人々の生活、大切な自然、地球、それは我々の生活の場、それ らを壊している汚しているのが判りながらも、無力を言い訳に見て見ぬ振りをする事への、人間への自己刑罰の物語りなのである。ゴジラは我々の環境汚染に よって生み出された怪獣だ。ゴジラはそう言う点で見た場合は、明らかに被害者である。だから、【人間に刑罰を与える権利がある】のだ。怪獣が現れて我々が 攻撃される事の根底には、我々が何かをやらかしてその罰を受ける、という図式が横たわっている。そう見ると、ゴジラという存在は単なる悪役ではない事が判 る。
 それを怪獣のゴジラは悪、もちろん人類の脅威は敵であり悪である(のも単純に考えれば正しい)として早急に排除したい勢力と、ゴジラの 身上を踏まえた上で希少性と科学的な研究対象として、保護ではないが誕生の過程を探る事で我々の文明の弱点を知り、根本的な問題を解決したい、と考え闇雲 に排除する事に疑問を持つ【単純に目の前の脅威が無くなれば、問題は無かった事に、もしくは有耶無耶にしたり、問題などは先送りに出来るからだ。先の未来 ではもう責任の所在も曖昧に出来るし、責任者ですら自分には関係無いと言える様になるかも知れない。】老科学者の考えも、また間違ってはいない。脅威の排 除という点では共通しながらも、手法と考え方の差による対立があるだけだ。しかしそれこそがこの映画に深い奥行きを持たせたものになっている。単純には日本人の好きな悪と正義の因果律、がこのゴジラである。人類が地球という神の創造物に対して罪を犯した為に、怪獣と言う人智を越えた存在に罰を与 えられる、とそれがオリジナルゴジラには、ハッキリと描かれているのである。そういう物語だったのである。それがあまりにも曖昧というかむしろそれから目 を逸らしているかの様な作りになっている、と言わざるを得ない。以降はゴジラという存在そのもの、=肉塊とその攻撃力、のみに着目して作られた様な物語、 で私はむずむずする座りの悪さを感じ、どうにも画竜点睛を欠くものに思えてピンと来ないのである。
 そして、私は若き科学者が自己犠牲によってゴジラと運命を共にする、と書いたがここにもひとひねりがある。この科学者は将来を嘱望されていたのだが、戦争で負傷してからその傷跡を恥じて一人で引きこもり、世捨て人の様に研究を続けていたのだが、本人の望むと望まざるとに関わらず、最期に一花、死に花を咲かせたの である。(これはもはや散華思想じゃ無いですかー)死して名を残す、これも日本人的な、浪花節的な大衆の好きそうな筋立てである。
 大衆、その描き方すらもオリジナルゴジラは秀逸である。圧倒的なリアリティがある。ドキュメンタリーさながらに、弱き市井の人々の痛みと悲しみが描かれているのだ。他のゴジラは怪獣が出たぞ〜、えらいこっちゃえらいこっちゃと右往左往するだけの印象しか無い。 どう考えてもオリジナルを越えられる要素が無いな。
と思ってみると、この1954年に制作されたゴジラとそれ以降のゴジラとでは、どれもこれもまるで『2001年宇宙の旅』の続編『2010年宇宙の旅』が、偉大な前作の為のささやかな番小屋みたいな映画、と評されたのと同様の関係に思えるのだ。
 ちなみに、圧倒的な刑罰的な存在が我々を蹂躙する(だけの)物語、を描くのは自虐的な人間のなせる業なのであるが、投げっぱなしは良くない。と言うか、依 存し過ぎだろう。誰か、何かがその始末を付けてくれる、この状況を覆す何かを作ってくれるかもしれない。と他人に求め過ぎてるとしか思えん。そんなのて めーでやれよ、なのである。しかし、それが出来ない人間も存在している。私はね、そういうもの=対比する、この場合は災厄の全てが飛び出した後にひょっこり出て来た希望、で作り上げた光までを描けない様な中途半端で片手落ちなモノは、評価するに値しない、と考えております。 罰を受けるのは良いですよ。それは死刑で死んで終わりじゃどうなんだ?と言う事です。改心したら生きて生きて生きて、そしてきちんと罪を償え、償い続けろ命の限り!なのですよ。それこそが人々の救いとなる何かを成す、希望から作られた光、じゃないですか!
