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【復活編までで終了している火の鳥】
復活編の後が問題作である元々の望郷編が続くはずであった。 しかし、それは描いてはならないテーマを含んでいた。勿論、被爆者の問題だ。 それは後述するとして、まず何故復活編で終了していたか?である。読んでみれば判るが、復活編までの物語と、それ以下の物語では全然違うのだ。 何が?と言うと人と火の鳥への、関わりによって紡ぎ出される人間の物語、そして火の鳥からの働きかけ方であり、それら物語の構成の違いである。 復活編以前は、火の鳥を主題に回って行く形で、人間の物語が動いていたが、復活編以降は火の鳥が出て来なくても、=火の鳥の出番をカットして読んでも、物語はちゃんと成立する。 つまり火の鳥が『不死を与えると言う役割を放棄』したと言う意味において、他の生物が代役出来るのである。そして『人々も自分の為に火の鳥を追い求めるのを辞め』た時に物語は崩壊した。 その様に描かれたのではないか?とも思われる。手塚治虫は思い通りの火の鳥が描けなくなったので、そういう構成にして鬱憤晴らししたのではないかと勘ぐってしまう程だ。 物語の最大の変化、それまで過去の物語では、人は火の鳥を追い求め、命を失う。そして未来の物語では火の鳥は特定の人間を選び不死にしたり、結果的に不死になる人間が出現していた。その様に火の鳥は人間の営みに深く食い込んだ存在として意義があった。 しかし、復活編以降それはない。 望郷編で大失敗している。火の鳥は人々が望みもしないのに勝手に介入しお節介オバサン化しているからだ。それまであった火の鳥の人の営みの輪から外れた存在、言わば解脱状態にあった火の鳥の神秘性が消し飛んだ。 人間の理解出来ないであろう理由の為に、理不尽な働きかけをしなくなったと言う事だ。 そして子供のムーピーが、地球で花に変わるのは、鉄腕アトムの水を求めて、地球にやって来た異星人の少女の物語と同じ終わり方で、ここだけ異様にメルヘン調に終らせた=牧村が星の王子様を朗読するのもそうだが、為にそれまでの火の鳥にあったある種のリアリティまで失わせる様な話になってしまった。 それから以降は、失速が止まらなくなったかの様である。なぜなら太陽編は物語的には、火の鳥が以前の様に傍観者だったり、お節介オバサンだったり支離滅裂な描かれ方をした話であり、第一例え火の鳥の出番を外して読んだとしても成り立つ話だからだ。 |
【恐れが熱望に変わる事もある】
では、手塚治虫が拘った、火の鳥望郷編とは何だったのか? 手塚全集のメタモルフォーゼに、鳥の話があった。 人間のある施設の、放射性廃棄物の混じった砂を浴びて、鳥が細胞変化を起こし異形となって行くが、鳥は己が強く変身した、という認識しか無く、怪物化し弱い鳥を力で支配する様な物語がある。それを彷彿とさせられてしまう。 放射能によって、突然変異を起こし活躍する話なんて、嘘っぱちでデタラメ過ぎる。 第一そんなのは、進化では有り得ないし、突然変異のミュータント=人間ではない、と言う事だろう。 そこには、差別のいやらしさしか感じない。被爆者の痛み苦しみ悲しみを思えば決して描けないはずだ。 なのに、何故だろう?その時代を知る者こそが、その主題を描こうとするのは?恐らく戦争体験、なのだろう。 それまでの、軍事国家としての日本の教育や思想が、核によって根底から覆されたのだ。 全ての価値観がひっくり返った事へのトラウマが、究極兵器としていつしか核兵器が、人類を滅ぼすという恐れを、常に抱かせたのであろう。 脅威から逃げる方法は、もう一度体験する事、最悪の事態を認識して、安心する類いの人間も存在しているのは事実である。 恐れ思い続ける事と、熱望する事のベクトルは、同等のものとなり得る、と言う事か。それこそが、いやらしくおぞましい、がそのおぞましさを描きたかったのだろうか?ならば納得するが、どうだろう? |
【焼き増し、続きの物語】
