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メーテル、は変わらない
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私と999『2023年の追記』 漫画家の松本零士氏がお亡くなりになったので、懐かしく銀河鉄道999についての考察をちょっとしてみたいと思う。999はコミックスも持っていたし、テレビシリーズも映画も見た。(ただ、999を他作品に絡めた物語は見ていない。段々とキャラや世界観が錯綜してしまい、あまりにも混沌としてしまった『理解するのがメンドクセエ!』からである。) 考察してみた結果、昔は何となくで曖昧にしか感じていなかったモヤモヤが、年をとったせいなのか、こんな私でも人生経験というもののおかげで、正体が明確に理解できるようになり鬱憤が爆発してしまったのであった。 なぜ昔は何も感じなかったのか?それは私が少年ではなかったからだと思う。アレは少年のための物語なので、少女であった私には無縁だったからだ。 単純にいうと少年ではないので、メーテルというクールビューティに(近付きたいという)憧れはしても、鉄郎になりたいとは思わなかった、ということだ。 ではなぜモヤモヤしだしたのか?というと、自分がメーテルに近い年になった(メーテルは機械人間なので何歳かわからない)ため。 そして、私は残念ながらあれほど素晴らしい女性では無いが、メーテル目線で年下の少年鉄郎を見た時に抱いた感想が「これは無いわー」だったのである。 うん、そう。999とはまさしく少年の白昼夢、今流行りのなろう小説のテンプレ作品だったのである。 メーテルが完璧な男の子にとっての理想のお姉さま過ぎて、これは現代に移すとバリキャリな肉食系のお姉さまが、従順な男に癒ししか求めない関係性、つまりペット君として鉄郎を見ていたとしか考えられない、という身も蓋もない結果になってしまった。 これってつまりはギラ付いた企業戦士のおじさんが、若くて未熟でぼんやりした女の子を、まんまと愛人にして癒してもらおうと言うのとなんら変わらない図式、なのである。 普通の女なら鉄郎のような子供はあまりにも頼りなさすぎて、母性本能うんぬんで彼の面倒を見るとすると、もう男として見れないレベルだと思う。はっきり言うと我が子レベル?でしかない。 というか、メーテルの真の姿というのが、純真で根性のありそうな少年を騙して、機械の星に連れて行って部品にするのが目的で近づいてくる魔女!だったのだから、本当は騙される少年からすればたまったものではないだろう。 みんな(少年読者たち)がメーテルを嫌がらないのは、鉄郎以前の少年達には感情移入していないからであり、読者の少年達が鉄郎少年そのもの(鉄郎=自分視)だったからである。 なので最後の最後にその悲惨な事実を提示されてもピンと来ないのだろう。(これで鉄郎も部品にされたら本当にメーテルは裏切りの魔女扱いで可愛さ余って憎さ百倍だったかも知れないが)結局メーテルは他の少年達は部品にしてしまったのに、鉄郎=自分、の時だけはためらって助けてくれるので、なおさらに前の少年達の行く末は響かない。それどころか鉄郎だけが助かるという事実に優越感すら見いだすに違いない。 つまり素晴らしい女性の特別な存在であるのだからそれはそれは気分が良いに違いないということ。 しかし、そんなことも実は些末でしかない。 私がモヤるのは、鉄郎にそれだけの価値はあるのか?という点だ。たとえば同じちんくしゃの醜男とされたトチローでさえ、ハーロックにもひとかどの男と認めさせる才能を持っていたのに、この鉄郎は少年とはいえ何もない。どうやら特別な才能は、なさげなのである。そこをもう少しなんとか設定してくれればとは思うが、しかし考えたら大抵の少年というものは、平々凡々を絵に描いたような大衆に他ならないので、大多数の少年は多少得意なことはあっても、そうそう突出した才能に恵まれているわけでは無い。そしてそういうとんでもない才能があれば、鉄郎はたちまち向こう側に行き、少年読者たちは彼から離れて行ってしまうだろう。言い換えれば、読者の身代わりだから鉄郎は実に平凡な少年(たまに男特有の負けん気は出るけど、それも気の強い男なら持ってるレベル)でしかない、それにしかなれないのだろう。 旅の中でも特に何かに熱中して努力を続けることもなく、ピンチになったらメーテルやら他の実力者達が自分の命を顧みずに助けてくれるのだから、見ている方は普通に「これはおかしくないだろうか?」と思うようになるのである。 普通に大人が考えるとおかしなことになるので、作者の松本零士氏も最後の最後に勢いのような設定をぶちかましたのだ、としか私には思えない。 『せめて鉄郎が選ばれた本当の理由が最後の最後に明かされる、としたら鉄郎への対応の甘さも納得できるだろう』とそう作者は考えたに違いない。実際、肉部品という理由が明らかにされはした。