 そうでなければ、まるで怪人ばっかり出て、正義の味方が出て来ない仮面ライダー、みたいでしょ。そんなんだったらちびっ子だって怒り出すんじゃないか。と、判りやすく言えばこういう事です。
※映画は好きですが、怪獣が特に好きって訳ではありません。あしからず。むしろ…。私は最近タイ映画の『トム・ヤム・クン』(なんともなネーミングだ、マッハ程のヒットの声が聞けなかったのは この題名のせいじゃ無いのか?この位ふざけてるんならもう『エレファント&マン』で良いじゃん!)という映画を見た。のだが、これはタイ映画でヒットした 『マッハ』の主演男優が主演している映画で、マッハでの主題=仏像が象に変わっただけの大同小異な物語だった。(今タイの象が大暴れして車を壊すのが問題になっててニュース映像として流れていますが、ちょっとタイムリー?)が、それがいい、むしろそれで良いのである。王道的なストーリーでキッチリ押さえて、何を見せ場にするか判ってらっしゃる凄い映画だ。ゴジラシリーズも1954年のゴジラに萎縮せずに、そのままの筋立てで作っても良かったのではなかろうか?そう言った意味では、モスラのリメイクは良かった
★世界の超ミステリーシリーズ、今回の『UFOと地球外文明の謎』は写真も多くてかなり楽しめた。昔懐かしい話題から最新情報まで網羅されている。ミステリーやオカルト好きにはたまらなく楽しいと思う。
 二冊目の
ご紹介。個人的には、ムー民だった(月刊誌ムーの愛読者をムー民と呼ぶ)=昔雑誌のムーにハマっていた私はこの世界の超ミステリーシリーズ はたまらなく面白い。今回は宇宙人関連の『UFOと地球外文明の謎』である。私は林間学校のオリエンテーリングで裏磐梯=福島に行った際に、バンガローに 泊まったのであるが、バンガローから風呂場まで歩いて行った時、夜空の月をジグザグに円盤らしきモノが横切ったのである。ほんの数秒の事で友達何人かと歩 いていたのであるけれど、それを見たのは私だけなのだった。私は福島以北は(それ以降も)行った事が無かった。特に東北方面が怖くて怖くてたまらなかった のである。理由は判らない。が、こんな事言うのは非常に申し訳なくすまないが、あの東北大震災後はその恐怖が無くなったのである。だから岩手にも行ける様 になったのですよ。UFOは原発を狙っている、というか監視しているらしい、というのも聞いていたのだが、私が見てから2ヶ月後に臨界事故起こしてったっ ぽいから、そうなのかも知れないな。どうも長崎生まれなんで放射能には過敏になってしまうよ。色々周りでも聞いていたし。その後『神々の指紋』と いうものすごく売れた火星の超文明とエジプトのピラミッドとの関連性を指摘した本を読んだ事がある。この超ミステリー本も神々の指紋の内容とリンクする事 が書いてある。それは火星には地下都市があり蜂の巣の様な構造で何かが眠って、冷凍保存とか冬眠みたいに生きているのかも知れないという内容でかなり無気 味ではあった。私も以前はムー民だったので、オカルティーな事が好きでその頃に流行った寝ている時に体外離脱する方法というのを試していて、何度か夢なのか成功し ているのか判らない状況を体験したのですが、私は火星まで飛んだ夢?を見ました。夢での火星は赤く無かったです。紺色、濃紺色でした。それ見て私はこれは 原初の地球か?体外離脱失敗?元の地球に戻った?と思った途端に自分の体に叩き付けられるように引き戻されて、衝撃を受けて目覚めました。不思議とその後 は、幾らやっても体外離脱的な事は起こせなくなりました。火星に地下施設があるとして、思い出すのがトワイライトゾーンに似ているドラマ、アウターリミッツでロバートカルプが主演の『ガラスの手を持つ男』それを彷佛とさせられるなあ。←興味があったらググってね、はあと。後は何だろう?宇宙戦艦ヤマトかな?アレの目的は放射能除去装置=コスモクリーナー、を手に入れる為に宇宙の果てまで戦いながら旅をする話だしね。宇宙人は地球人が自滅するのを待っている。放射能の除去なんて雑作も無い事で、人間が死に絶えた後で地球を乗っ取るって、前にやってないか?って気がしたのですが。
※このテーマをもっと進めたのが特撮ではないアニメの宇宙の騎士テッカマンだろう。私がタツノコ作品見ていたのも1970年代までだったなと改めて気付く。
 ゴジラネタでも判るように、日本には原子爆弾が二発炸裂した過去があり、その阿鼻叫喚の地獄絵図を体験した為に、核には結構うるさいはずなのだが、廃棄物 に対してはあまりにも鈍感過ぎると思われる。それは、発展途上で切り捨てた清潔だとか正しいルールマナーなど、本来は守るべきものをあえて下に見てきたせ いである。人間って不思議なもので優しい人だとか大人しい人は後回しにしてクレーマーとかドキュンみたいな輩を、面倒だからと先に扱うよね。それと同様の 構図が昭和の成長期に起こったって事ですよ。それを今頭打ちになって始めて『エコ』とか言われても鼻白むだけなんだが。ゴジラで感じていた漠然とした不安 は、公害という形でちゃんとやって来てるんだよね。工場の垂れ流しで、東京湾ももうダメか状態まで行ったし、被害者を権力が黙らせたりもしたらしいし。