各本の紹介の長さにばらつきがあります。

『オイディプス王』ソポクレス 岩波文庫
 オイディプス王、というよりスフィンクスの謎解きが有名でしょう。その答えとは" 人間" だったのですが謎を解いた時、彼はスフィンクスの" 命と引き換えの呪い" にかかったのでした。そして彼が答えたその時、彼はまさしく己を指差しながら言ったのであり、それは紛れも無く彼の運命そのものとなったのでした。彼の子供達の悲劇もスフィンクスの呪だとしたらすさまじい化け物である。 
スフィンクス-SPHINX-とは。女性の頭、犬の胴、ライオンの足、蛇の尾、鳥の翼、女性の胸を持ち人語を話す。
※ピラミッドのそばのスフィンクスについては、ギリシャ人がエジプトへ行った時に、ピラミッドの側の像が自国のスピンクスに似ていた為、そう呼ばれるようになったのである。本来の名はフウ(彫刻されし者)という。
★ギリシャ神話‥テバイ伝説によると同性愛の悪徳に耽るライオス王を罰する為に、女神ヘラによってテバイに送られ、街の西方の岩山へ陣取り通行人に謎を掛けて解けない者を取って喰った。スフィンクスとは元来、ギリシャ語で"絞め殺す者"という意味である。
謎「一つの声を持ち、二つ足にして、また四つ足にして、三つ足なるものが地上にいる。
地を這い、空を飛び、海を泳ぐ者どものうち、これ程姿、背丈を変える者は無く、これが最も多くの足に支えられて歩く時にその肢体の力は最も弱く、その速さは最も遅い」
答え。そして、オイディプスは額に皺寄せ暫しの間、瞑想したがやにわに見開き己を指差しこれに答えた。「答えとは、これ人間也」と。
【解釈】
1. しかしこの問いに答えられた人間は" オイディプス" で、答えの人間とは彼自身のことに他ならない。なぜなら、この問いかけの謎はそのままオイディプスの運命を詠んだものだったからである。 - 彼の運命- (スフィンクスの謎通りの彼の運命)三代の血は一つの楔によって打ち止められ、子にして夫、父にして兄弟であるオイディプス王。彼は近親の血を一つにしてしまった。そして自らの身を追放し、真実を知るや両目を抉りとった二つの災い。それは三つ筋の合わさる道の上で実父ライオスを殺して母を娶り、四人の子女をもうけた結果である。
2. スフィンクスはオイディプス王である。 - スフィンクスは彼(オイディプス)が謎を解いた時、断崖から身を投げた- 彼女(?)は余程自身の謎に確信を持っていたのだ。彼女の謎は不明瞭だ。一応の答えは" 人間" なのだが、しかしその中には" 一つの声を持ち" とある。とすれば答えとはたった一つ、いや一人の同性質のものでなければならない、と考えられなくはないだろうか。そして、彼自身を思えば謎は解ける。二つ足= 人間。オイディプス王がテバイの王位に就いていた時の姿。四つ足= 父王より足首に楔を打たれ(名前の由来でもある)二つ足(人間)である事を否定された姿。母と婚姻した獣性をも示す。三つ足= 盲目となり杖にすがり歩く姿。
テバイのコロス(長老達)の『見るに忍びず、聞くに耐えず、盲目にも聾唖にもなるがまし。』と言わしめた運命… オイディプスが自身を指差し" 人間であると" 答えた時スフィンクスは相当のショックを受けたのに違いない。決して解かれる事の無い謎を、それも当の本人が勝ち誇り「私だ」と答えたのである。ゆえに、ヒステリーと絶望にのめされたスフィンクスは自ら死を選んだのだったそれは、心に潜む獣性スフィンクス(象徴としての) = 自己の内なるものを制し滅ぼす事、で大いなる代償により再び人間性(テバイ)を束の間勝ち得たのであった。と言う事を暗示している様に思われる。
3.やはり答えは人間そのものである。答えられなかった者は、死んでいるのだ。すると、それぞれが自分である、と答える事が真の答えと言える。各々の運命すら知らない人間はスフィンクスからすれば、虫けら同然である。虫なら殺しても構わないのだ。