まず《黎明編》から見て行きたい。 卑弥呼は、女王として権勢を振るい人民を従えていたが、政情の変化を受け入れる事が出来ず、弟を退け追放し、また己の過去を懐古と女としての虚栄心より老いを恐れ憎み、現状を受け入れられずに、火の鳥の血を飲む事により若返ろうとした。 現実逃避の側面が強い。 しかし、ここでは明確に卑弥呼は『己の為に火の鳥を探し求めている』 少年ナギの兄も、火の鳥を求めて死んだのだが、妻の病を治したいあまり=愛情からである。 これは《乱世編》の平清盛が火喰い鳥=その描写から正体は孔雀だった、を求めるのだが、乱世編はこの黎明編の劣化版にしか見えない。 それは清盛が、己の為に若さを求めていると言える事は言えるが、一族繁栄の為であり、それは他人を信用出来ない為なのだ。 一族の繁栄の為には、自分が仕切らなければならない、と信じ込んでいる為である。 そうして他人を信用しないくせに、一族の為に、などとは矛盾している。 清盛のしなければならなかった事とは、自らが不死になる事ではなく,後継者を育てる事であった。しかし、不死を求めるなら自分一人で完結しなければならない。 子孫よりも、自分が長く生きるのだ。ならば、一族などいらないではないか? 元々権力者が、不老不死を求めるのは、今のままの地位を保ちたい、つまり権力者の言う永遠の意味とは今の自分にとって都合の良い境遇である時間だけをずっと止めておきたいという事なのだ。 もし本気であるなら、それを叶える為になら、続く子孫を生け贄にしようと、気にも留めないだろう。 ただ、人の上に立つ己の優位性と万能感、それらを味わう快楽を欲しているだけなのだ。 だが、己一人不死だとしても人は移り変わる、時代も。権力の保持は不死とは関係無い。 巨大帝国も、蟻の一穴で脆くも崩れ去らないとも限らない。下克上で墜ちた時、不死となったツケを払わなければならないだろう。 不死の化け物を他の人間がどうするか?続く虐待のおぞましさと、永遠に続く絶望感を想像するのは難しい事ではない。 不死の人間=バケモノ、が普通の人間と共に生きる事は出来ないのだ、と権力者はなぜ理解出来ないのだろうか? そしてもう一つ清盛とは関連があるが、直接的に関わらない物語、黎明編ではナギと猿田彦だが乱世編では弁太と義経との関係その絆に於いてが天と地程の開きがある。 猿と犬の友情物語に準えるにしても、弁太と義経2人の関係=絆があまりにも稀薄過ぎるのだ。 それにこれは清盛と義経との因果なので、弁太が入る事で訳が分からなくなる。 黎明編の侵略者である猿田彦は、滅ぼしたムラの生き残りナギを気紛れから、自分のムラに連れ帰り引き取る育てる。 当然、ナギは仲間の仇として猿田彦を狙うのだが、猿田彦は憎しみや欲でナギの仲間を殺したのではなく、ただ卑弥呼の命令で行ったに過ぎないのを知る。共に暮らすうちに猿田彦はナギが可愛くなり本当の息子の様に思え、卑弥呼の命令さえ拒否する様になるのだ。ナギもナギで猿田彦を慕う様になる。 この怨讐を越えて絆が産まれる過程こそが、人間を描いている事なのだと思う。 乱世編にはそれが見られるとは思えない。清盛がいかに成り上がったかの苦労話をもっと続けるか、義経が仲間を裏切るまでの過程をもっと描けば良かったのだ。つまり乱世編は主役が誰か今ひとつ判らず、物語の内容が散漫になっていると思うのである。 また、ナギはやはり生き残っていた姉が、猿田彦に手引きしてムラを襲わせた男の子供を産み、共に暮らしていたのを見て、激しく責め立てる。だが姉は言う。 滅ぼされても、また子供を沢山産んでまたムラを作る。自分が志半ばであっても、引き継ぎ子を産む人が必ず現われ人は増える。 確かに昆虫物語=みつばちハッチにもこんな話があったが、虐げられてなす術も無い人々の唯一の抵抗が、未来に繋ぐ命に希望を託す事なのである。 ウズメも言う。いくら征服されても、産んだ子供は自分の血と意志を継いでくれる。母系の子育て社会を念頭に置いているのであろう発言ではあるが、子供を洗脳するのは何時の世も母親である事を考えるとその通りである。 そして、《未来編》と《復活編》更に《太陽編》を見てみたい。 |
【繰り返しに封じ込められた物語。輪廻】
物語的には復活編が主題を読み解く場合1番スッキリし優れている。 未来編では、もう一つの主題にしたかったのか?ロックが出ているが、彼の背負うテーマが重過ぎる割に、行動に一貫性が見られない=描写不足なのである。 従順から裏切りへの翻意が、唐突すぎるのだ。それまでの葛藤が、一切ない為に手のひらを返す行動に、呆気に取られるばかりなのだ。復活編のロビタへの経緯の方が、まだチヒロとレオナのロマンスを軸にまとまっている。 太陽編のスグルとヨドミは、また宗教観が絡んで味付けされているが、男女の立場が微妙に変わったのみで、これらの焼き増しに過ぎない。 つまり、未来編主人公マサト=復活編主人公レオナ=太陽編ヒロインヨドミ=不死の人間。未来編ヒロインムーピーのタマミ=復活編のヒロインロボットのチヒロ=太陽編主人公スグル=人ではない者。 だが、太陽編では辻褄合わせの為に、過去と未来の物語の無理な結合に、火の鳥が利用されたに過ぎず、何故スグルが突然人で無く、獣になったのか=これひょっとして無自覚だったバンパイヤなんてオチでわないよね? ヨドミも不死の体になっていたのか?