あ のころは文明の発達の副産物である公害を怪物と言うアンチテーゼにして提供する事によって人々に議題を投げかけていたような気がする。昔、お子さま向けで 発表する事によって、それが今のエコに繋がっている(ちびっこ視聴者が成長した結果)のかも知れないが。で、特撮好きにはこのテーマで作られた作品で思い 付くのが、まず『スペクトルマン=宇宙猿人ゴリ』である。が、これは地球を侵略に来た宇宙人がそれを利用して怪獣を、って物語なのでちょっと微妙な所があ る。だが、他にもドストライクな物語がある。それは『コンドールマン』である。敵のバケモノ軍団の名前がゴミゴン、ヘドロンガー、スモッグトン、など社会問題そのままのネーミングなのからもお判り頂 けるだろう。ちなみに、シリーズものとしてこの作品の前には『レインボーマン』と『ダイヤモンドアイ』がある。レインボーマンはどうも好きになれない。こ の主人公が某クモ人間の映画2の主人公が自分個人の幸せか人々の幸せかで悩むのを、やってるからなんだよね。だけど何かもう、クモ人間が普通の人間として 生活してれば、欲しい幸せが手に入るのも描かれているんで、見ている方は切なくなるんだが、レインボーマンの主人公の場合は見ていて『そんなにイヤならや めちまえ、』と言いたくなるほどイラッとするんだよね。ダイヤモンドアイは広い砂漠のアラビア生まれの正義の精霊だし、魔人達もコミカル要素が入っていた し、大魔王シャザーンが好きだったんで(ダイヤモンドアイもシャザーンの様に、主人公が指輪のダイヤの精霊であるダイヤモンドアイを召還して戦わせるとい う作品であった)結構好き。この作品の主人公はペンは剣よりも強しというジャーナリスト魂と、使命感に燃える熱い男って設定も嫌いでは無い。しかし、やは り三作品の中では、コンドールマンが群を抜いていると思う。あのモンスター達は自らバケモノであると認めていて、その原因も人間達にある。人間達の欲望や 悪い行為から発生したモンスターであると明言しているのだ。つまり、我々が作り上げた我々の分身とも言うべきものが、悪をなし人間に罰を与えるもしくは産み出された事への復讐を遂げている様でもある。あまりにも強烈なのがそのエンディングテーマだ。モンスター軍団が踊り狂って地球の形をし たボールをわっしょいして弄んでいるのだ。これは子供には怖い。無気味なモンスター達が陽気にはしゃいでる様なんて、どうみても狂っトル、ではないか。逆 説的に怖さを証明している様だ。人の狂気から出来た狂った存在は悪でしか無く、それが滅びるのは人が滅びる時であるという事なのか。実際に最終回では大ボ スには逃げられているし、ダイヤモンドアイですら大ボスを倒したはずなのにダイヤには戻れず、新たなる脅威を察知して戦いに赴いてしまった。まるでいたち ごっこである。
★仏の顔も三度
 
お釈迦様が釈迦族と縁を切って出家なさり、その名声がかなり高まった頃のお話です。 コーサラ国の王も釈迦が偉い人だと考えて丁重にもてなしたりしていました。コーサラ王がふと釈迦に「比丘たち=出家した僧、は城の中では物を食べません。なぜなのでしょう?」と聞くと、釈迦は「比丘たちは家族か釈迦族しか心からの信頼を持っていないからです」と言いました。そこでコーサラ王は釈迦族から妃を迎えて、お釈迦様と親戚になろう!を実行しよう、と思いました。
お釈迦様の故郷の釈迦族の国、首都のカピラヴァストゥに使者を送って娘をコーサラ国へと送るようにと言いました。
釈迦族ではこれを聞いて大騒ぎ。いくら大国とは言え、プライドの高い釈迦族はそんな野蛮な国と縁続きになりたくありません。そこで、釈迦の叔父である(一応はお釈迦様の親戚)摩呵摩男(マハーナーマン)が奴隷の女に産ませた美しい娘(ヴァーサバカッティヤー)を送ることにしました。
コーサラ国王は喜んで娘を妃にして、子供が生まれました。
これが毘瑠璃王(ヴィドゥーダバ)です。毘瑠璃は、コーサラ国ですくすくと育ちましたが、8歳の時に弓術で有名な母の故郷である釈迦族の国に、弓を習うために留学することになりました。カピラヴァストゥにあるカピラ城では、その時ちょうど講堂を建設していました。
 一番最初にお釈迦様に来てもらってありがたいお話を聞きたい!と思っていました。ところが、毘瑠璃がその席=獅子の座と命名、に座ってしまったため、人々は驚き騒ぎました。毘瑠璃としては、王族つながりの自分が座る分には問題はないと考えていたのでしょう。
しかしこれを見た人々は毘瑠璃に「この卑しい奴隷のガキが、座るんじゃねえ。図々しいにも程がある」とか何とか罵った末に、席から引き摺り下ろして講堂の外に放り出しました。
そして大慌てで、水と牛乳を使って席を洗い清め始めました。
毘瑠璃王は自分が汚いもの扱いされたことに驚き、激しくショックを受けて『この恨み晴らさでおくものか!自分が王になったら必ず釈迦国を滅ぼしてやる!』と思いました。