『サロメ』オスカー・ワイルド 岩波文庫
 サロメの義理の父はあの嬰児殺しのヘロデ王です。キリストがメシアになり、ユダヤの王となる。という預言に怒り狂い(この預言をしたことで王に捕まり、ヨカナーンはサロメに殺された)生まれたての赤ん坊をすべて殺させ、それを阻止しようとした。これはこれで凄まじい。しかも、物語では連れ子のサロメに横恋慕するロリータな親父だし。ヘロデ王のその話は確か聖書に載っていたはずです。それから取った物語なんでしょうね。
 欲しい物はどんなことをしてでも手に入れたいのは人情ではあるが、物と人を一緒くたにしてはいけない。好きな人の首だけもらっても… うれしいかなあ?狂気の恋、自分勝手は恐怖話になる、と言ういい例なのかも知れない。昨今ではあり得なくも無いし…。最も史実では真相はかなり違うらしい。(パブテスマのヨハネ= ヨカナーン、はヘロデ王が兄を殺してその妻と結婚したため、王とその妻を激しく非難した。そこで、后は娘のサロメをそそのかし、宴会の踊りのほうびとして王からヨハネの首をもらった、ということらしい)以前、オペラも見ました。テレビでだけど。サロメ役は大変技量がいるらしいです。そしてこの本のイラストがちょっと雰囲気がある。ゴシック系。以前、この画家オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの展覧会を見に行きました。ちょっとナルシー入ってましたよ。(自画像で)それを見てやっぱり「ナルシストじゃん?」と言って笑ってる人たちがいました(事実です)

『エトルリアの壷』メリメ 岩波文庫
 表代作よりもマテオ・ファルコネの方が知られていると思います。題名は知らなくても話は有名です。多分、 [ああ、あの話か] という位だと思います。気になったら借りて読もう。短いよ、この解説もだけど。更に、カルメンの方がもっと知名度が高いでしょう。この人の作品では。

『白鯨』メルヴィル何処かの文学全集
 この物語は長い、そして律儀に読む人は半分位かも知れない。私も何度途中で投げ出そう、と思った事か知れない。なぜならこの物語は……モービディークと呼ばれる白鯨と、かつてこの白鯨に片足をもぎ取られたエイハブ船長とで繰り広げられる長々とした血なまぐさい死闘、……などを期待するならば大はずれもいいとこ、だからなのだ。そういった物語の本文は最初と最後で全部で何十ページ、という規模の物語なのだ。で、何故あんなに分厚いのか、そして、そもそも何が主題か、っていう事よりもまず記憶に残っているのはまさに、くじらくじらくじら、くじらなのである。この本は鯨の研究書だったのである。(読んだ後映画の放映があったので、見た。スペクタクルな作りでこれはこれで見事だったが、本を読んで少し損した気分になるのも珍しい。ちなみに白鯨と死闘を演じるエイハブ船長役はグレゴリー・ペック。ローマの休日で準主役の新聞記者役だった人。小粋な紳士役から一転して荒々しい海の男を熱演!)たった一つ得たのは、アメリカ人はこんなに熱意を持って、捕鯨に取り組んでいたんだなあ。という、歴史的事実に関する感慨である。(今は捕鯨禁止なんて言っちゃいるが、自国の利益に関係無くなったからでしょうが)ちなみに主人公の名はイシュマエル。これもまた暗示的?ではあるらしい。(聖書では、子供のいないアブラハムが超高齢になり、やっと女奴隷に産ませた子供がイシュマエル。その後アブラハムと同様の超高齢の妻サラが90歳で妊娠・出産したため、サラはイシュマエルを邪魔に思って殺そうとした。が、イシュマエルは神様に守られる特別な子供だったらしく、無事に成長し、全アラブ人の先祖になりました)とあるので、特別に神様から目を掛けられていたために助かった、と言いたいのだろう。事実、物語のたった一人の生存者なのだから。

『モロー博士の島』H・G・ウエルズ 創元SF文庫
 何度か映画化されている。(ドクターモローの島、リメイクはDNA。ドクターモローの映画化の時に、宣伝に手塚先生がコメント寄せてたのを見ました)人を創造する話はフランケンシュタインを彷佛とさせ、亜流のようではあるが、人ならざるものより人を創るというのは一線を画している。この作者の存命中は荒唐無稽な事で、一昔前は勿論そうでした。でも、今は何でもありなので、ひょっとしてって気がしますね。遺伝子組み替えで、いつ似た様な化け物が誕生するとも限らないわけだし……。人の内には獣がいる、という哲学的な要素もあると思うのですが(アレイスター・クローリーの言う所の内なる獣のパワーを利用する、は逆の意味で面白いかも? そのパワーの凄まじさについて語られている)ただの化け物映画の様な作りは感心しませんね。それからこの作者のH・ G・ウエルズはオーソン・ウエルズがラジオで大騒動を巻き起こしたドラマの原作者です。あの、タコみたいな宇宙人(火星人)を考えた人でもあり、タイムマシンの概念を考えたSF界の原点の人でもあるのです。