しかし、やっぱり特別だったのか、こんなうまい話があるわけがなかったと納得できた人はいたのだろうか? それとも部品にされる運命を哀れみ、引き換えとしてせめて最期にいい夢を見せてやろう、的な気持ちで旅を快適にし大事にもしているというなら、それはそれで理由として理解できるが、そうなるとメーテルは読者達から非難轟々だろう。 結局物語は、部品にされる可能性を示唆しただけでなんとか誤魔化しているように思えてならない。何で哲郎だけが免れたのかの理由がやはりさっぱり分からないからだ。今までの少年達との差がわからないからである。 鉄郎はあくまでも他の肉部品になった少年たちと大差のない、平凡な少年なのである。というか、差を出してはいけないのだ。だからそれが急に最後の場面でものすごい秘密があり平凡な少年ではなくなった!としたら、物語の整合性としては納得できても、心情的に読者達は鉄郎を憎みこの物語にも手のひらを返すようになるだろう。その辺のジレンマを苦肉の策で部品云々という話にしたように思われる。 現実に目を向けると、容姿が今流行りとは違っていて、女の子にモテないと思い込んでいる人は、大人になるにつれて鉄郎に対して幻滅を感じ始めるだろう。 (たいていはどんなにモテないと思っていても、清潔を第一に誠実に生きて真面目に貯金すれば普通に恋愛も結婚も出来る。美貌の他には何もないから金を求めるタイプの女を求めたり、ハーレムのような身のほど知らずな恋愛形態さえ望まなければ) 現実では、神は自らを助けるものしか助けない。努力もしないやつに報いる事はない!ということだ。それを信じて努力していれば、意外となんとかなるし、それを実感もすることだろう。 反対に人を羨んだり憎んだりするばかりで、自分から目をそらし、自分を助ける=大切にしない、者には何一つもたらされる事はない、ということに最終的にたどり着く。 それを身を以て知ることになった元少年たちの感想は?どうだろう。 あれはおもしろい漫画だった。 という、ちょっとした良い思い出で終わるだろうか? 間違っても、鉄郎に嫉妬して欲しくはない。 なぜなら、それは少年の甘えや依存だけを拗らせたまま大人になったということで、その行為は他人の大人の目からすれば、実に大人げない事だからである。あのままの環境で育つと、鉄郎は他力本願のダメ男にしか成長しないと思う。そんなものを妬むような男には成長して欲しくないと思う。 大人の男は、いや、まともな人間なら努力に終わりはないのだと痛感しながら生きているはずだ。そういう人間からすれば、鉄郎の物語は荒唐無稽な夢のあるただのおとぎ話であったことに気づかされると思う。 自分が努力して何かを得る度に、鉄郎は棚ぼたのご都合主義の物語でしかなかったのだ!ということを知るのだ。 ちなみにこのベタベタに少年を甘やかす物語との対極にあるのがジョージ秋山氏の少年向け漫画(大人向けはベタベタに甘い。大人は金持ってるからか?それとも辛い現実の逃避を提供する意図があるのか?)とアニメのみなしごハッチである。(私は昆虫残酷物語・みなしごハッチだと思っていたら、残酷は付いていなかった!が付いていてもおかしくない内容だったのである) そもそも私見だが松本零士という人の本領発揮するのは、実体験も入っているであろう惨めで矮小な醜男の青春物語だったはずである。 これは私は女なのだけれども、読んで身に詰まされるモノが確かに存在していた。恐らくは青春の言葉の美しさとは真逆の、じめつく夜の闇に潜む暗部とでも形容したくなる、誰もが体験し持ち得る自虐的な哀しみなのである。思いとは、かけ離れた未熟さと無力感に打ちのめされた経験は多くの人が味わうものだと思う。 そのように惨めな物語の主人公にこそ己の身を重ね合わせることのできる稀有な漫画を彼は描いていたのではなかっただろうか? だが松本零士はそれと同時に恐らくは作者自身の羨望し敬愛するクールな男そのものをロマンチックに体現したキャラクター、ハーロックも創造している。 惨めな男が何をやっても冴えないのとは違い、全ての苦難を乗り越えられる強さを持った、まるで焼き戻した鋼のような男。男が、なりたいと願うようなパーフェクトな男、タフガイだ。 私は松本零士の描く惨めな主人公に共感を持ちながらも憎む人達も確実に出てくるだろうと思う。そのように漫画の中の主人公にいつしか自分を見いだし、それもコンプレックスをまざまざと見せつけられトラウマを刺激されてしまったら、やることは一つしかない。 主人公の抹殺である。嫌いなキャラクターを無き者にするのだ。 もう惨めな主人公の物語を描かせない。そのためのハーロックな気がして仕方がない。 鉄郎というキャラは実際、誰に変わっても大差ないだろう。ただし容姿を除いては、である。だから醜い小男、というその独特の特徴すらも奪われてしまったら、鉄郎に残るのは『無』だ。まさに読者の誰が鉄郎に取って替わっても違和感がなくなってしまう。 私はこの鉄郎の容姿の美化こそが、ある意味松本零士という漫画家の方向転換の分岐点だったのではないかと考えている。 つづく、かも知れない |
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