 そして、側近の好苦というバラモンに「私が王になったら、今日のこの事を思い出させてくれ」と頼みました。それから毘瑠璃は国に戻りましたが、コーサラ国王の耳にも毘瑠璃の母親の事が知られてしまいました。そして王はあれほど可愛がっていた毘瑠璃も疎ましく思うようになり、親子を奴隷の身分にまで落としました。すると、お釈迦様が現れて「子供の身分は母親で決まるのでしょうか?私は父親で決まると思います。少なくとも釈迦国ではそうなのです。説明しな かった釈迦国も悪いとは思います。ですがこの女性もこの子供も父親が尊い生まれなのですから、こういう扱いを受けるのは良いことではありませんよ」と王に 言いました。
コーサラ国王は、釈迦が言うのだから本当なのだろう、と納得して二人を許し元の地位に戻しました。
そして、王が亡くなり毘瑠璃が王位につくことになりました。
すると好苦が王に「釈迦族にされたことを思い出してください。今こそ釈迦国に攻め入る時です」と進言しました。
王は「よくぞ思い出させてくれた」と言って早速、四部の兵(象・馬・車・歩兵)を集めました。
この時、お釈迦様の弟子の目連(一番の神通力を持った弟子)は、「毘瑠璃の兵を全て異世界に飛ばしてしまいましょうか?」とお釈迦様に言いましたが、お釈迦様は「お前にそのような事ができると思うのですか?」とおっしゃいました。目連も「仰せの通りです」と答えました。
そして毘瑠璃たちが釈迦国を目指して歩いていると、お釈迦様が一本の枯れ木の下に座っていらっしゃるのが見えました。毘瑠璃は「どうしてそんな樹の下にいるのですか?こちらの樹の下の方が涼しいのに」と言いました。
するとお釈迦様は「親族の樹の下が私にとっては居心地が良いのですよ」と言いました。
(その樹は釈迦国を象徴する樹で、毘瑠璃の言ったのはコーサラ国を象徴する樹。「どんなにみすぼらしくて、滅びそうでもやはり自分の生まれた国は懐かしいものです」と言う意味)その思いを汲み取り、またお釈迦様には恩もあります。毘瑠璃は兵を連れて引き返しました。しかし、国に帰るとやはり屈辱が思い出されます。好苦も責めるように言います。
毘瑠璃は兵を連れて釈迦国へと向かいます。目連は「カピラヴァストゥを空中に浮かべてしまいましょうか?」とお釈迦様に申し上げましたが、お釈迦様は「お前にそのような事が出来ると思うのですか?」とおっしゃいました。目連は「仰せの通りです」と答えました。これを三度くり返し、お釈迦様も三度樹の下にいらっしゃいました。毘瑠璃も三度、思いとどまりました。目連も「カピラ城を鉄の籠で覆って隠してしまいましょうか?」とお釈迦様に申し上げましたが、お釈迦様はやはり「お前にそのような事が出来ると思うのですか?」とおっしゃいました。目連は「仰せの通りです」と答えました。
そして、毘瑠璃が四度目に釈迦国を攻めた時には、お釈迦様の姿はありませんでした。
「もう、この宿縁は免れないでしょう。罪の結果を受けるべき時がやって来たのです」とおっしゃったのでした。釈迦国の兵たちは、毘瑠璃王たちを得意の弓で威嚇はしましたが、威嚇するだけだと察した好苦が「釈迦族は仏に帰依しているので、殺生はしないはずです」と進言したので、毘瑠璃はそのまま攻めることにしました。釈迦族はお釈迦様にどうしたら良いのか聞きました。
するとお釈迦様は「決して門を開けなければ大丈夫です」とお答えになりました。
ですが毘瑠璃は「用事があって来たのだ。門を開けなければ、皆殺しにする。門を開けてくれたら用事が済めばすぐ出て行こう」とだましました。釈迦族は、これを聞いて多数決で門を開ける事に決めました。毘瑠璃王は、カピラ城に入ると四部の兵に釈迦族を殺せと命じました。殺戮は酸鼻を極めました。首から下を埋めて、象に踏ませたり鋤で首を刎ねたりと、大虐殺を始めました。これを見て彼の祖父である摩呵摩男は毘瑠璃に「私がこの池の水の中に入っている間は、釈迦族が逃げても手出ししないで欲しい」と頼みました。祖父の頼みなので毘瑠璃は承知しました。摩呵摩男は、水の中に沈みましたが浮かんで来ません。
そこで兵に調べさせると、髪の毛を木の根に結んですでに溺死していました。それを見て、毘瑠璃は残った釈迦族を許しました。
と言うことで、釈迦族はほぼ実質的に滅亡してしまったんですね。
ちょっと考えて見ました。というのも、前に働いていた所で変則的な事態が発生した事がありました。私はそれを上の人に聞いて処理したんですよ。で、しばらく経ってからやはり似たような変則的な事態が発生しました。前にも処理しているけど、結構間違うと困る事だったんで、また聞いたんですよ。すると、意地悪い同僚が(大して仕事できない人)「それ前にも聞いてなかった?」とか言って騒ぎました。
それを聞いて思い出した
のか、聞いた人の態度が変わったんですね。(何度も聞いて使えねーやつみたいな態度がミエミエ)いやいや、二度はしょうがないだろう!と私は考えました。一度で分かるのは、相当頭の良い人だと思います。二度で分かるのは、ちょっと頭の良い人です。三度でやっと分かるのが普通の人。それでもわからない人は、問題のある人。
と私は理解していたので、これには納得が行かなかったですね。
 
仏の顔も三度と言いますしね。(ところが、三度目は無い、のように理解されているのは解せませんね。)これは手塚治虫先生のあの名作の「ブッダ」を読んでもらうとわかりますが、お釈迦様は三度なさったのですよ。 それでも、という事でお見捨てなさいました。(私も内容をすっかり忘れてましたが、南方熊楠の『詛言』でこの話が出てくるので調べて見ました。)その故事が、面白いのでご紹介しました。