『居酒屋』・『ナナ』エミール・ゾラ新潮文庫
 退廃的な物語。近代化の波、戦争の陰などの世相不安を通して、ある夫婦とその娘の転落をからめて描かれている、らしい。まあ、ようするに羽振りのいい時に浮かれまくっていると、年を取ったり情勢が変ったりすると誰も助けてくれない。って事が書かれているのじゃないかと思う。勢いのある時に、それまでお世話になった人を足蹴にしたり、いい加減に手を抜いた事をしていると結局見捨てられる、のはどんな事にも当てはまる当たり前の事なんだが… それがわからない恩知らずが多すぎるようだ。
 居酒屋・あらすじは、二人の息子を持つ女が内縁関係の夫(息子たちの父親)に金を持ち逃げされ、困苦にあえいでいると新しい男が出来ました。暴力を振るわないという条件で結婚して、夫は堅実でうまくやって洗濯屋を開業して大儲けして、娘も生まれてやっと幸せになれるかな?と言うところで、新しい旦那が怪我をして働けなくなりました。頑張って働いていましたが、夫は体が治っても働いてくれません。そのうち内縁の夫が帰ってきて、なぜか同居するようになり、夫が二人いる状態に。世間は当然許してくれません。ヒモが二人に増えてしまい、生活は苦しくなる一方です。そして、破局。金の切れ目は縁の切れ目で内縁夫はまた逃げ出し、暴力夫になり下がっていた旦那も病死。そして主人公の女も死後二日経ってようやく発見されるのでした。バカ女じゃん!な物語でした。
 ナナは居酒屋の主人公と二番目の旦那との間に出来た女の子が主人公がナナ。あらすじは、居酒屋で破滅的な両親を持ったために、ついにはその両親を見限って家出し、売春で身を立てていましたが、舞台女優として有名になり高級娼婦になりました。ものすごい浪費家で男に貢ぐだけ貢がせてポイ捨てだけど、一方では男にだまされて有り金巻き上げられた上に反対にポイ捨てされたりと、やっぱりあの女の娘だわという本領発揮して、失踪した挙句に天然痘に罹って死にました。
というドキュンはドキュンしか生まれないのか?と思いかけて、反面教師の人もいたわ、と考えさせられる話でした。マジ何なのあんたら?な話だった。

『初恋』ツルゲーネフ『林檎の樹』ゴールズワジー
 高校生の時に読み、良く意味がわからなかった。ただこんなふうに、人生は一度きりなんだから人に迷惑懸けても楽しまなきゃ損、と言う考えの人種(それを口にして実践している開き直った人)の登場は、当時珍しかったので目から鱗だった。なぜならその頃はまだ、悪はすべて断罪され切り捨てられ教育の名の元に抹殺されていた。真実を虚構の世界と偽る事によって、自らの手を汚さず、世の理、裏の側面を教える。それが文学。(だとすると、情報化の波によりリアルタイムに現実に否応なく曝され、全てが詳らかにされてしまう今、それらは本当に必要なのだろうか?)
 要するに、我慢しろだの人を思いやれだのと、自分を犠牲にすることが美徳みたいな風潮の世の中だったんだね。それなのに好き勝手に生きている人がいる、というのに衝撃を受けたわけですよ。まあ、結局その好き勝手野郎は主人公の父親なんだけど、主人公の初恋の少女を愛人にしたロクデナシだったわけですよ。(おい!親父ィ!!怒)これの描写が曖昧に書かれてるので、まだいたいけな高校生だった私には読み取れなかったんだね。つまりこの初恋という物語は、私の純情では歯が立たないものなのでした。
 そして、ゴールズワージィの林檎の木は一目惚れの愚かさ(非日常的な環境は人をある種の興奮状態に陥れ錯覚による疑似恋愛感情が生まれ易い)と、男女間の恋愛観の差(男はいつも逃げ出し、女は愛と思い込んだ感情に殉ずる生き物である)そして生まれ育ちは障害を越せはしないのが普通(男は慣れ親しんだ環境から容易に抜け出せない。愛のためでも貧困を我慢できない)かも… と知らされた苦い恋物語でありました。
 恋は恋で、結婚するにはまだまだ足りないものがある、と言う事なのでしょう。まあ、この話は女の方からすると玉の輿に乗れるかどうか、って状況でもあるから必死で食い下がるのかも、って考えると女の方は愛と打算で突っ走るしかなかったのだろうな。そう思うとちょっと哀れだ。