火の鳥はマサトの時の様に、いつの間にか関与していたか? 過去からの転生に、ヒントが隠されているのか?この下りに唐突感が否めない。 その正体は、過去の物語では変わってしまった火の鳥物語なのに、未来の物語はそれまでの火の鳥のスタイルを取っている為である。 なので太陽編に関しては、焼き増し物語である所だけ、ここでは理解してもらいたい。 火の鳥では、意図せずに不死になってしまった者=不死だが不老ではない(=火の鳥のもたらすモノはいつも何か不完全=人間の望みのナナメ上をかなえる、のである。単に死ねない者や、一定の年まで老いると若返る、を繰り返し永遠を生きさせられたり、人間の欲望の意図を完全に裏切るのだ。が、それは不死が人間に取って、実は不完全なモノなのでしかないという証明なのかも知れない)が主人公となっている。 復活編のレオナは、火の鳥の生き血を手に入れたが、使ってはいない。 それを使う事に躊躇いがみられたのは、逆に心の底から不死を望んでいたか疑問が残る。 マサトに至っては、不死にさせられた理由はおろか、経緯すら不明である。 本人は、不死になりたい等とは露程にも思ってはいなかった。そしてこの二つの物語の共通点だが、人と人ならざる者との結婚ないしは融合でもあろう。マサトは火の鳥の中で意識体となり、やはり火の鳥の中に取り込まれていたタマミと出会い一緒になる。レオナは記憶をチヒロに移し融合する。 ここで描かれている事は、人が不死になったとしたら、それはもう人間ではないし、人が人ではない者と一緒になるには、人を捨てなければならない。と言う事だ。 太陽編の犬上も、狼の皮を被って人として否定されていた間は、霊界にいる、人では無い者達と通じていた。とすると、どう言う事だろう? この火の鳥は、人ではない者を愛する事が、永遠の命を受ける資格がある、とでも言いたげだ。レオナの場合は明確に、最初永遠の命を求めたが、最終的に人ではない者と融合しなければならなくなった=人ではない者を愛さなければならない=と言う結果になった。 それは、永遠を求めた罰なのだろうか?だが、むしろ人が永遠を求めるならば、生物としての寿命には限界があるので、無機物との婚姻=機械化などがどうしても必要となる。 そして、そんな身体になった者は、もう人間とは呼べないのだが、お前はそこまでして生きる必要が、その覚悟が本当にあるのか?と言う事の喚起である様な気がしてならない。 そして更に、未来編と復活編を取り上げたが、続く太陽編でもまた同じ事を描いている。 恐らく未来編で未消化な部分を、復活編で描ききったのだが、太陽編では劣化版になってしまったという態である。 しかしここまで、焼き増しの物語を繰り返されると、むしろこれは2種類の物語が=火の鳥=不死を求める権力者の話と、求めもしないのに不死になった者の末路、それらを交互に輪廻でぐるぐる巡っているに過ぎないのが火の鳥なのではないか?と思う。 異形編の閉じた物語とは、実はこの火の鳥の物語自体を指すのでは?ないだろうか。 そしてそれを打破し、新しい物語が描かれた時にこそ、火の鳥の物語は閉じた世界から解脱できたのだろう。 |
【手塚治虫の宗教観と火の鳥】
火の鳥とは、元々は単純に因果応報という物語、過去と未来は繰り返しで、密接に絡み合って形作られている。 しかし、それだけか?というと、どうもそれに何かが、プラスアルファされているようである。 つまり、過去のみが、未来に影響するのではなく、逆もまたしかり、と言いたかった部分が、あるような気がしてならない。 恐らく他のマンガ『ブッダ』や『聖書物語』に影響され、触発されてしまった部分も、あるのは否めないのではないだろうか? いや、最初は火の鳥ありきで、火の鳥を執筆したがゆえに、人間の業に迫る宗教的な物語として仏教や、聖書に目を向けたのではあるまいか? そして、それらの影響を反映して、また火の鳥を描いている、のだろう。 密接に、これらの作品は、絡み合っているに違いない。 なので、もしかするとブッダでは描けなかった事が、火の鳥に描かれていたりするのかも知れない。 望郷編は明らかに、デミウルゴの地球創造神話が、下敷きの様である。 デミウルゴスは、三兄弟で兄2人が人間の創造をしたが、失敗し、三番目の神がようやく我々人類を創造出来たという物語だ。 ここに、削られたカニバリズム(人食い)が存在していたのも面白い。 生は食で長らえている。肉食は、他の生物の命を奪う、という行為である。 仏教では、殺生を禁じている。が、草も木も生きているとすれば、米も麦も食えなくなる。 それは |
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