 この話の様にお釈迦様は、三度までは忠告してるんですね。釈迦族を滅ぼした毘瑠璃も、結局はただでは済まなかったからです。お釈迦様は、毘瑠璃たちも七日後にはその罪の報いを受けるだろう、と予言してますがこれは預言です。こうしたらこうなる、と言うのをお釈迦様はご承知だったので、止めたのでしょう。
話がちょっと逸れましたが、人間一回の忠告で止まるほど上出来な存在ではない、のです。でも、三回も止められたら止まらなきゃダメ、と言うことです。同じく、三回教えられるまでに大体理解してできる様にならないとダメ。 四回は流石にまずいだろう、と言うことですね。だから私の二回は許されるはずだ、と言うモヤモヤをお釈迦様の故事で代弁させていただきました。
★沖縄開発の波

 かなり深くなっています。夏は水が冷たくて気持ち良いだろうなー、と思います。この日も10月とはいえ27、8度はありました。 川や海へ行く時は、最低限でも浮き輪は持ちましょう。ライフジャケットを付ければベストです、死にたくなければ付けてくださいね。
などと書いたのは、2015年に行った沖縄北部にある国頭のタナガーグムイという滝のある場所の写真です。この時は10月半ばだったので、誰もいねえ・・・。と言う独占状態でした。この滝の水が流 れている横の岩の上から飛び込んだり、左上の写真のターザンロープを掴んで木の根元あたりから飛び降りたりするんでしょう。私はやらなかったけど。水は澄 んでいるし海水じゃないのでベタつかないし、結構良いところでしたよ。降りて行くまでの道が険しいし、雨上がりとかだと滑ってやばいな、とは思いました が。この当時も若い米兵とか外国人がここに来て酒飲んで騒いだ後で、飛び込みをやったりという無茶もしていたので問題視されていたらしいですね。そして案の定、雨後の増水したこの滝で米軍女性が溺死してしまいました。ので、今現在2018年は立ち入り禁止になっています。
沖縄の北部にある古宇利島も、2015年はまだ穴場感がプンプンしていましたが、今ではこの薮みたいな草木は、丸裸にされてしまい、見晴らしが良いこと良いこと。 道路も綺麗に舗装されてしまい、車でのアクセスも簡単です。しかし、情緒的にはこの自然の残る姿がなくなってしまったのは、ちょっと悲しい。

 こちらは、個人所有の土地を観光客に解放して下さっていたワルミです。割れ目という意味ですね
 それがいまではこんな風に。この時(2016年)も観光客(中国人や韓国人の観光客なども)ひっきりなしに来ておりました。この中央の小さい岩の上に白い貝殻があって、お賽銭のようにお金が入ってました。謎でしたが、拝観料かもと思って私も100円置いて来てしまいました。 そういうのがまずかったのか、それともお金ではないものを観光客が撒き散らして帰ったせいなのか?ここも閉鎖されてしまいました。↓2018年のほぼ同じ場所の写真です。なんか怖いです。
閉鎖されたのに、観光客の乗った車がやって来ては引き返して行くというのを写真を取っているわずかの間に2、3台見ました。
 今回は沖縄の開発によって失われていく自然、そういえば聞こえが良いのですが、つまりは観光客側から見た穴場感、について書こうと思いましたが、そこに住 んでいる人たちからすると、大きなお世話だと思うし勝手に幻想を抱いて勝手に幻滅していると言われればそうなので、記録という程度にとどめておくことにし ます。
 今度の旅は長かったので、色々考える所がありました。嘉手納基地の近くの道の駅にも行きました。騒音の問題もありましたし。海中道路は島民の悲願であり、島民の手で最初は作られたのに石油資本のアメリカの会社にタンクを置く代わりに作っても らったとか、辺野古の埋め立て問題は、元々は小学生の女児が米兵に乱暴されて、沖縄人の怒りマックスを沈めるために普天間閉鎖がいつの間にか問題がすり替 わって移設にされてしまっていたり、アイヌの昔の暴動の元も日本人にアイヌの少年が殺されたのが原因だったり(武力で鎮圧)って似ている構図にうすら寒い 寒い。もうちょっとさ、地方とはいえ同じ日本のことなんだからさ、考えたほうがいいんじゃないかな?歴史が繰り返されるものなら、無視し続けたら私たちの 行く先はろくな事にならないよ。
 沖縄は車で行ける島、高速船で何十分で行ける島も多く、色々行ってますが斎場御嶽などは結局琉球王国の大王様のための祭祀場で、本土で言うところの伊勢神宮(皇室のための祭祀場)と同じであり、島々の御嶽は一般人のためのものでうんぬん、らしいです。 つまり、支配者階級のための祭祀場は補助金が出るけど、他はないと言うような現実的な問題もあるらしいですよ。
私は一人の人の発言を聞いただけですし、真偽の確かめようがない部分もありましたが、ある程度の信憑性はあると思います。現実的にの部分が特に。 それと、神が住むといわれる場所も禁足地でなければ、住んでるのは巫覡ではなくただの人なんで普通の生活感プンプンだし、と言うイメージと現実、その辺のギャップをみんながどう思うか?と言うのも・・・。
(当たり前っちゃ当たり前だけどさ、観光客なんて旅行会社なんかのイメージに乗せられてそれが目的で来てるわけだし、そこを現地の人を含めて観光 に携わってる人たちがどう考えてるか?だよね。観光地化してしまいたいのか、観光に来てもいいけど何もしませんよ、と言う立場なのか?わからないとこちら も行きにくい。民宿と書いてあってもゲストハウスだったりするから、宿の説明はよく読んでね。個別にトイレがないところは、ほぼゲストハウスでプライバ シーはあんまり、です)
★必殺うらごろし考
 最近、低視聴率でその存続を危うくしたと言う、必殺うらごろしの再放送をBSのテレ朝で放映しているのを見て思った。「これはやっぱり打ち切りもんだわ!」私の記憶の中では、そんなに悪い作品とは思っていませんでした。それは、私がその頃月刊雑誌のムーの読者だったと言うのも大いに関係していると思われます。
では、今になってなぜ打ち切りも止む無しと思えたのかと申しますと、元々の必殺のコンセプトと言うものが、人殺し、と言う生々しいつまり『恨みは らさでおくべきか!』の魔太郎少年のごとく不条理、理不尽な理由で正しいが貧しい市井の者たちが、力を持つ者たちの身勝手な欲望のために、暴力によって打 ちのめされたり殺されたりして全てを奪われる。それに涙を飲んでもやりきれずに身売りしたり残ったささやかな財産を売り尽くして仕事料と言う大金を工面 し、仕事人に殺しを依頼すると言う貧弱の身を呈しての反撃、という形のいわゆる様式美があったのですね。
それに対してこのうらごろしでは、先生と称する霊能力者が事件の真相を死人から聞いて恨みを晴らしてやる、それに毎回超常現象がくっ付いて起こると言う見ている側はまさに「ハア?ナニコレ?」状態だったと思う。こんなぶっ飛んだ作品見せられたら、そりゃ低評価ですよ。
じゃあ、私はムー好き(胡散臭いのにちょっと惹かれていた)とは言え、うらごろしのどの辺が好きだったのか?と言うとそれは市原悦子という女優の演技ゆえにハマっていたらしいのでした。
「おばさん」と呼ばれる女殺し屋のあの『まんが日本むかし話』の語り口そのままにのんびりとした喋りと殺しとのギャップの面白さ、チャラ男っぽい役の火野正平とのとぼけた会話の掛け合いが面白くてハマっていた、と言えます。全体的に見た構図としては、必殺というシリーズからは完璧に逸脱しているでしょう。ただ、殺しという生々しい現実を死人に頼まれて(死人に口無しが現 実)、というのは試みとしては面白いのかも知れませんが、これが必殺のシリーズの一つか、と言われるとそうだと言い切るのには非常に微妙です。
ただ、この市原悦子という一部を切り取って見た場合に、これは他のシリーズを圧倒する面白さです。この一点のために私の評価がグンと上がっていたのだな、という結論に達したのでした。
しかし、これはいろんな作品に良くあることです。
 同じ時代劇っぽいアニメのリメイクどろろの一クールを見て抱いた感想に近かったので、書いてみました。
どろろも今までの様式、妖怪退治の勧善懲悪モノからは逸脱していますが、目新しいものを目指すからと言って(一部分の皆が盛り上がる部分は確かに ある)、内容が支離滅裂では意味がない(ずっと後になって見返して「なんじゃこりゃ?」と言われかねない内容)というものになりかけています。今の所は正直、絵が上手いのでそれで何とかなっている感じが強いんですが、それだけで何とかなるほど甘くないと思うんですよ。
★無頼侍
 時代劇漫画無頼侍(ぶらざむらい)。[まとめ買い] 無頼侍
出てくる浪人が根なし草、あっちブラブラこっちブラブラするから、ぶらざむらい。しかも、狂言回し的役割で(この辺りは、最果てのサイクロプスの 語り手の役割を持つ、これも世間的に見ると底辺的な男、と同じである)本当の主人公?の圧倒的能力の観察報告者にすぎない役回りだ。
そしてこの男の最期は博打場なんかで下手打って斬り殺されるか、野垂れ死に。 良くて誰か情け深い無関係の人に死に水取ってもらうのが関の山である。
どうしようもない情けない男が浪人『鈴森岩十郎』ことぶら侍、なのであるがじゃあそれ以外はまとも?かと言うとそうではない。 人間は完璧じゃない、という格言の通りに一癖も二癖もある連中が出てくる。その癖というのも、環境がこれじゃこうなるよなー、から生まれついて持った性癖からこうなったんだろうな、まで様々である。 その無頼侍が目撃するのが、自分に家族殺しの罪を着せた相手を追い求める、その事件のために『妹殺し』という異名を付けられた侍『寛壱』。 相手を探しているのは、自分の無実を晴らすためではなく殺すため。(もっとも捕り方役人を殲滅させてるので、無罪というのはちょっと無理だろう。良くて名誉の切腹か。だからこその我が身を顧みない復讐劇を果たそうとするのだろう)。
 そうこれは復讐劇なのであるが、ところがドッコイ、これはそういう筋立てを楽しむ漫画ではないのだ。
私はこの漫画を読んだ時に、芥川龍之介の『首が落ちた話』を彷彿とさせられた。
スパッと主人公が首を斬った瞬間の、斬られた側の首が落ちるまでの意識にフォーカスしている。そしてそれが、たまらなく面白いのである。 斬られる人間が何を考えているか?なんて知るべくもないが、だからこそそういうものがウリだとすると、確かにこれは文学的手法も用いている漫画である。
私は前に、ゴルゴ13は実写映画化しても一つも面白くなる要素がない、と書いた。
似てるのに、スナイパーを描いた邦題『山猫は眠らない』という映画があるが、これはベケットという人間は謎設定でも何でもないので、ベケット自身についての描写がいくらでもできるし、そこに属しているアメリカの軍の上層部の政治的思惑が絡んだりと、物語はいくらでも膨らませることができ、実際にそういう物語である。
しかしゴルゴは身の上も語れないし、そもそも一匹狼でただの契約請負業だ。個人的な制約の上で物語を絡めるのもムリ!そしてあまりにも無言過ぎて、映画的には不向きだろう。だから、ゴルゴを映画化すると、非常に地味で面白くないものしか想像できないのである。ハードボイルドのくせに、漫画をそのまま映像化すると何のこっちゃだろう。
そして漫画と映画の大きな違いは、漫画で独白は面白いが、映画でそれやるとギャグやコメディ以外だとマヌケである、という点だ。無頼侍は、この漫画の特性、内面の心情の吐露する描写を最大限に利用している。
これが漫画ならでは!の点なのである。 ただし、ストーリー的には今イチどころか今サンだろう。
同じ作者の作品である、最果てのサイクロプスは、プロット的は非常に優れていると思うが、そのあらすじだけを追うのに一杯一杯なのか?と思わせるほど、描写不足である。必然性、説得性が欠けてしまったために、佳作で終わってしまった。
(サイクロプス繋がりで、つい、飯田譲治のキクロプス的なものを期待してしまったのだが、途中まではその要素も感じたが描写不足で尻窄みになった感が拭えない。)
話を戻すが、主人公寛壱はまず自分の復讐だけを考えている。というか、復讐のために生きていると言って良い。だからなるべく一人で居たがる。元々は優しい性格らしく、困っている人を助けたりもするので、関わってしまうのだが自分からは進んで人と関わろうとはしない。
それは役人を斬って賞金首になったので、賞金稼ぎを目論む輩が放っておかないためでもある。
しかし、この寛壱は鬼のように強いので、大概相手を返り討ちにしてしまう。
この鬼のように強いのは、元々剣技に秀でているのだろうが、復讐するまで死ねない、死なないと決めているからでもあるのだろう。
そして、彼は敵以外は興味もないし、無駄な殺生自体好まないので、どうしても斬らねばならない局面になると、ああまたかというため息をついて『うんざり、蔑み、憐れみ、』のない交ぜになった目で相手を見る、その顔の描写も良い。 無頼侍も寛壱がそんな目で自分を見るようになるのを怯えている。それが自分の死ぬ時だからだ。
ただ、この物語も敵の名を名乗る偽物が五人いるという設定なので、外れを引いては次の手掛かりを得て旅を続ける物語だったのかもしれない。 そうならなかったのは、物語に萌えやエロという要素が欠如しているから人気が出なかったのだろう。
 文学的要素が強すぎたせいかも知れない。 そういう部分で読者に媚びて売ろうとしない所は、硬派で直球だとも言えるが言い換えると青臭さのようなものも感じる。(なのに暴力的グロテスクは満載なのである。) 正直この作品は、売れなくても残る作品になりえたはず、なのである。五人の敵を求め歩くストーリーだったならば!ではあるが。
そして、その通りの物語で、そいつら五人の偽物が主人公の寛壱に首を落とされる時、何を思ったのか?それだけが激しく知りたいものだと思った。
[まとめ買い] 泣く侍
泣く侍、は逆にストーリー重視。小さい少女連れ。(無頼侍にも子供は出てきたが男の子たちだった。女性ももちろん出るが、直接的なエロ描写もない。無頼侍は確かにこれじゃ人気出にくいだろうな、と思うが私は逆にそこが良い)
泣く侍は徳川家によるお家取り潰しが題材。
復讐というよりは、武士としてのお家を守る使命感が行動の原理であるようだ。
話が大きいので隠れ忍びだの草だのと、得体の知れない者たちが敵になったり、別の味方が現れたり。外連味が効いているので、歴史好きな人にも受け入れられそうである。 よってこの漫画は話の筋立てを追って楽しむものなのだが、物語が進行するにつれ落とし所もだいたい見えてきそうである。 漫画的というより映画的と言った方が良いかも知れない描写。
三巻で完なのか?出版されていない。物語が佳境に入った場面で終わっている。エターなってる(未完っぽい)ので、私的には評価は無頼侍と比べて低い。
★学校の体罰
 テレビで芸能人がよく昔話して、先生からちょくちょく殴られた、みたいな話をするとテロップでますよね?今はやってませんよ〜、みたいな弁解のための字幕 ですが、肉体的暴力は確かに禁止はされて減ってるかもしれませんが、代わりに精神的な暴力がまかり通っていないかどうか心配です。支配というか、教育者は その場を支配して子供たちに言うことを聞かせる、ってことでしょ?例えるとボスザル。
この言い方だと賛否両論しちゃうかもですが、じゃあどういうものなのか?教えて欲しいです。わたしねー、モンペ、いわゆるモンスターペアレンツという学校へのクレーマーあの気持ちが少しわかるんですよ。なんでそうなるかと言うと、自分がひどい目にあってきたからですよ。だから自分の子もそんな目に遭わされたら嫌じゃないですか。だから過敏に過剰に反応するんだなあ、と気持ちはわからないでもないんです。
まあ、みんなもそういう嫌な思いをして大人になったんで、体罰とんでもない!ってことになったんでしょう。体罰しかたない、立派な大人になるためだ、と本 気で思う人が多かったら、今の世の中になってません。その気持ちがわかるという私も、ひどい目にあいましたよ。自分が何か悪いことをして叱られる、体罰を 受けるならまだ、まだ納得できますが、昭和の終わりの頃でもねえ、班割り、いわゆるグループを作ってその中で悪いことした者が出たら、連帯責任で殴られた んですよ。ある時、箒の柄でいきなり殴られたのはショックでした。周りのいきなり殴られた子たちもビックリしてて、よく見たら二、三人のクラスメイトが体 育館でボールを勝手に出して遊んでて、それが先生に見つかって、その場にいた者たちはトバッチリで殴られたんですね。 でも、それよりもっとひどいのは、クラスで仲のいい子同士でグループ作らせて、勝手に男子と女子をミックスしてそのグループの成績が悪いと体罰というね。
これも、今考えるとおかしな編成でね、優秀グループと普通のとそうでないのと色々いるけど、それなら学力を平均させるのが普通なんだけど、わざと成績悪そうなグループ作って見せしめにしたのですよ。成績悪いとこんな風に殴られるんだ、みたいな。
私は運の悪いことに、友達がスポーツはすごいけど勉強は、って人でそういうグループだったから、その上バカ男子グループ=嫌いでした体力有り余ってるのか、いじめ大好きな下品で卑猥なことばっかり言ってるような、グループと組まされてしまい、辛い小学校生活でした。 こうして恐怖で押さえつけるのが、簡単で効果的だから、教師は体罰でも何でも平気でやるんでしょうね。
人間は面倒臭いの嫌だしね。しかも、その先生はノリノリで、わざわざ自作でハリセンの硬くて大きいの作って持ってきて、ビビンタとか言って毎日そういう忘れ物したり、成績の悪い人とか殴るんですよ。うれしそうに笑いながら。
誰かしら、毎日殴られているの目にしてました。
それ女の先生でその受け持った二年間だけで、学校を転任していきましたけど。流石に問題になったんじゃないんですか?私たち子供には知らされなかったけど。やっぱり問題のある子(宿題やってこない、忘れ物多数、授業をちゃんと聞かないなどを全部やらかす子、で四、五人はいました)は週一くらいで殴られてたんで、親にしてみればたまったもんじゃないですからね。学校か教育委員会に言ったんじゃないですか?当時はそうすると告げ口とか、そう言う行為は嫌われてましたから、当時は大問題にならなかっただけで。今なら、一学期保たずに飛ばされてるでしょうね。
た だ、この先生もね、飴と鞭みたいな使い分けする先生でね、それがわたしにはよけい見え透いてて嫌でした。飴の方ですか?ボスザルのやることですから、面倒 見というか目が届いていたとは思いますね。優秀な子たちは褒めちぎってたし、そうでない殴られる頻度の高い子たちにも、休み時間とか声を掛けてて、先生は 味方だよ、的な。味方がバンバン殴るかよ!とその時からずっと矛盾を感じてたわ。おかげでテレビの先生が主人公のドラマが大嫌いだったわ。
(事実、金八もトシちゃんの教師びんびんも教師ものは一切見れなかったわ)
だから、恐怖でしか支配できない能無しには、リーダーシップのかけらもないでしょうから、私はそういう人間は根本的に信用しません。
 ポリネシアン地域とつながりがあるんですか?姉妹都市提携しているとか?愛知の火の舞とかいう、昔でいうと(今は禁止用語だけど、分からせるために言います)野蛮な土人の踊りを彷彿とさせる要するに、ただのたいまつ踊りしかも火を使うので当然危険を伴う
妹が東欧旅行に行った時に、ある村ではフォークダンスっぽいものに命を懸けてる、と言っても過言ではないくらいの取り組みだったよー、(それには歴史的な 話が逸話として込められている、かどうかは不明だけど、ニュアンスで多分そうだと思ったらしい。言葉があんまり通じなかったらしいから)と言うのを聞いた んだけど、日本にもあったとはね!驚き。 火の舞、も弥生時代ぐらいから連綿と続いてる、とかだったら恐れ入るけどどうせ近代のものでしょ?(神事でもないのに、火傷した人を「罰当たった」って言ったってアホ?責任取りたくないから神様に押し付けたとしたら、あんたの方がよっぽど罰当たりだよ)地域の仲間入りとかの、危険を伴う成人儀礼っぽい感じして気持ち悪い。
危険を共にした『仲間意識』によって繋がろうとする行為だね戦友に通ずる共通意識前時代的な気持ち悪さ(村社会の悪い部分)をマジ感じる、のは私だけだろうか?
●私のこの小学校の二年間の悪夢も、考えるとある種の実験なのでは?とすら思える。
なぜなら、中学で学力の二極化を引き起こす実験もされたからである。そうするとゆとり教育も実験かもね。